雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ⑤

2023-07-30 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇  通達文書に示された隠された疎開の理由

 県から各学校や役場等に届いた『学童集団疎開準備に関する件』という

通達文書に示された集団疎開の目的として、

『戦時中といえども少国民の教育に差し支えないようにするため』という他に、

『県内食糧事情の調節を図るため』とあった。

 つまり、急激に増員された10万人の兵隊の食料確保のために、

10万人の学童や学校関係者及び保護者を県外に疎開させるという、

帳尻合わせの学童疎開でもあった。

 あまりに急な要求に、学校関係者や保護者達は戸惑うばかりで、

希望者はなかなか集まらなかった。

『残っているより行ったほうがよい、たとえ敵が上陸してこなくても、空襲はあるでしょう。

空襲されたら、那覇なんか吹っ飛んでしまうだろう』

 さまざまな噂がささやかれたが、

『これは国策ですぞ』という一言に、学童疎開時の募集には、

有無を言わせない強制力が潜んでいた。

  もう一つ隠された目的として、なるべく成績優秀な児童と引率の教師にも

優秀な者を選ぶという不文律がありました。

もし、沖縄が全滅したとしても、優秀な沖縄(日本)の血すじを残すという、

沖縄が激闘の戦場として民間人をも巻き込んでしまうことを暗に認めた事例です。

 
  戦争とはかくも人を狂わし、ばかばかしい計画を作戦と称して大真面目に実践に移してしまう。

 戦争という非日常の中で、人間の中に潜む『狂気』が、

 無限に拡散され、無力の民が犠牲になっていく。
                                      (つづく)

        (語り継ぐ戦争の証言№29)             (2023.07.29記)











 

 

 

 

 

 

 

 

 

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ④

2023-07-23 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ④

     学童疎開船『対馬丸』 撃沈に至る経緯 ②
   真珠湾奇襲攻撃          1941(昭和16)年12月
   ミッドウェイ海戦    1942(昭和17)年6月 この海戦で日本は多くの犠牲を余儀なくされ、戦況は
                    劣勢になっていく
   サイパン陥落    1944(昭和19)年7月 (学童疎開船「對馬丸」出港・撃沈まで1年)

 1944(昭和19)年7月7日、サイパンの日本軍が陥落した。
本土防衛の「防波堤」である絶対防空圏の一つであるサイパンが米軍の手に落ち、
日本本土はB29・重爆撃機の爆撃圏内に入った。
 サイパンが陥落すると各地に派兵された兵隊が、米軍上陸に備え沖縄に進駐してきた。
当時、人口49万人の沖縄に10万の兵隊が集まってきた。

 59万人に膨れ上がった沖縄の人々にとって不足するものは何か?
小さな島では食料の生産性も極めて低く、本土からの食料の移送もままならず、
沖縄決戦を推進するにはあまりにも脆弱な食料体制だ。
 本土防衛のための最後の砦となる沖縄に集められた兵隊たちの食料確保は、
何としても実現しなければならない最重要事項であった。

 以上の戦況のもとで、
日本政府はこれから戦場になる沖縄から、九州に8万人、台湾に2万人の疎開が計画された。
命を守るための疎開政策の裏に、
食糧難の状況を打破するために計画された「学童集団疎開」計画が立案された。
  ※ 台湾疎開について
     台湾は1683~1895年までは清国の支配下にあったが、1895年日清戦争に勝利した日

     本が台湾の統治権を得た。以後約50年間(1895~1945)、台湾は日本の支配下にあっ
     た。日本の支配下で、道路、鉄道、上下水道、電気などのインフラ整備も行われ、
     教育は日本語で行われた。植民地の台湾への疎開が計画されたわけです。
     植民地支配は第二次世界大戦で日本は敗戦国となり、統治権を放棄した。
                          (つづく)

 (語り継ぐ戦争の証言№28)          (2023.7.22記)

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ③

2023-07-18 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ③
  学童疎開船『対馬丸』 撃沈に至る経緯

 1941(昭和16)年12月8日未明、日本は真珠湾を奇襲した。

 第二次世界大戦の始まりだ。

 日本軍の真珠湾攻撃から数時間後、アメリカ海軍省は、

 無制限潜水艦戦の命令を出した。

 当時、潜水艦や飛行機で無差別に商船を攻撃することは、国際法で禁止されていた。

 しかし、命と命のやり取りの戦争が始まれば、

 国際法や条約は戦争を前にして無視されてしまった。

 結果として、宣戦布告なしの『奇襲』という攻撃になってしまったことに対し、

 アメリカはその報復として、「無制限潜水艦戦」を発令したと思われる。

 「パールハーバー リメンバー」をスローガンに、

 ミッドウェイ開戦でアメリカは劣勢を回復していった。

 

 日本軍の暗号はアメリカ軍によって解読されていた

  戦争が終わるまでに撃沈された日本の商船は、全部で890万総トン、2534隻になる。

 記録によれば、商船を最も多く沈めたのは空母艦載機等の飛行機ではなく、潜水艦だった。

 広い太平洋の海域を、敵の船を求めて潜行しても発見することはなかなかできない。

  アメリカ潜水艦は自分の担当の海域をパトロールしながら、ハワイに拠点を置く「太平洋艦隊

 潜水艦司令部」の指示を受け、攻撃目標を決めていた。

  潜水艦によって一番必要なのは、敵の船がどんな船団を組んで、何時、

 何処の海域を通過し、何処へ向かうかということだ。

 圧倒的な資源に基づく戦力を有効に実践に結びつけるために、

 アメリカには暗号を解読する通信解析部隊があります。

 当時、ハワイの潜水艦司令部には、

 1000人を超えるスタッフが、

 傍受した日本海軍や商船の暗号を解読・翻訳していたと言われている。

  1943(昭和18)年の春、戦況を左右することが起きた。

 沈没した日本輸送船から、船舶暗号書を米軍がひきあげ、

 暗号解読に成功すると、

 沈められる船の数が急増したと言われている。

                   (つづく)
 
 (語り継ぐ戦争の証言№27)   (2020.7.12記)

 

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ②

2023-07-11 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ②
  海底に横たわる対馬丸
  1997(平成9)年冬。
 深海探査機が海底の沈んでいる船を探し当てた。
 場所は鹿児島県トカラ列島の悪石島(あくせきじま)沖。 
 水深870㍍の光のない暗黒の世界。
 探査機のサーチライトの光に黒く大きな物体が徐々に浮かび上がってくる。
 やがて、光にとらえられた物体がその正体を現してくる。
 穴の開いた船が永い眠りから覚める瞬間である。
 探査機が近づく。
 暗くよどんだ海底のなかで光がとらえたものは三つの文字だった。
 濁った海水を通して浮かび上がる文字。
 『對馬丸』。
 カメラは海底に横たわる船をとらえる。
 腐食が進み魚の住み家になっている船。

  1944(昭和19)年8月22日22時23分、
 悪石島沖にて沖縄の学童疎開船「對馬丸」が撃沈から53年ぶりに姿を現した瞬間であった。
 船は那覇から長崎へ向かう途中、
 鹿児島県・悪石島の北西約10㌖の地点を航行中、
 米潜水艦ボウフィン号の魚雷攻撃により、沈没した。

                                  (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№26)  (2023.7.9記)

 

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ①

2023-07-08 18:28:29 | 語り継ぐ戦争の証言

       海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ①
  戦後78年が過ぎた。
 本土では一般的に、太平洋戦争の終戦記念日は8月15日と言われている。
 そのせいかどうか、沖縄の「慰霊祭」の記事は、全国紙を含め、記事の扱いが小さく、関
 心の薄さを如実に感じさせる紙面構成である。
 
 沖縄では昨日6月23日を「慰霊の日」とさだめ、太平洋戦争末期の沖縄戦犠牲者を悼む式
典が沖縄県糸満市の平和記念公園で開かれた。
 日本全土にある米軍基地の70%が沖縄に集中している。
本土決戦を前にして、日本軍は
10万人の兵士を沖縄に送った。
小さな島に10万の
兵士が送り込まれる。
兵士たちの食料や宿舎はどのように確保されたのか。
不安と混乱の中、不平や不安を口にすれば、
「これは、国策ですぞ!!

と有無を言わさぬ強引さで本土防衛のための「沖縄決戦」が進められた。
 太平洋戦争で唯一、地上戦が展開されたされ、
多くの民間人が戦闘に巻き込まれた。
制海権も制空権も失われ、孤立無援の沖縄。
無数の米戦艦からの艦砲射撃が行われた。
「鉄の雨」とも「鉄の暴風」とも言われた艦砲射撃で多くの沖縄県民が
犠牲になった。

 お年寄りや子ども、女性を沖縄から本土に8万人、台湾に2万人疎開させることを政府や軍が決めたのは敗戦濃厚になった1944年7月だった。
 米軍上陸が迫るなか、この学童疎開船『対馬丸』の計画の隠された目的は、
軍の10万の兵士の食料確保であった。
戦況は切迫し、近海ではすでに多くの船が沈められていた。
 1944年8月21日18時35分、対馬丸は、台風接近による激しい風雨のなか、那覇を出港した。


 対馬丸の乗客の多くは、日本郵船の貨物船を軍隊輸送船として改装されていた船倉に居住することになった。船倉への出入り口は階段一つと緊急用の縄梯子があるだけの
出入り困難な状態であり、後にこの構造が、犠牲者を多くした原因の一つともいわれている。(ウィキペディア参照)
                                        (つづく)

 (語り継ぐ戦勝の証言№25)       (2023.7.4記)

 

 

 

 

 

 


 
 

 

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