過ぎ去りし昭和を詠う
①我が街にはたくさんの店があった
映画館、銭湯、駄菓子屋、鶏舎消え虚しき言葉「地方創生」
……朝日歌壇 篠原俊則
私の棲んでいた田舎町は、
大きな川が東の端と、西の恥を流れ更に北から南に流れる自然豊かな町だった。
その町の外れに私が育った町があった。
小さい街だったが、県道を100㍍ほど行くと国鉄の線路があり、
この踏切を超えると田んぼが一面に広がる純然たる農村地帯に入る。
町の外れであり、農村地帯に入る入り口でもあった。
映画館や銭湯は隣の町まで行かなければなかったが、
小さな町だったが生活に必要な店は何でもあった。
魚屋、米屋、乾物屋、酒屋、材木屋、篩(ふるい)屋、材木屋、自転屋、下駄屋、馬車屋、駄
菓子屋、自転車屋、洋品店、床屋などが軒を並べて小さな共同体を形づくっていた。
八百屋がなかったのは、隣の農村部から毎日、
自家栽培した野 菜を引き売りに来る人がいたからだった。
つまり、新鮮なとれたて野菜が毎日運ばれてきたから、
店を構える八百屋の必要性がなかったのである。
自前の鶏小屋を持つ家も珍しくなく、
家族用の卵や、物々交換の品として利用されていた。
靴屋がなかったのは、まだ靴が一般に普及するちょっと前の時代だったので、
下駄屋さんが繁盛していた。
小さいながら、パチンコ屋もあった。パチンコは最初子供用のゲーム機だった。
現在のように大人の遊びではなく、景品にアメやお菓子がもらえた。
それがいつの間にか大人の遊びに替わってしまったことを知っている人は少ない。
パチンコの歴史を調べてみると昭和11年ごろには、
正村竹一氏の手によって発明されたようであるが、
一時期、当局から製造及び使用が禁止され、
復活したのは昭和21年同氏によって名古屋に一号店が再開され、
24年には性能アップの型が開発され、爆発的な発展を遂げた。
私がパチンコを経験したのは学齢期に入った25~26年頃ではなかったかと思う。
しかし、子どもの遊びでスタートしたという記述を発見することはできなかったので、
私の町では子供用として発足した特異なケースなのかもしれない。
朝鮮の人が自宅を店舗に改造し20台ぐらいのパチンコ台が並んでいた。
私の街にないものは映画館、銭湯、呉服屋、医者ぐらいなものだった。
これらも歩いて10分ぐらいの町にあったので、生活に不便を感じたことはなかった。
当時、母は私にここ(私の棲んでいる集落)で買えるものは、ここで買いなさいと言い、
私は隣の町へ買い物に行くことはほとんどなかった。
母の教えは「地域共同体の中で生きる」生活の知恵だったのだろう。
それから、数十年がすぎて、高度経済成長時代を経て、
地方にも消費社会の波が押し寄せ、大型店舗が我が町にも訪れ、
地方のコミュニティは徐々に崩壊の道をたどっていった。
私は、故郷を出て東京の大学に進学した。
(人生を謳う№27) (2025.03.17記)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます