雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「喜びは悲しみのあとに」 上原隆著 (2)

2017-08-31 08:30:00 | 読書案内

読書案内「喜びは悲しみのあとに」上原 隆(2)

 一生懸命生きて
  悲しみのあとに喜びは訪れるのか。
  努力が報われる日が訪れることを願いながら読んだ。

復讐のマウンド
  近鉄小野(当時28歳)はある日突然、戦力外と通告された。
 球団代表の言葉は冷たかった。
 「近鉄球団はまったく君を必要としていない」。

  ドラフト一位で近鉄に入団した。
   入団3年目に14勝をあげ、
 その後毎年11勝、10勝、12勝と二けた勝利をあげ続け入団6年目12勝をあげ、
 近鉄を優勝に導く。
 だが、左腕速球派投手栄光の花道もここまでだった。
 日本シリーズを前にして肘を痛めた小野は、手術後の一年を棒に振った。
 2年目に復帰し12勝の好成績を残した。
 「復活」と誰もが期待した次の年、今度は肩を痛めてしまう。
 再度の手術と2年間のリハビリに耐え、
 小野の故障は回復した。
 すでに、入団から10年が過ぎ、来年こそ活躍するぞ。
 そう思っていたときの突然の戦力外通告だった。


  野球以外に生きるすべを知らない小野は、
 プライドを捨て、過去を捨ててテスト生で、西武に入団した。
 だが、彼を襲った試練の波はふたたび彼を襲う……。
 「なんとしても俺を見捨てた近鉄に一泡ふかしたい。
 そのための今日の近鉄戦は復讐のマウンドだ」。
 思いとは裏腹に、勝利の女神は彼に微笑まない。

  夢を追いかけ、どれだけ努力をしたら報われるのだろう。
 人生における大きな賭けだ。栄光の美酒に酔い、
 テスト生や二軍落ちしてもくじけなかった彼を、妻も支えた。

 喜びはやっぱり悲しみのあとに思いもかけないプレゼント彼に送った。

 近鉄を追われて5年後、彼に救いの手を伸ばした球団がいた……
                             (読書案内№104)    
 (2017.8.28記)               (つづく)


 

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読書案内「喜びは悲しみのあとに」 上原 隆 著 (1)

2017-08-29 08:30:00 | 読書案内

読書案内「喜びは悲しみのあとに」上原 隆著 (1)
     一生懸命生きて
  悲しみのあとに喜びは訪れるのか。
  努力が報われる日が訪れることを願いながら読んだ。

 この本は、読書案内「友がみな我よりえらく見える日は」(2017.04.30付ブログで紹介。読書案内№98)に続くコラム・ノンフィクションである。

 悲しみのあとには、必ず喜びが訪れると信じて、今日という日を精一杯生きよう。
 どこか悲しげだが読んでいて、それぞれの主人公を応援したくなる一冊だ。

 ブックデーターから紹介(要旨)

  重度の障害を持つ子どもの父のハードボイルド作家、倒産した地方新聞社の元記者たちの
  困難な再就職への道を追う、「子殺し」の裁判ばかりを膨張する女、突然戦力外を通告さ
  れるプロ野球選手など辛く苦しい人生を背負った18名が登場する。

 ロボットの部屋
  小林満26歳。
ごく普通の青年の部屋だがたった一つ異なることは、
500体の超合金ロボットのおもちゃに囲まれて暮らしていることだ。
普通のサラリーマンがなぜこれほどまでにおもちゃのロボットに執着しているのだろう。
幼稚園の頃のオモチャを今も大切に持ち続けている。
彼が小学一年生の時両親が離婚をした。
彼は東京の家から、横浜の母の実家に預けられた。
週に一度母は彼に会いに来た。
その度に彼は母に連れられてデパートに行った。
彼の欲しいものはロボットだった。
毎週毎週、彼はロボットを買ってもらった。
彼はなぜロボットに執着したのか。
後年彼は次のように答えている。
「語りかけ易いんですよ。
どれが一番強いかとか、やさしいかとか、それぞれに性格付けして遊んでいました」

彼は寂しかったのだ。
心を許し話し合うことができたのは、ロボットだったのだろう。

5年ぶりに別れた父に再開した。
彼は5年生になっていた。
彼はやっぱりロボットが欲しいといった。
「まだこういうものが好きなのか」と父が呟き
、 その表情は少しがっかりしていた。
彼は悲しかった。
唯一自慢できるロボットは、彼の淋しさを癒してくれるおもちゃだつた。
彼はそれを父に見せ自慢したかったのだ。

こうして彼は何度か父との感情のすれ違いを経験しながら大人になっていくが、
もはや父にも新しい家族ができ子どもがいる。
彼が父に会いたいと思うほど、別れた父は彼に逢いたいとは思わなかった。
父には新しい家庭ができたのだ。母も再婚した。

彼はますますロボットにのめりこんだ。
「あなたにとって、ロボットってなんですか?」

ロボットに囲まれた部屋の中で彼は答える。
「僕は、自分が家庭を持ったら、子どもをぜったいひとりにはしないって決心してるんです」

答えた彼の手には、小学校6年生の時に、再開した父に買ってもらったゴーグルロボが握られていた。
                                                                                       (読書案内№103)
     (2017.8.26)                                
  (つづく
)
            次回も「喜びは悲しみのあとに」から掌編を紹介します。  

               






 


  

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児童虐待 最多12.2万件 (3) 施設と里親制度

2017-08-27 08:30:00 | 児童虐待

児童虐待 最多12.2万件
            (3)施設と里親制度
 児童相談所(児相)が昨年度、
児童虐待があるとみて対応した件数は12.2万件であり、
虐待の件数が年々増加しいることは(1
)触れた。
いままで表面に現れていない事例が、
社会の意識の高まりから通報や相談が増え、
表面に浮かび上がり、
子どもを救える機会が多くなっていることは確かだ。

しかし、リスクの判断を誤り、命が失われるケースも少なくない。

  
  
虐待で亡くなった子どもの人数
     2011(年度)   2012   2013   2014   2015 

      58+41       51+39     36+33   44+27    52+32 (心中以外の死+無理心中)
        99人       90人     69人            71人     84人 (合計)
親元を離れて施設などで暮らす子どもへの、
施設職員や里親による虐待も少なくない。
例えば、2014年度に62件あり、86人が被害に遭っている。
種々の理由があって、
過程で暮らせない児童の受け皿としての機関が虐待の現場になってしまう痛ましい現実がある。
児童にとってより家庭に近い生活環境の提供の場が里親・ファミリーホームなのに、
ここでも虐待が起きてしまうところに、
「制度作って魂入れず」

ということになってしまう。
 また、しばしば問題となる支援機関の連携が不十分で虐待を見抜けなかったケースも多い。
 

  
8月18日の朝日新聞では、三重県児相の取り組みを評価している。
  評価シートの導入
 「理由不明の傷やあざがある」「子どもが殴られているのを通告者が見た」など15項目に一つで
 も当てはまれば、一時保護を検討し、保護しない場合は理由を必ず記録しいる。

    (この15項目シートについては、三重県の児相に資料提供をお願いしたのだが、外部者に公表はしない旨の回答を得ました)
 また、機関情報誌「エミール」を発行し、市民への児相の取り組みの理解と啓蒙に努めているようです。

「一時保護」は、単に虐待のある児童を保護するということではなく、
保護者と話す機会を作り育児や子育ての悩みを聞き、
支援の足掛かりとすることが肝要です。



 最後に里親に関する費用についてお知らせします。


  
里子を委託されると支給される手当

里親に支給される手当
  里親手当     養育里親に月額72,000円(2人目以降 36,000円)
  里親委託支度費         42,600円(1件につき)

  レスパイトケア費         5,500円(一日につき)

 里子たちのために出る公費(養育費)
     児童一人を里子として預かると一般生活費として47,680円
   
         子の費用を、「こんなに貰えるんだ」と思わないでください。
里親としての苦労、気遣い、
そして24時間何があっても、
自分の子どもと同じ対応をしなければ里子と里親の信頼関係は築けません。
愛着行動を経て育ててきた我が子以上の気遣いと努力が要求されるのです。
我が子第一主義の若いお母さんたちの多い日本で、
里親制度が定着増加していくには時間がかかると思いますが、
児童が生き生きと育つ健全な社会の支援施策として必要不可欠な制度だと私は思います。
 参考までに、児童一人を養護施設で預かるには、
事務費、事業費をあわせるとこれ以上の費用が掛かることを記して最終回とします。
                                     (おわり)

      (2017.8.25記)  (昨日の風 今日の風№77)

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児童虐待 最多12.2万件 (2) 里親制度の積極的導入

2017-08-25 08:30:00 | 児童虐待

児童虐待 最多12.2万件
     (2)里親制度の積極的導入

生きずらい社会になっています。
そして、このことは現在進行形で社会の底辺で生きる人々をむしばみ始めています。
色々の理由があって社会の流れに乗れずに、孤立してしまう弱者が増えています。

「予期しない妊娠」「望まなかった妊娠」。
どちらも当事者にとっては大きな問題です。
本来こうした問題は当事者の男女が対等の立場で解決に当たるのが原則ですが、
沢山の事例から浮かんでくるのは、
負担の大きな部分を女性が背負ってしまうという現実です。

 独りで生きるには寂しい男と女は、
快楽のみを共通点として同じ屋根の下で生活を始める。
互いの人格を認めながら生きていくことを放棄してしまえば、
「妊娠も子育ても負担以外の何物でもなくなってしまいます」。
子育てを放棄し、遊びに行ってしまい、
幼児が餓死に到る痛ましい事例も珍しくありません。
これを、「奔放で無責任な親」として非難しても何の解決にもなりません。


 底辺に埋もれていってしまう人たちを支援する仕組みを作っていかなければ、
児童虐待の問題は解決しません。

 厚労省は児童虐待の実態を発表するとともに、「厚労省方針」を発表した(7/30)


 児童虐待などで親元で暮らせない子どもの受け皿について、
就学前の子どもの75%以上
就学後の子どもの50%以上を里親とファミリーホームに担ってもらう新たな目標を公表した。

 児童虐待などで家庭で暮らせない子どもの受け皿については、
その大半が児童養護施設などの施設が担っているのが現状です。
現状を数字で示すと以下のようになります。
   対象児童の数は2016年時点で約4万5千人  
         受け入れ先(15年4月時点)を見てみよう。
      児童養護施設や乳児院…………76.4%
      グループホーム………………… 7.9%
      里親・ファミリーホーム………15.8%

           (現在はファミリーホームを含めても15.8%しか利用されていない。
              アメリカなどと比べると、里親制度の活用率がとても低いようです)。
  以上のような現状を踏まえて厚労省ではおおむね5~7年以内で、
  里親・ファミリーホームの活用率を、就学前児童70%、就学後の児童50%以上の目標達成をさせ
  る計画です。
  この指針は「社会的養護の新しい在り方を議論する有識者検討会」に示し、了承されればすぐに導
  入される。
   しかし、この考え方に問題がないわけではありません。「有識者検討会」がどのような結論を出
  すか注目したいと思います。
          (つづく)
              次回は施設と里親制度について述べたいと思います。
 (2017.8.23記)    (昨日の風 今日の風№76)
     
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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児童虐待 最多12.2万件 (1) 何かが狂っている

2017-08-23 08:30:00 | 児童虐待

児童虐待なぜ増加する
 児童相談所対応最多 12.2万件
  全国の児童相談所が2016年度に対応した児童虐待の件数は12万2578件で、
 前年度より1万9292件(18.7%)増えている。(朝日新聞8/17夕刊)

 統計を取り始めた90年度から26年連続で過去最多を記録している。

 これは重大な社会現象ではないか。
 法改正があって、一般の私たちにも虐待を見つけたら通告の義務が生じたこと。
 人権や児童福祉の関心が高まり虐待への関心が高まったことなどが、
 増加率を高めている一因だと言われています。

 しかし、26年連続過去最多の記録を更新するほどの増加率は異常です。
 社会そのものの在り方が正常な生き方ができないほど、
 軋(きし)みを立ててゆがみ始まっているのではないか。

 虐待の内容
  心理的虐待……6万3,187件(+1万4,487)
  暴言や脅しなどで面前DVも含む
  身体的虐待……3万1,927件(+3,306)
  ネグレクト……2万5,842件(+1,398)
  性的虐待  ……1,622件(+101)
              (面前DV:ドメスティック・バイオレンスの中でも、
     親が子どもの目の前で配偶者や親族らに暴力を振るうこと。
     児童への心理的虐待として認知されている
)   

  こうして見ると心理的虐待が全体の51.5%を占めている。
 これは面前DVを心理的虐待に含んだことによる増加と理解することもできます。
 どうしてこんなに児童虐待が増加していくのか。
 児童が健全に育つ社会環境が育たない社会に希望は持てません。

  児童虐待が増えていく原因には、
さまざまな要因が考えられるが、
 一つには家族の養育機能の低下を挙げることができるでしょう。
 大家族制度が崩壊し、核家族化が増えたことも原因の一つです。
 具体的には次のようなことが考えられます。
    妊娠先行結婚(出来ちゃった婚)の増加とその離婚率の高さ
     
10代の母親の出産の増加
     
全般的な離婚率の上昇
     
若い母親と幼児からなる若年母子家庭の増加
     
母子家庭の貧困率の高さ

 動機について考えてみましょう。(複数回答)
   保護を怠った。(ネグレクト)
   しつけのつもり。
   子どもの存在の拒否・否定。
   泣きやまないことへのいらだち。
 
 このような動機を持つに至った遠因として
「予期しない妊娠だった」ことを挙げた母親が34.6%にも上っていることは、大きな問題です。

    社会の仕組みからこぼれてしまう人を、
「自己責任」という概念で見捨ててしまえば、
この社会はますます衰退していってしまうでしょう。
こぼれてしまう人を救う手立てや仕組みが必要かと思います。
児童虐待専門委員会の委員は、
「予期しない妊娠による虐待死が多く、妊娠期から切れ目のない支援が必要」と指摘する。
現在このような支援システムは存在しません。
起きてしまった事例について支援のシステムは作りやすいが、
起きていないことについての支援策(予防措置)の構築は非常難しい。
    (昨日の風 今日の風№75)             (2017.8.22記)                       (つづく) 
                     次回は「里親」の制度について述べます。  

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読書案内「詩の礫(つぶて)」 言葉が読者の感性に突き刺さる

2017-08-21 08:30:00 | 読書案内

読書案内「詩の礫」 河合亮一著 徳間書店 2013.3刊

 
放射能が降っています。静かな夜です。
                               2011.3.16  

   全ての言葉の無駄をそぎ落として、読む人の感性をぐさりと突刺します。
   ただただ沈黙して瞑想する。
        そこに見えてくるのは、ひっそりとわが身を包み、家を包み、

   故郷を包み込んでひたひたと襲い来る放射能の恐怖なのでしょう。
   『静かな夜』という表現に込められた詩人の思いが読む人の心を捉えます。
   

誰かに呼ばれた気がして振り向いた瞬間に、
 空気が恐い顔をしている、福島の雲の切れ間
                   2011.3.27
                                    
 

   雑草に覆われ原野に戻っていく無人の故郷に立っていると、
   誰かに呼ばれた気がして我に返った。
   詩人はそこに放射能の舞い上がる汚染された空気を感じたのでしょう。
   雲の切れ間からも汚染された光が降ってくる。
   恐ろしく不安で、淋しい風景だ。

 
あなたにとって、懐かしい街がありますか。
  私には懐かしい街があります。
   その街は、無くなってしまったのだけれど
    失われてしまったが私の想いの中には、しっかり刻まれた懐かしい故郷があります。
    あなたはそんな故郷を持っていますか。
          かけがえのないものを失ってしまった詩人の悲しみが伝わってきます。

  夜更けに 田園で桜の木が一本だけ
  満開のまま立っている 立ち尽くしている
   あれは きみだ
   「ほら 始発が近づいている 一緒に 旅をしよう」
         訪れる人のいない夜更け。
    立ち尽くす一本の満開の桜。
        「あれは きみだ」。
         同時にそれは自分自身でもある。
         佇むのはやめよう。
         最初の一歩を僕と一緒に踏み出そう。
         ここが始発駅だ。
         さあー桜の花が散る前に旅に出よう

 

 制御とは何か。余震。
あなたは「制御」しているか、原子力を。余震。
人類は原子力の素顔を見たことがあるか。余震。

 
巨大な力を制御することの難しさが今、
福島に二重に与えられてしまっている。
自然と人工とが、制御できない脅威という点で重なっていく。余震。
                          2011.3.22         

    ここに紹介した詩は、原発事故直後 の2011.3.16から誰も居なくなった我が家に避難所から戻り、
140文字というツイッターの中で著者がつぶやいた言葉の集大成です。(詩の末尾に示した数字はつぶやいた日付です)。原発事故が起きて6年が過ぎたが、いったいどれだけの復興や廃炉作業が進んだのか。多くの物を喪失した心の傷はどれだけ回復したのか。
「詩の礫」を読むと、福島の事故がまだ終わっていないことを実感できます。
そして、再稼働の歩みも少しずつ進んでいます。「核のゴミ」の最終処分場の問題もやっとスタートラインに立ったばかりです。10万年という果てしのない時間は、人類には予測の範囲を遥かに越えた時間です。こんな長い時間の予測ができるのなら、何故原発の危険性を予測できないのでしょう。なぜ再生エネルギーの問題に積極的に取り組まないのでしょう。そんな思いを抱かせる詩集です。
        (2017.8.19記)       (読書案内№102)

 

 

 

 

 

                   

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終戦記念日・白旗の少女(3)

2017-08-19 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

  白旗を掲げ投降する少女・比嘉富子さの証言(3)
                 
 この記事は私のブログ「白旗の少女」の
                     (1)沖縄戦 家族を失い投降(2015.8.5)

                                          (2)二枚目の写真の真相(2015.8.6)
                                                      (3)少女が見た地獄(2015.8.16)
                                                      (4)老人夫婦との出会い(2015.8.19)掲載の記事を再編集し、
                                           「太平洋戦争を記録する講演会」(2017.08.06)にて発表した原稿である。

 

自分が生き残るためには、
たとえ相手が味方の兵隊であっても、
それどころか、なんの抵抗もできない母親でも、
わたしのような子どもでも、
そして、赤ちゃんでさえも殺さなければならないなんて……。

沖縄の戦争が最も悲惨だったのは、非戦闘員の住民が巻き込まれたことです。

 

七歳の少女は、沖縄の戦場をたった一人で、
地獄の風景の中を彷徨い、
「白旗」を掲げて投降することを勧めてくれた老夫婦の隠れ住むガマにたどり着きます。
 
川のほとりに、水を求めて逃げてきた大勢の人たちが、
力尽きて死んでいました。
その死体には虫が湧き、近くの水はうじ虫だらけです。
わたしは、思いきって両手を流れに入れ、
そっとうじ虫をどかして、みずをすくい上げて飲みました。
「おいしい!」

飢えと渇きで疲労した少女にとって、
この水は、「命をつなぐ水」だったのでしょう。
うじ虫の浮いている水さえ「おいしい!」と思わず声をあげた少女の環境適応能力と生命力の強さに感動です。

 沖縄の戦場を45日にも渡って、
彷徨(さま)よい、命からがらたどり着いたガマ、
いつものように兵隊から恫喝され追い出されるのを覚悟で、
真っ暗なガマに入った7歳の少女を迎えたのは、老夫婦でした。
 
わずかな食料を分け与えてくれる老夫婦の慈愛に満ちたまなざしが、
少女に生きる力を与えたのでしょう。

わたしは、ひさしぶりに、歩くことも、ガマから追われることも、
死んだ兵隊さんの雑のうから食べものをさがすこともない、日々を送ることができました。
しかし、老人には手足が無く、
失った手足の傷口には血が滲みうじが湧いています。

 
老婆の方は目がみえず、
文字どおり少女が二人の手となり足となってかいがいしく世話をする姿は、
老夫婦にとってはガマの暗闇に咲いた小さなかけがえのない希望の灯りと映ったことでしょう。

 戦況はますます悪化し、
このままの状態では、
やがて食料がつき、三人の餓死は免れません。
この体では、この先いくらも生きられない。
わたしたちの体は死んでなくなっても、富子の心に生きつづけることができる。

 そう諭された少女は、ガマをでてアメリカ軍に投降することを決心する。

 老人のフンドシを裂いて作った白旗を木の枝に結び付けて、少女は老夫婦の住むガマを後にする。

やがて少女はアメリカ軍に保護されたが、ガマに残った老夫妻のその後は誰も知らない。

 アメリカ軍の記録によれば、少女が保護された日は、昭和20年6月25日だという。
 昭和20年8月15日、玉音放送により日本の降伏が国民に公表される50日前のできごとでした
                                        (おわり)

 



 

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終戦記念日・白旗の少女(2)

2017-08-18 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

   終戦記念日・白旗の少女
            白旗を掲げ投降する少女・比嘉富子さの証言(2)
                 
 この記事は私のブログ「白旗の少女」の
                     (1)沖縄戦 家族を失い投降(2015.8.5)

                                          (2)二枚目の写真の真相(2015.8.6)
                                                      (3)少女が見た地獄(2015.8.16)
                                                      (4)老人夫婦との出会い(2015.8.19)掲載の記事を再編集し、
                                           「太平洋戦争を記録する講演会」(2017.08.06)にて発表した原稿である。

  たった一人戦場を彷徨い地獄を見た少女
 
 
砲弾の破片か爆風にでもやられたのでしょう、
胸から血を流してぐったりしている母親の胸で、
その流れる血をすすっている一歳ぐらいの赤ちゃんの姿です。
 
赤ちゃんは私を見つけると、
口といわず頬といわず、
顔中を血まみれにしながら、
「だっこして」とでもいうように、両手を伸ばしてくるのです。
その両手も母親の血で真っ赤に染まっていました。
それはもう地獄でした。

わたしには、ほかに表現する言葉も文字も見つかりません。

七歳の幼い少女が見た地獄は、その後の彼女の人生にどんな影響を与えたのでしょう。

爆弾や砲弾のために命を落とした人をまたいだり、
暗闇で死人とわからずつまずいて、転んだりしながら歩く」

 

少女・比嘉(ひが)富子さんのけなげな姿と生命力の強さに驚きます。

 

 ガマの中から赤ちゃんの泣き声が聞こえました。 
大声で泣き続ける赤ちゃんをおぶった若いお母さんが、
四、五人の兵隊に押し出されるようにガマの入口にあらわれました。
お母さんは、ガマの中を指でさしながら、
兵隊たちに何度も何度も頭をさげていました。
きっと中に入れてくださいとお願いしていたのだと思います。
しかし、兵隊たちは、お母さんを入れるどころか手で追いはら
い、
とうとうお母さんは、ガマの外に追い出されてしまいました。
(※ガマ=住民や日本兵の避難場所や野戦病院として利用された) 
ずいぶんひどい話です。
国民の命を守れない
兵隊に何が守れるというのでしょうか。

 

投降しようとする者は住民、兵隊の区別なく逃げる背中に向かって拳銃を撃つような狂気が充満し、
「国を守る」という大義名分のもとに、多くの人々が命を落とした。

 

悲しいしいのは、これに類似した話が、他の戦場でも起きていたということです。

 

 ダダダッと機銃の音がしました。
おかあさんの体が、
クルクルクルッとコマのようにまわったかと思うとバタッと倒れて、
そのまま動かなくなりました。
その背中では、赤ちゃんがまだ泣きつづけていました。
そのとき、ガマから黒いかげがツツッと地面をはうようにしてあらわれ、
たおれているお母さんのそばにかけよると、
その背中から赤ん坊をひきはなして、岩かげに走りこんでいきました。
赤ちゃんの泣き声がしだいに遠くなっていって、急に泣き声が聞こえなくなりました。
ガマはふたたび静まりかえり…………

 自分たちの命を守るために、無抵抗の命を
奪うことが黙認されるような狂気が戦場では、数えきれないほど起きました。
       (語り継ぐ戦争の証言№17)           (つづく)

 

  

 

 

            



 

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終戦記念日・白旗の少女(1)

2017-08-17 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

   白旗の少女    白旗を掲げ投降する少女・比嘉富子さの証言(1)
             
この原稿は私のブログ「白旗の少女」の
                                     (1)沖縄戦 家族を失い投降(2015.8.5)
                                     (2)二枚目の写真の真相(2015.8.6)
                                     (3)少女が見た地獄(2015.8.16)
                                     (4)老人夫婦との出会い(2015.8.19)掲載の記事を再編集し、
              「太平洋戦争を記録する講演会」(2017.08.06)にて発表した原稿である。

白旗の少女
 1945(昭和20)年6月25日に米陸軍戦闘カメラマンの 
ジョン・ヘンドリクソンにより撮影された比嘉(
当時は松川)富子。
当時6~7歳の少女がたった一人で、
沖縄戦末期の戦場を45
日間にわたってさまよった
記禄である。
  

 木の枝に、老夫婦が褌(ふんどし)を裂いて巻きつけた旗を掲げて投降する。
当時、6、7歳のあどけない少女の決死の投降場面だ。
兄の遺体を埋め、姉たちとははぐれてしまった。
死体だらけの川の水を飲みながら生き延びた少女。

 「地獄に行ったことはないけど、もし地獄があるとするならば、きっとあれが地獄なのでしょうね」
70年も昔の少女時代の過酷な体験は、「生き残った」事に対する悔恨がいまだにわきあがってくるのでしょう。
生き残って、今こうして生きていることに、心の痛みを感じるという。
いわゆる「死に遅れ」た事に対する、悔恨や罪の意識は、
戦後多くの仲間を失った兵士たちに共通の意識だったのでしょう。

 「命は自分のためにだけあるんじゃない。産んでくれたお父さんやお母さんのものでもある」
 洞窟で投降を勧めた、老人の言葉は、
 比嘉さんが生きるための心の支えとして、今も鮮明に浮かんでくるのでしょう。

 長いこと、アメリカの従軍カメラマンが撮った「白旗の少女」が誰なのか、
 生きているのか、死んでいるのかさえ不明でした。

 昭和62年、比嘉富子さんが、「白旗の少女は私です」と名乗り出ました。
 終戦から42年が過ぎていました。

  比嘉さんにとっては、
  長い長い戦後に一つの区切りをつけるのに、
 42年が必要だったのかもしれません。

 その2年後の平成元年、比嘉さんは「白旗の少女」という本を出版しました。
      (語り継ぐ戦争の証言№16)                           (つづく)

 

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供養花火 ー定命ー

2017-08-14 08:30:00 | つれづれに……

供養花火 定命
     それぞれの思いを乗せて
 夏の花火大会は、全国いたるところで開催され、夏の風物詩になっています。
私たちの同窓会は今年も「供養花火」ということで、
一足先に彼岸のかなたに旅立たれた23名の方のご冥福を願って打ち上げました。

 小さな花火大会だが、ローカル色豊かな花火大会です。
 家族安全祈願、商売繁盛、合格祈願、初孫誕生祝い等々花火に寄せる思いは様々です。

 
 この「供養花火」を会の活動として提案した〇瀬〇磨が逝ってから早いもので6年の時が流れました。
後を追うように、高〇輝〇、小〇崎〇、〇瀬〇則さんが旅立ちました。
無常とはいえ、昔いっしょに学び舎を共にした仲間が減っていくのはさみしいものです。

 仏教に、「定命(じょうみょう)」という考え方があります。
人には、生まれながらに与えられた命の長さがあり、
人は生まれた瞬間からこの「定命」という命の砂時計の砂を
最期の時に向かって休みなく落としていると考えられています。

こうした考え方から、「無常」(とどまることがなく、時は流れていく)という観念が生まれてきたのでしょう。
鎌倉時代の吉田兼好が
「徒然草」の中で「行く河の流れは絶えずして、もとの水にあらず」
「(好むと好まざるにかかわらず)全ては泡沫のように消えていく」と、無常観を表しました。

 命の砂時計の砂ももう残りがだいぶ少なくなってきました。
「残りがあとどのくらいあるか」は誰にもわかりません。
今日かもしれないし、明日かもしれません。
命の砂の残りを気にして生きるのではなく、
明日砂が尽きても悔いの無い生き方を日々送れるよう心がけることが豊かな人生に繋がるのではないでしょうか。

                                  ※ 同窓会通信はがきより転載しました
             (2017.08.13記) (つれづれに……心もよう№66)        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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