雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

供養花火

2011-08-31 22:00:36 | つれづれ日記

 

  供養花火

 8月20日(土)、薄暮に沈んでいくK川の辺に夜店の電灯がともり、

わずかな風が川面にさざ波を立てる。

午後7時 大会開始の合図の花火が上がる。

 カーバイトのアセチレンガスの灯りは、

もうかなり前に、自家発電の電灯に切り替わり、

あの鼻をつくガスの匂いが懐かしく思い出される。

 

 今年のテーマは「被災地へとどけまごころ、希望のひかり」である。

3.11の大震災からすでに5か月が過ぎ、

人の記憶や、

あの時抱いた驚きと被災者への悲しい共感も、

時間の経過とともに少しずつ薄れていくような気がします。

 

 悪夢のような災害に、全てを失っても、

「パンドラの箱」の中から人間は最後に残った希望を取り出して、

たくましく歩んでいこうとする強い意志を持っている。

 

 震災間もない3月19日、Hがガンに倒され、5月5日にはkが脳梗塞で逝き、

仲間が二人名簿から消えてしまった。

 先に逝ってしまった仲間たちは全部で20名。

せめて空の高みで安らかなれと今年も「供養花火」をあげた。

          ※ 「パンドラの箱」(ギリシャ神話)

              美と好奇心を与えられたパンドラが、決して開けてはいけないと言われた

              箱を開けてしまったため、箱の中に封印されたあらゆる災厄(病気、盗み

              嫉妬、憎しみ、争い)が、人間世界に飛び散ったといわれています。

              しかし、、神は人間を見捨てなかった。最後に残ったもの。それは「希望」でした。

              「美しいものに惑わされるな。好奇心に負けてはいけない」という教訓と

              「開けてはいけない、触れてはいけないもの」を意味するようになりましたが、

              私は、最後に残された「希望」の存在を大切にしたいという意味で引用しました。

               

     この文章は、同窓生への便りとして作成したものを、ブログ用に編集して掲載しました。

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映画と小説 「小川の辺」(4)・決然として生きる

2011-08-27 15:57:15 | 映画と小説

 

  「それは卑怯な言い方です。私がいれば、佐久間は討たせはしませんでした。たとえ兄上であっても」。

 田鶴は眼を光らせ、気合いを発して斬りこんでくる。

 激しい斬りあいのさなか、

 「若旦那様。斬ってはなりませんぞ」新蔵が叫んだのが聞こえた。

 切迫した声だった。

 

 勝負の結末を述べるのは、

 無粋であり、興味をそぐことになるので控えます。(観て、読んで、お楽しみ)。

 

 ……朔之助は橋を渡り、来た道を戻っていく。

 藤沢周平の原作は最後に、

 『橋の下で豊かな川水が軽やかな音を立てていた』と述べて終わっている。

 象徴的な終わり方です。

 豊かな川水が軽やかな音を立てている状況を、イメージして欲しい。

 このイメージは、朔之助たちの幼い日のイメージに繋がっています。

 

 「義」を貫いた朔之助であったが、最後の場面で一転し、

 「情」の世界へと導く手法に読者は安堵し、観客も救われる。

 映画ではさらに、

 両親が朔之助の帰りを待つ庭の木に、白い花を一斉に咲かせて、

 結末のさわやかさを暗示する。

 小説にはこの部分はない。

 

 「なりゆきを、決然と生きる」芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久の言葉であるが、

菅総理の座右の銘でもある。

 混迷の時代を生きる私たちには、

 重く、そして、勇気づけられる言葉であり、

 朔之助の武士としての生き方にも通じる言葉である。

 

   大地震、津波、原発と東日本大災害の中で被災者が失ったものは大きい。

  しかし、支援の輪が広がり、この悲劇を教訓として、コミュニティの中で養われた、

  人と人の絆がどんなに大切であるかを、私たちはあらためて知らされました。

   どんなに打ちのめされようとも、厳しい現実に立たされようとも

  「なりゆきを、決然と生きる」強い意志を持っているのだと、

  朔之助や忠左衛門の生き方に共感を覚えました。

                      原作:藤沢周平著「闇の穴」所収「小川の辺」新潮文庫

                                   (おわり) 

 

 

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映画と小説「小川の辺」③・「義」と「情」の対比

2011-08-19 17:28:08 | 映画と小説

 朔之助、田鶴、新蔵ら3人の幼い日のエピソードなどが、

 回想シーンとして描かれ、映画のタイトル「小川の辺」のキーワードとなっていることに気づかされる。

 小川の辺は幼き日の朔之助と田鶴、そして若党の新蔵が遊んだ思い出の場所であり、

身分を超えて過ごした楽しい場所として描かれている。

 佐久間森衛とその妻田鶴が脱藩者として隠れ住む場所も、小さな丸木橋を渡った川の辺にあり、

二人がつつましく暮らすには静かで、ひっそりとした景色の中に溶け込んでいるような場所である。

 

この隠れ家に、朔之助と新蔵は討手として乗り込んでいく。

 

 剣の盟友・森衛との関係や妹・田鶴との兄妹の関係を、「義」のために断つこともいとわず、

朔之助は丸木橋を渡り、森衛と対決する。

 

 小川の辺のイメージは、「情」の世界であり、

その「情」の世界を断ち切って、橋を渡り、「義」を押し通す朔之助。

「義」と「情」の世界が対照的に見事に描かれている。

 

 『斬りあいは長かったが、朔之助はついに佐久間を倒した…』と、

映画では大きな盛り上がりの場面であるが、原作ではあっけないほど簡単に述べられる。

 留守にしていた田鶴が帰ってきた。

田鶴は予想した通り、白刃をふるって、兄・佐久間に挑んでくる。

「…佐久間は尋常に戦って死んだのだ。女子供が手出しすべきことではない」

                                         (つづく)

 

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映画と小説「小川の辺」・決然として生きる②

2011-08-11 21:29:38 | 映画と小説

 

 「上意討ちの討手をなぜ断れなかったのか」と、

母の以瀬(松原智恵子)は、朔之助をなじり、

兄妹が刀を交えるかもしれない不運を激しく嘆く。

 

 「藩命じゃ。朔之助が申す通り、もはや拒むことはできん」

父・忠左衛門(藤竜也)は、静かに言う。

のっぴきならない状況を目前にして、忠左衛門も朔之助も藩命を受け止め、武士の道を、「義」に生きようとする。

 しかし、以瀬は執拗に言う。

「妹の田鶴が斬りかかってきたときは、どうするつもりなのか」と、

朔之助を詰問する。

 理不尽な「藩命」から、以瀬は我が娘を守ろうとする。

 森衛も剣客だが、女とはいえ田鶴にも剣の心得がある。

 「そのときは斬れ」

我が娘を斬れと、こんな激しい思いが、この静かな老人のどこん潜んでいるのか。家長として、藩公に仕え、家を守ってきた武士としての矜持が、忠左衛門を意思の強い人間にしているのでしょう。

 情に流され息子朔之助を責める母・以瀬。

 決然と「斬れ」と言葉少なに父・忠左衛門は言う。

 家を守るためには理不尽でも主命に従うざるを得ない。

 家長としてのこの言葉は重い。

 「義」に生きざるを得ない忠左衛門と朔之助、

 「情」に翻弄される以瀬と田鶴。

 以瀬と忠左衛門を演じる松原智恵子、藤竜也が深みのある演技で物語に厚みを加えている。

 

 映画は朔之助と子飼いの若党・新蔵が討手として下総に向かう旅の部分に多くの時間を割いている。

 道中の美しい風景を、朔之助の「義」に生きる生き方と対比して描いている。

 何事もなかったように淡々と旅を続ける二人の背景に、自然あふれる景色が流れていく。

 「急ぐこともあるまい、ゆるりと参ろうではないか」。

朔之助の心情を、たった一言の台詞(せりふ)で表現してしまう原作者・藤沢周平はさすがです。

                                      (つづく)

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映画と小説「小川の辺」・決然として生きる①

2011-08-09 22:18:32 | 映画と小説

 

  豊かな自然を背景に、淡々と描かれる映像が美しい。

前作「山桜」もまた、美しい日本の風景の中で、

若い男女のほのかな心の移ろいを描いて見事である。

 さらに、監督は異なるが「花のあと」(監督・中西健二)も同じような視点で、快い余韻が残る作品である。

 これらは皆、藤沢周平の短編小説の映画化であるが、

「山桜」「花のあと」は若く美しい女性が主人公である。

 

 さて、「山桜」も「小川の辺」も東山紀之を起用しての映画であるが、

端正な顔立ちの中に、どこか凛とした気品を漂わせ、

劇中多くを語らず、表情も抑え気味の演出が、

作品の質を高めているようです。

 

 藩命とはいえ、

朔之助(東山)が妹・田鶴の夫であり剣の盟友でもある、

佐久間森衛を討たなければならない心情は心苦しい。

 だが映画ではこのへんの朔之助の辛い思いも極力抑え、さらりと流す。

 妻をともなって脱藩した森衛であるが、郷村役人として、

藩の悪政を糾弾し、政道を正すために、疲弊する農民の窮状を、

重臣を飛び越え、藩公に上訴するという非常手段に訴える。

御法度の規則破りである。

 

 信念を曲げず、真っすぐにしか生きられない不器用な男は、

謹慎処分中に「脱藩」。

藩命に逆らう、これは重罪である。

 

 「藩命」により森衛を討つ。

朔之助に課せられた命題もまた重く、苛酷である。

                                (つづく)

 

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