雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「魂でもいいから、そばにいて」 3.11後の霊体験を聞く(2)

2017-09-30 08:30:00 | 読書案内

読書案内「魂でもいいから、そばにいて」
           3.11後の霊体験を聞く(2)


 会いたいという切ない願いに託された不思議体験。
 妻と1歳10ヶ月の次女を亡くした亀井さんの体験。
多くの生き残った人々が、
「なぜ助けることができなかったのか」と後悔し、
自分を責めながら生きている。
亀井さんもまた涙にくれながら、
二人の遺体を探して瓦礫の山をさまよい、
二週間後に発見された二人の遺体を火葬にした夜、
妻と娘が夢の中に現れた。
だが、
夢の筈の映像が亀井さんの脳裏に何度も鮮明に浮かんでくる。
翌年の一周忌にも同じような映像を見た亀井さんは日記に次のように書いた。

〈夢から覚めても、目を閉じると、同じ二人の姿が見える。夢ではないと!これは魂だ。「おいで、おいで……」泣きながら手を伸ばすが、遠くで手を振るだけ。苦しい……くるしいよ。二度と抱きしめられないのか!〉

 亀井さんの脳裏に同じような映像が現れるたびに、
津波でさらわれた遺品が発見される。
ビデオテープ、写真、デジカメ、婚約指輪、ピカチュウ、お猿のぬいぐるみ等、
二人の魂が導いてくれたのだと亀井さんは思う。
三年後の命日3月11日にも、
土盛りした土の横の溝の中に記念の腕時計を発見する。

「こういう体験が無かったら生きられなかったかもしれません。妻と子どもと家を根こそぎ亡くしたんです。かなしい、寂しい、辛いばかりだったら身が持ちません。そういうとき、妻と娘は私に頑張れよと力をくれるんでしょうね。あの世で逢えるんだからって」

 読者にとって亀井さんの次の述懐が救いとなります。
最近、
夢の中に笑顔で現れた妻は、
『どこにも行かないよ』と言っている。
かけがえのない人を喪った亀井さんが、
その愛しい人から励まされているという。


霊はあの世とこの世の境目に漂い生き残って絶望の淵にたたずみ戸惑っている人を、
生きる明日へと導いているのだと感じる亀井さんの体験です。
           (『待っている』『どこにもいかないよ』亀井茂さんの体験から)
   (2017.9.29記)  (読書案内№111)               (つづく)








 

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読書案内「魂でもいいから、そばにいて」 3.11後の霊体験を聞く(1)

2017-09-28 10:02:18 | 読書案内

読書案内「魂でもいいから、そばにいて」 3.11後の霊体験を聞く(1)
           奥野修司著 新潮社 2017.2初版



(1)哀しみから立ち直るために

 東日本大震災から6年半の時間が流れ、
テレビや新聞の報道も、数えるほど少なくなってきています。

「風化」という言葉が浮かび、
直接被害に遭わなかった多くの人々にとって、
話題にすらのぼらなくなった災害だ。

『復興』という言葉もどこか他人事で、虚しい響きさえする。
瓦礫の撤去が終り、
更地になってしまつた海岸線に近い平地をどのようにするのか。
山を削り、或いは土盛りをし、新しい街づくりを計画し、
失われた故郷の近くの新しい街で、
どんなコミュニティーを築いていったらいいのか。

高い防潮堤を築き二度と被害に遭わない環境づくりの代価として、
失うものも多いに違いない。

新しい家を建て、
再出発の旗をあげても、
かけがえのない最愛の人を喪った悲しみは、
今も消えずに深い傷となって残っている。

取り戻すことのできない失われた命を思えば、
くじけそうになる時もあるが、
生かされた命を大切にして、
辛い思いや悲しみを乗り越えて頑張ってみよう。
そうした人々の中に、
亡くなった人との霊体験をした人たちがいた。

 なぜ私を置いて一人で逝ってしまったのか。
なぜ自分だけが生き残ってしまったのか。
無念と後悔が入り混じるなかで、
不思議な体験を人たちがいる。


 これは災害によって肉親や近しい人たちを失くしたための、
精神的後遺症として知られた現象であるらしい。

喪失を乗り越えようとする気持ちと、
受け入れたくないという気持ちの間で揺れ動く心の葛藤を背景に、
個人や共同体を回復に向かわせるプロセスであると心理学では説明されている。


 著者はこうした被災者の心の葛藤を東北に3年半通い、
口を閉ざした被災者の一人ひとりに会い、
あの世とこの世を行き交う死者との交流(霊体験)を丁寧に聞き出している。


 『大切な人を喪った遺族には、何年たっても復興はないのです』
 39歳の妻と1歳10カ月の次女を津波にさらわれた亀井さんの言葉が重くのしかかってきます。
津波で家もろとも流され、
土台しか残っていないこの場所も間もなく土盛りされ跡形もなくなってしまう。
そのことを問われて亀井さんはつぶやく。
『土台だけでもあれば、あの時のことを思い出せます。ここがなくなると、私には異例の場がなくなるんです。遺族はみんなそう思っています。使い道がないんだったら、いじらないでそのままにしてほしい。亡くなった人と共に生きようというか、遺族はそう思いながら人生の残りを生きたいんです』
 亀井さんたちが生きた場所さえも、
痕跡もなく整地してしまう。
復興という将来の街づくりのためを思えば、
黙って涙を超える人がたくさんいる。
『納骨しないと成仏しないと言われますが、成仏してどっかに行っちゃうんだったら、成仏しない方がいい。そばにいて、いつでも出てきてほしいんです』
 あの冷たい墓の中の暗闇に置きたくないと亀井さんは、
仏壇の前に花で埋もれるようにして並んだ二つの骨壺を眺めながら言う。
消えることのない哀しみを背負いながら、
それでも一歩一歩前に向かって歩いて行こうとする。
魂でもいいから、そばにいて……
かけがえのないものを失った人たちの共通のつぶやきなのだろう。
        (読書案内№110)                
 (つづく)
  次回は哀しみから立ち直っていく過程で遭遇した不思議な体験を紹介します。
    (2017.9.28記)






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読書案内「富岡日記」

2017-09-24 08:30:00 | 読書案内

読書案内「富岡日記」 和田 英著 ちくま文庫
                           2014年 初版(中公文庫版『富岡日記』(1978年)を底本にしている)

     著者・和田英が  1873(明治6)年4月から翌74年(明治7)  年まで富岡製糸場で伝習工女として働いた時のことを思い返し、1907(明治40)年に記述したものである。  


 明治政府は、西欧諸国に追いつけ追い越せを政策の方針として、
『富国強兵 殖産興業』を具体的な旗印として掲げた。

   外貨獲得の一環として、群馬県富岡に作られたのが官営富岡製糸場だった。
 当時としては、世界一の設備を備えた工場だったという。
 しかし、「西洋人は若い女の生き血を呑む」と妙なうわさが流れ、
 人が集まらなかった。


 十三歳より二十五歳までの女子を富岡製糸場へ出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供でも上るように思いまして、一人も応じる人はありません。(略)やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして……

そこで集められたのが、著者のような旧藩士の娘や、名のある家の娘たちでした。
彼女たちは、
「お国のためにつくすように」「郷里の誉れとなるよう」、
親、兄弟親族などの期待を背負って近代工業の粋を集めた製糸場で
1年間の技術習得に励む。
その一途な姿に、明治政府の国策を担い、
やがては伝習工女(指導者兼技術者)として、郷里に戻り、
製糸工業の技術者として郷里のリーダーとなるべく
夢を抱いて
働く姿が生き生きと綴られています。
それは単に、お金を稼ぐという意味にも増して、
「技術」を習得し、地域の生糸産業工場のリーダーとして羽ばたく
明るい未来を想像させるような彼女たちの
姿でした


 富岡製糸場の御門前に参りました時は、実に夢かと思いますほど驚きました。生まれまして煉瓦造りの建物など稀に錦絵くらいで見るばかり、それを目前に見ますることでありますから無理もなきことと存じます。

富岡日記の一節であるが、
田舎から出てきた少女が目にしたレンガ造りの建物が
いかに素晴らしいものとして少女たちの目に映ったかが想像されます。


筆者のようなたくさんの少女達が、
熟練工となって、日本の製糸業の隆盛をささえたのだと気づかされました。

1863(明治6)年、官営製糸場で伝習工女として、
技術習得した彼女たちは、
故郷長野に帰り日本初の民営器械化製紙場(六工社)の指導員となつた。
しかし、富岡製糸場とは異なり、
前近代的設備とすべての面での経験不足の中で、
懸命に近代製糸業を支えようと努力する姿が生き生きと描かれている。
この記録は、
近代殖産興業を支えた女性の社会参加を克明に描いた
貴重なドキュメントと言えるだろう。


 映画にもなり、「あゝ野麦峠」で描かれたような悲惨な女性労働の実態が浮き彫りに浮き彫りにされるのはもう少し後のことになります。

 世界遺産に登録された「富岡製糸場」について興味のある方は、
 以下の私のブログを読んでいただけると幸いに思います。
 2014.7.27 世界文化遺産・富岡製糸場 日本近代の光と影①
 2014.7.29 世界文化遺産・富岡製糸場 日本近代の光と影② 「あゝ野麦峠」
              (2017.9.23記)   (読書案内№109)


 

 

 



 

 

 


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黄金伝説(川治温泉)

2017-09-20 17:30:00 | 郷土の歴史等

川治温泉・鬼怒川と男鹿川の合流地点付近


 鬼怒川に架かる「黄金橋」
 
 ごくありふれた辺境の地に架かる橋。
 この写真だけでは何故「黄金橋」なのか、名前の由来がわからない。
 観光橋で、橋を渡り切ると林を切り開いたところに小さな「あじさい公園」があるらしい。
 この橋は、伝説の「南平山」に続いているらしい。
   正面の山が伝説の山「南平山」なのか。



 橋のたもとに由来を記した石碑があった。


 碑文 
  黄金橋(こがねばし)の由来
  平家の勇将米澤淡路守は、
  一門の再興を期して莫大な
  財宝を南平山に埋めた。
  財宝のありかを示す鍵歌として
   朝日さし夕日輝くこの丘に
    黄金千杯朱〇千杯
  の歌が伝えられている。
  山頂には今も大小の塚があり
  夕映えの中にひときわ輝く
  ことがある。
  橋の名はこの伝説によった。 

  鍵歌にいたっては、どこかの小学校の校歌に歌われるような幼い内容です。
  平家の落人の集落は、全国各地に存在します。
  そして、現在もその末裔が暮らしています。
  川治温泉では、落人の里があるのかどうか、私は聞いたことがないが、
  こうして埋蔵金伝説が語り伝えられたのでしょう。
  もとより、「黄金橋」があったわけではなく、観光政策として作られた橋なのでしょう。
  なんだか、この橋は取って付けたような橋で、私には違和感がありました。
  むしろ、こうした橋を作るよりも、「南平山」の見えるこの地に、伝説だけを伝える石碑
  だけを置いた方が、夢が膨らむと思うのですが、いかがでしょうか。
        (2017.9.20記)                   (郷土の歴史№4)

  

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「おなで石」のご利益は

2017-09-18 08:30:00 | 石仏・仏像・塑像‥

おなで石
 川治温泉の旅館に泊まった。
 宿泊した時の習慣として、翌早朝は必ず周辺の散歩に出かける。
 清流の音を聞きながら、男鹿川の遊歩道散策。
 そこでこんなものを見つけた。
 これは、観光目的ではなく、土着信仰の一種なのだろう。
 だから、観光パンフにもあまり掲載されいてない。

 「霊石」としたところが「まじめ」「しんけん」で、どこかユーモラスです。


小さな社に奉納された「絵馬」。
赤い腰布 長い髪 上半身裸で担ぐ人の胸は膨らんでいます。女性ですね。
なにを担いでいるのでしょう。

  文面は次のように読める。
会津のみちのく・
川治のおなで石神社の由来
今昔より壱千〇前に
おなで石神社は根生を祭りて
病気
子供の無い〇又は、

結昏縁の薄い方に援(たす)けたり
             伈仙(しんせん) ㊞
 〇は判読不明。世俗を超越した能力を持つ人(仙人) 

小さな社の下には、写真のようなものが数多く奉納されていました。
陰石と陽石。
真ん中の赤い霊石が比較的新しいもののようでした。
土着信仰として今も生きているのだなと感じました。

       (2017.9.17記) (石仏・仏像・塑像№3)

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ことの葉散歩道 人間は負けない

2017-09-16 08:30:00 | ことの葉散歩道

 ことの葉散歩道 人間は負けない
 私たちはこの世の中に一定の秩序と連続性を見出そうとしています。
 こうしたものがないと、とても安心しては暮らせない。
 今日は昨日のようであった。
 明日も今日のようであるだろう。
 明日の景色も今日の景色のようであり、
 今日良いこととされていることは、明日もまた良いことであるはずだ。
          ※ 「アダルト・チルドレンと家族」より 斉藤 学 学陽文庫1998年刊
 
日常性の連続
 今日一日が無事であったように、おそらく明日も似たような日が訪れるだろう。
 昨日・今日・明日と連続した日常の中で、私たちは年を取っていく。
 今日、無事に生きられたから、予測のつかない明日であるけれど、
 おそらくは今日とさほど違わない明日を迎えることを予測する。
 だから私たちは安心して今日を生きられるし、明日を迎えることができる。
 だが、ときとして、
 事故や自然災害、脳梗塞やくも膜下出血などに遭遇し、
 日常の連続性が遮断されてしまう時があります。

 「予測のつかない出来事」が起きた時、
 私たちの思考は混乱し、
 行動そのものも活動を停止してしまうこともあります。
 いわゆる「茫然自失」という状況に置かれてしまうと、
 何をしていいかわからなくなってしまう。
 表現を変えれば、何もできなくなってしまう。

 つまり、今日が明日へとつながっていかなくなってしまう。
 「トラウマ」という現象が起こってきます。
 現実に起こったことを理解できない、あるいは認めようとしない。
 自分に降りかかった非日常のできごとから立ち直ることができず、
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)となって、
 心に傷を負ったまま回復するには長い時間が必要とされます。


人間は負けない

 東日本大災害では、地震と津波に加えて、原発事故による目に見えない不安に、
 多くの人が襲われ、故郷 を追われました。
 そして、6年半が過ぎました。故郷に戻った人、故郷を捨てた人。
 生きる糧を新しい土地に築こうと努力している人。
 今もどうしていいか選択肢を見つけられないで、
 あの日の災難から立ち直ることができない人。
 百人いれば百様に手段も考え方も違うけれど、
 確実にいえることは、
 人間はどんな災難に出逢っても立ち直る力を持っているということだ。
 ヘミングウェイの小説「老人と海」の主人公のように、
 捕らえた獲物に襲いかかる鮫の群れに戦いを挑み、
 「人間は負けるようにはできていない」と自分を奮い立たせる勇気が人間にはあります。
 だから、永い永い時間をかけて人間は生物の頂点に立つことができたのだ。

 人と人とのつながりや、共通する支え合う力が、明日を作ろうとする力になる。
 その時、試練の時を乗り越えて、
 人間は新たな明日を築くスタートラインに立つことができるのだ。
           
                    (2017.9.14記)        (ことの葉散歩道№35)
(メモ書き№26)
               






 

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雨月物語 菊花の契り

2017-09-14 08:30:00 | 読書案内

 雨月物語 「菊花の契り」上田秋成著  
      重陽の節句(9月9日)
           昔、中国では奇数を陽の数とし、陽の極である9が重なる9月9日は大変めでたい日とさ                                    れ、菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという風 があった。     
                                    日本には平安時代に伝わったそうです。 (日本の行事より)
             新暦では10.28が旧暦の9.9にあたり、菊花の香り漂う中での菊酒を味わい、
             菊花の契りの物語を思い浮かべるのも粋なものですね。  
                                    
                                    雨月物語は、江戸時代後期に書かれた、「怪異譚」で、ここに収められた9編の小説は、いずれも
              怪しい魅力にあふれている。雨の夜、月の夜に「淫風」が吹き、異界の物語が始まる。
              その中の一編「菊花の契り」を紹介します。                                        
 
「菊花の契り」 
  母と二人、赤貧に甘んじ、儒学を学ぶ者がいた。名を左門という。
旅の途中で病に倒れた宗右衛門を左門は手厚い看護で快復させた。
宗右衛門は
「さすらいの身に、かくまでおめぐみを賜る。死すともおこころざしに報いたてまつろう」
と涙を流して感謝する。
やがて二人は義兄弟の契りまで交わすようになる。
初夏のある日、左門と宗右衛門は再会の日を、
重陽の節句の9月9日と約束し、
宗右衛門は故郷の出雲の国に還っていった。

 やがて約束の再開の日が来た。
左門は朝から家の前で宗右衛門の到着を待った。
しかし、宗右衛門は現れない。
夜になっても宗右衛門は来ない。
 もしやと戸の外に出てみれば、銀河の影さえざえに、月光われのみを照らしてさびしく、軒をまもる犬の吠える声すみわたって、浦浪の音のつい足もとに打ち寄せるかとおぼえた。やがて、月も山の端にくらくなれば、今はこれまでと、戸をたてて入ろうとするに、ただ見る、かなたに薄墨の影ゆらゆら、その中にひとあって、風のまにまに来るをあやしと見定めれば、宗右衛門であった。
  

 宗右衛門は故郷で、お家騒動に巻き込まれ、
監禁状態になり、逃げだすこともままならず、
約束の日を迎えることになってしまう。
宗右衛門は自害し、魂となって再会の約束を守ったという。


 「今は永きわかれじゃ」。たちまち姿はかき消え。左門あわてて、引きとめようとすれば、淫風にまなこくらんで、その行方を知らず、ものにつまずいてうつぶせに倒れたまま、声をあげて大いになげいた。
  
 
      

   中学か高校の国語の教科書で「菊花の契り」を読み、
 怪しげな情景の中に繰り広げられる物語を、
 大人の友情物語として読んだ記憶があります。
 同時に、太宰治の『走れメロス』を少年の命を賭けた友情物語として捉えていました。
 しかし、この「菊花の契り」には、
 もっと深い意味があることを知ったのはかなり後になった、
 40代のころだつたと思います。                    

   左門と宗右衛門の関係は「衆道」の関係だということを知れば、
 物語のなかで感じた左門と宗右衛門の不自然なまでに親密な関係がなるほどと納得いくのです。
                                 
   ※ 
「衆道(しゅどう)」について
     日本における男性による同性愛及び少年愛等の名称および形態。
     仏教寺院で発生し、中世には武士の間で盛んに行われ、近世には庶民にも流行するものの、
     幕藩体制下で風紀を乱すものとして粛正の対象になり、薩摩など一部地域でのみ生き残った。   
         
    
    文中の日本語訳は新釈雨月物語 石川淳著 ちくま文庫によるものです。           
              (2017.9.13記)     (読書案内№108)

    

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遠ざかる昭和(2) 少年の心に裕次郎の映画が焼き付いた

2017-09-11 08:00:00 | つれづれに……

遠ざかる昭和(2) 少年の心に裕次郎の映画が焼き付いた
  北海道小樽市の石原裕次郎記念館が8月31日を持って閉館になった。
  幼少期に過ごした同市に1991年にオープン。
  26年間の来館者は約2千万人だが、26年も経過するとスクリーンの裕次郎に心ときめかされた
  当時の若い世代も高齢になり、小樽まで足を延ばすのもしんどい年になって来たから、閉館と
  なっても仕方のないことなのでしょう。


  みんなが輝いていた1957年代、ゴム草履に短パン姿の裕次郎が現れた。
  物おじしない、ある意味で傍若無人の不良青年だったようです。
  それでも、目に優しさが漂い、何よりも人を惹きつける魅力とリーダーシップで
  撮影所内で注目された。そして、当時日活に在籍したプロデューサーのターキーこと
  水の江滝子の目に留まったのがスターの階段を登るきっかけになったようです。
  芥川賞新進作家の兄慎太郎の「太陽の季節」がヒットし、「太陽族」「慎太郎刈り」など
  社会風俗の波に乗ったことも大きな要因だった。
  社会が豊かになり、「湘南の海」「ヨット」など、一般の人には憧れの情景がスクリーンに
  映し出され、僕らは見果てぬ夢を見るように、ポケットに両手を突っ込み、短い脚を引きずって
  歩いたものだ。
   「……ぜ」という言い方が不良ぽっくて、ぼくらは真似をした。
  
   「ドラム合戦」に魅了され、裕次郎の映画に踊り子役で出ている
                白木マリの踊りに心ときめいた。
   風は気ままに 吹いている
                鳥は気ままに鳴いている
                どうせ男に生まれたからにゃ
                胸の炎は気ままに燃やそ
                意地と度胸の人生だ
 「明日は明日の風が吹く」のフレーズを呟いて、粋がっていた。
   「ジャックナイフ」が流行りました。「飛び出しナイフ」という
    のもあってボタンを押すとパチンと飛び出すものと、前に突き出すものがあり、ジャックナ
      イフはぼくらの憧れで、ポケットに忍ばせ、友だちに見せびらかし自慢したものだが、学校
    で所持禁止品になってしまった。

  三国連太郎と共演の「鷲と鷹」、「紅の翼」など少年の僕には心躍る作品だった。
  しかし、ぼくの心を捉えたのは、慎太郎原作を映画化した「狂った果実」だった。
  この映画を見て、大人の世界をのぞいたような妙な興奮をしたのを今でも覚えているが、
  この映画の良さがわかるのは、もっと後になってからだった。

  ぼくが、中学2~3年生ぐらいの「夢多き少年時代」の映画でした。
  裕次郎が逝って26年、昭和が遠くなっていきます。
      (2017.9.10記)                 (つれづれに……心もよう№68)

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遠ざかる昭和(1) 童謡・あめふり

2017-09-09 08:30:00 | つれづれに……

遠ざかる昭和 (1) 童謡・あめふり
    朝から雨が降っている。天気予報では、終日雨になるらしい。
  畑仕事も今日は休み、久しぶりに蔵書の整理をする。
  童謡の本が出てきた。
  
   
  今ではほとんど歌われなくなってしまった「あめふり」だ。
     作詩・北原白秋 作曲・中山晋平

  1949(昭和24)年。僕は田舎の小学校に入学した。
  世の中はまだ貧しさが続いていた。
      僕らは下駄を履いて学校に行った。

  雨の日には、はだしで登校する生徒も多かった。
     (1) あめあめ ふれふれ かあさんが
       じゃのめで おむかい うれしいな
            ピッチピッチ チャップチャップ
      ランランラン

  雨降りはうれしかった。心がはずんだ。
  大好きな母ちゃんがカラカサを持って迎えに来てくれる。
  その期待感にワクワクしながら、
  授業が終わると下駄箱のある昇降口に飛んで行った。

  三番の歌詞も妙に僕の心を捉えて離さなかった。
  貧しさゆえに弁当を持ってこられない生徒は、弁当の時間教室を抜け出し、
  運動場の端にあるブランコで遊んでいた。
  時々は先生の弁当を分けてもらっていたことなど鮮明に覚えている。
  そんな生徒は雨が降っても親が迎えに来ない時が多く、
  僕とは反対にずいぶん寂しい雨の日を迎えていたのだろう。

      現在の学校では、「置き傘」といって予備に一本学校に置いておくので
  下校時に急な雨が降っても、迎えに行く必要がない。
  だから、きっと、この童謡は歌われなくなっていったのだろう。

   (3) あらあら あのこは ずぶぬれだ
        やなぎの ねかたで ないている
        ピッチピッチ チャップチャップ
        ランランラン

   (4) かあさん ぼくのを かしましょか
       きみきみ このかさ さしたまえ 
       ピッチピッチ チャップチャップ
       ランランラン
  

   (5) ぼくなら いいんだ かあさんの
        おおきな じゃのめに はいってく
        ピッチピッチ チャップチャップ
        ランランラン
       
     (1)(3)はよく覚えているが、他は記憶にない。
 
  みんなが貧しく、洗濯たらいや洗濯板が活躍していた時代。
  冬は靴下ではなく足袋を履いていた。
  つぎはぎだらけの足袋だったが  
  母ちゃんが夜なべで繕ってくれた足袋を恥ずかしいとは一度も思わなかった。
      家族のためにみんなが寝静まった後も、なにかをしていた母ちゃん。
  火鉢の五徳に載せられた薬缶の湯気がチンチン音を立てて立ちのぼっていた情景を、
  
今でも鮮明に 思いだすことができます。 

  景気が上向き、「神武景気」と言われる時代が来た。
  1955(昭和30) 年 僕は6年生になっていた。
  
三種の神器と言われ、電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビジョンが家庭の経済状態のバロメー 
  ターとなった。
  封書10円 はがき5円の時代だった。

  昭和の時代が遠くなっていきます。
               (つづく)
     (つれづれに……心もよう№67)  (2017.9.8記)


















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読書案内「喜びは悲しみのあとに」 上原隆 著 (5)

2017-09-07 08:30:00 | 読書案内

読書案内「喜びは悲しみのあとに」上原 隆著 (5)



一生懸命生きて
  悲しみのあとに喜びは訪れるのか。
  努力が報われる日が訪れることを願いながら読んだ。

キャッチセールス
  渋谷駅ハチ公前のスクランブル交差点。行く人々と帰る人々が接近し、交差する。
  交差点を渡る人の数は一日平均約27万人。その多くが若者だ。

出原ひとし。23歳。
 多くの人々が渦を巻くようにして行き交う。
信号が変わるたびに砂浜に押し寄せる波のように
どっと押し寄せ、信号が変われば人の波は引いていく。

この路上が彼の職場だ。
職業。
キャッチセールス。
完全歩合制だ。
客が取れなければ収入はゼロだ。

女性に声をかけ、アンケートに答えてくださいと言って、ビルに連れていき、女性のカウンセラーのいるカウンターに座らせる。カウンセラーはアンケートを取りながら、美容の話をして、化粧品や美顔器などを売りつける。

商品は25万円から50万円で、契約金の約7%が彼の取り分となる。
25万円で1万7千円、50万円で3万5千円ぐらいになる。
行き交う女性に手当たり次第に声をかけても、本契約に持ち込めるのは2人程度だ。
もちろんゼロなんていう日もある。

声をかけた女性から、「ウッセンダヨ。バカヤロー」という声が返ってくることも少なくない。
でも彼はくじけない。
声をかけて掛けまくる。
結構いい収入になるが、稼いだ金のほとんどは飲み代に消えていく。

「キャッチセールスの仕事好き?」と問われ彼は答える。「嫌いですよ。でも僕みたいな中卒が今ぐらい稼げるとしたら、こういう仕事しかないんです」
 
何の保証もなく、社会の底辺で生きる彼らは、元気よく夜の街に散っていく。
その後ろ姿を想像しながら、この本を読み終えた私は、
登場するすべての人に「頑張れ」といつの間にかエールを送っていた。

 
最後にこの本の題名のもとになった、キャロル・キングの詞を紹介します。
       (略) 辛い過去を話してくれた友だちが
          こういったよ
          「人生でやらねばならないことなんて
          案外いいま、やっていることだったりするのさ」

          ね、あなたは暗くならないで
          いまはつらいだろうけど
          みんなそうしている、あなたも大丈夫
          これ知ってればくじけないよ
          もう、わかったでしょう
          喜びは悲しみのあとにかならずやってくる

      5回にわたるシリーズを最後まで読んでいただきありがとうございました。
                       (2017.9.6記)       (読書案内№107)

                                          (おわり)

  


 

 

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