雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

 読書案内「下山の思想」 五木寛之著 社会が病んでいく

2019-04-20 08:30:00 | 読書案内

 
読書案内「下山の思想」五木寛之著
           幻冬舎新書 2012年1月 第五刷
     
   


社会が病んでいく

 

   すでにこの国が、そして世界が病んでおり、

   急激に崩壊へと向かいつつあることを肌で感じている……。

   知っている。感じている。

   それでいて、それを知らないふりをして日々を送っている。
              五木寛之著 下山の思想

  「世界はひとつ」、といいたいところだが現実は紛争の火種は消えないし、
 経済世界も一国主義がはびこり、貿易摩擦も一向に解決しない。
 相手国が関税を引き上げれば、これに対抗して関税が引き上げられる。
 結局、このような繰り返しは何の解決にもならず、
 互いの首を絞めあい、双方の不利益しか生み出さない。

 豊かな時代を求め、均整の取れた調和を保つために世界が努力してきたにもかかわらず、
 結果は混迷漂う生きづらい社会の出現です。

 調和の歯車がきしみを立てて歪んでいる。
 力のバランスが崩れれば、その被害に遭うのはいつも弱者です。
 持てる者(強者)はいつも恩恵を享受し、持たざる者はいつも不安を抱えることになります。
 
 不都合なことは、『知らないふりをして日々を送っている』と五木寛之は言う。
 そうした傾向の裏には、ある種の諦観が発生する。
 「…どうせ」とか、
 「そんなことを言っても…」等々である。

  だから、著者は次のように述べる。

 

   明日のことは考えない。

   考えるのが耐えられないからだ。

   いま現に進行しつつある事態を、直視するのが不快だからである。

   明日を想像するのが恐ろしく、不安だからである。

   しかし、私たちはいつまでも目を閉じているわけにはいかない。

   事実は事実として受け止めるしかない
                  
                       五木寛之著 下山の思想   

「夢よ再び」。
 繁栄と成熟をもう一度、昔日の夢を追いかけるか。

 再びの経済大国を目指すことはできない。
 ヨーロッパ社会は100年以上もかけて高齢社会を迎えたが、
 我が国はたかだか20年足らずで高齢社会に突入してしまった。
 この歪みが私たちの社会を先の見えない不透明な社会にしている。
 介護費は年々増大し、国民皆保険制度の根幹を危うくしているし、
 追い打ちをかけるように、人口は年々減少し、
 少子高齢社会はこの国を、過去にないほどの窮地に追いやろうとしている。

 成長神話はとうの昔に崩壊してしまった。
 先が見えないから、身の回りの小さな幸せを維持するのに汲々してしまう。
 みんなの幸せではなく、私が幸せであればそれでいいという、利己主義が
 蔓延しているのかもしれない。

 頂上を極めた者はやがて、下山しなければならない。
 下山とは、敗者の思想ではなく、
 次の高みを極めるためのステップなのだと著者は言う。

 新書版のこ本は、誰にも理解できるエッセイ風の軽い内容で構成されている。
 時代の流れを把握し、私たちは今、何を考え行動しなければならないか。
 そのヒント、或いは道しるべとなれば幸いである。
 また、若い人にとっては、「人生論」として読むこともできる。

    (2019.4.19記)      (読書案内№139)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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春陰

2019-04-15 17:54:27 | ことの葉散歩道

  春陰
   何となくもの憂い、花曇りのことを「春陰」というのでしょうか。
   広辞苑第7版では、「春の曇りがちな天候」という説明で、味も素っ気もありません。
   別の辞書では「春の曇り」「花ぐもり」「春がすみ」などが確認されましたが、
   どうもこの「春陰」にはもっと深い意味があるのではないか。

   そこで、明鏡国語辞典の「春」と「陰」の項を引いてみました。
   ありました。
   「春」には「愛欲」とか色情などの意味があるようです。
   「陰」には「人目につかない」とか「かくされたこと」などの意味があるそうです。
   
   この二つの意味を見事に表現した小説がありました。
   「失楽園」です。

   
   春陰というのか、少しもの憂い花曇りの午後である。
    まだ開花には少し早いが、この暖かさで、桜は一段と蕾をふくらませそうである。
    そんな気配の街の中を、久木は電車の吊り革に持たれて凛子の待つ渋谷の部屋へ急ぐ。

                       「失楽園(下)」 渡辺淳一著 「春陰」の章より    

   渡辺淳一の小説「失楽園」は、単に季節を表す言葉ではなく、
   互いにひかれあいながら、添い遂げることのできない男女が
   性愛に溺れていく様を克明に描いて一世を風靡した。
   
         抜き差しならない不倫の渦に翻弄される男女。
   逢瀬はいつも互いの肌と肌を合わせる行為は、愛欲に溺れ、
   光の見えないトンネルの中で不安におびえる獣のように
   互いの肉体に溺れていく二人の関係は、
   愛する心を「春」に例えるならば、性の行為はまさに「陰」のイメージとして
   浮かんでくる。

   失楽園の「春陰」の章は次のように終わります。

  
……「もうじき桜が咲くから、桜を見て、桜の宿に泊まろう」

  「いいな、嬉しいわ」
  凛子は、久木の胸をピタピタと叩いて喜びを表すと、すいと喉元まで手を伸ばす。
  「約束を守らないと首を絞めるわよ」
  「君に殺されるのなら、満足だ」
  「じゃあ、絞めてあげる」
  凛子は久木の首に当てて絞める仕草をするが、すぐあきらめたように手をゆるめる……
  
  ……凛子の声はどこか気怠げで、その唇は、
  春陰の中で散る桜の花片(はなびら)のように軽く開いている。

  春の朧は、何となくもの憂く、散る花びらにものの哀れを感じる。
  春がすみに溶け込む櫻花はどこかなまめかしい気配が漂っています。
  
  日本語っていいですね。

  「春泥」という響きも好きな言葉の一つです。
  今東光が「春泥尼抄」という短編を書いています。
  河内の貧農家庭に生まれた尼僧「春泥」の奔放な半生を描いた物語です。
  「春泥」とは、春の雪解けや霜解けなどによるぬかるみのことですが、
  春泥という名の尼僧の人生に投影させた今東光の短編は見事です。

  (2019.4.15記)     (ことの葉散歩道 №46)

 

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児童虐待 警察庁発表の統計から考える。

2019-04-01 17:30:00 | 昨日の風 今日の風

児童虐待 警察庁発表から考える
     社会の歯車が軋(きしみ)を立てて不協和音を奏でている
 
 警察庁発表によれば、
虐待によって命の危険など、
緊急の対応が必要とされ警察が保護した18歳未満の子どもは
4,571人に上った。

 (朝日新聞・2019.3.15)
 図を参考に見て欲しい。

 警察に緊急保護された子ども
  統計を取りはじめた2012年……1611人から右肩上がりに増え続けている。
    2014年(2034人)→2015年(2024人)
            2016年(3521人)→2017年(3838人)
                         2018年(4571人)
   統計を取りはじめた2012年から毎年増え続け、昨年は2.8倍に増加した。

 
 虐待の疑いがあるとして警察が児相に通告した子ども(通告児童数)

    統計取りはじめ2006年(1703人) 通告児童の数も右肩上がりで増加。 
        2010年(9038人)→2015年(37020人)
                 2017年(65431人)
                 2018年(80252人)
        2010年の通告件数から比較すると実に47倍の増加率です。
                       過去最多のありがたくない記録です。
 
 最後に虐待死の件数を見てみましょう。
 警察庁発表の虐待による死亡児童の数を掲載します。
   2003年(103人)→2004年(100人)→2005年(83人)→2006年(111人)→
   2007年(90人)→  2008年(98人)→  2009年(75人)→2010年(67人)→                              2011年(72人)→   2012年(78人)→  2013年(62人)→2014年(53人)→
        2015年(58人)→   2016年(67人)→  2017年(58人)→2018年(36人)
     2018年の虐待により死亡した児童36人の内訳
       無理心中…… 8人
       出産直後…… 6人
       上記以外…… 22人(一般的に表現されている虐待による死亡)
     ピーク時の103人と比較すれば死亡人数は三分の一近くに減少しています。
     36人の虐待児童が多いのか少ないのかは考え方の違いによります。
     私は、36人もいると考えます。

  前述したように通告児童数が80,252人もいるのです。
  2010年から統計が始まり、年々増加し実に47倍にもなった現実があります。
  この80,252人のうち4571人が保護され、1394人が児童虐待事件で被害に遭った
  子どもたちです。
   
   警察庁は事件が増えた理由を
   「社会の関心が高まり、情報提供が増えている中で徹底した捜査を進めているため」
   とみているようですが、
   どの数字を見ても過去最高の記録になっています。
   たまたま表面に現れた36人の虐待死亡事件ですが、
   潜在的に虐待の恐れのある児童が4571人も存在するということです。

   すべての統計項目が右肩上がりに増加の傾向にあるのは、
   ただ単に「一般的な関心の高まり」や「情報提供の増加」と考えるのは
   短絡的で安易な考え方だと思います。

   冒頭で示したように、社会の歯車が軋(きしみ)を立てて不協和音を奏でているように
   思えてなりません。
   経済優先を掲げてきた社会構造のひずみが、
   社会的弱者や繁栄の路線からはじき出された人たちに
   襲いかかっているように思うのは、私の取り越し苦労なのでしょうか。
   
   いつの世でも最初に傷つき、痛い思いをするのは弱者なのですから……。

  (2019.4.1)       (昨日の風 今日の風№93)
  
             
                                    
                                                                                                                                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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