太宰治 情死行 ③生活の乱れと女性遍歴
作家として世間的な名声を得た現実とは裏腹に、太宰の私生活はすさんだ生活の連続だった。
太宰の人生の女性問題を初めとする乱脈ぶりに驚かされる。
年譜から抽出してみる。
(無味乾燥な年譜ですが、どうか読み飛ばさないで眼を通し、太宰の人生をなぞって欲しい)
大正14(1925)年 16歳 青森中学校在学
宮越トキが行儀見習い女中として実家・島津家に住み込む。
大正15・昭和元(1926)年 17歳
芥川龍之介に心酔する一方、女中のトキに恋心を抱き苦しむ。
昭和2(1927)年 18歳 青森中学卒業 官立弘前高校入学 芥川自殺に衝撃を受ける。
青森の花柳界に出入りし、芸妓・紅子と馴染になる。
昭和4(1929)年 20歳 創作活動のかたわら紅子との逢瀬をつづける。
カルモチンを多量に嚥下し、第一回自殺未遂事件を起こす。
昭和5(1930)年 21歳 東京帝大仏文科入学 共産党のシンパ活動に参加。
10月 芸妓・紅子(小山初代)出奔 分家除籍を条件に結婚を認められる。
初代は一端青森に帰る。その間に、銀座カフェーの女給田部シメ
子と鎌倉七里ガ浜で薬物心中を計り、シメ子は絶命、自殺ほう助罪
に問われる。
12月 小山初代と仮祝言
昭和6~7(1931~32)年 22~23歳 シンパ活動を続け官憲に追われ、頻繁に住居を変える。青森
警察から出頭を求められ、以後非合法活動から離脱。
昭和10(1935)年 26歳 大学卒業は単位不足でできず、新聞社入社試験にも失敗、鎌倉山で縊死
を図り、未遂に終わる。
急性盲腸炎の手術後、腹膜炎を併発し鎮痛剤パビナールを射ち、習慣化
する。
昭和11(1936)年 27歳 パビナール中毒治療の為入院。入院中に妻初代、姦通事件を起こす。
昭和12(1937)年 28歳 初代の過失を知り、水上温泉でカルモチン心中を図るが未遂。
初代と別れる。
昭和13(1938)年 29歳 石原美知子と見合い。
昭和14(1939)年 30歳 石原美知子と結婚(媒酌人・井伏鱒二夫妻)
比較的安定した生活を続ける。だが一方で太田静子と恋愛関係に陥る(昭和16年頃)。
太宰は神奈川県の山荘「大雄山荘」に疎開中の静子に会いに行く(昭和19年頃)。
静子太宰の子を宿す(昭和22年冬) 同年初夏 生まれてくる子の相談に三鷹の太宰宅
を訪れる。
昭和22(1947)年 38歳 5月24日三鷹の太宰を訪れた静子は〈山崎富栄〉と鉢合わせする。
この日が、生きた太宰を見た最後となった。11月太田静子に女児誕生。
9月頃より仕事部屋を富栄の部屋に移す。
昭和23(1948)年 39歳 1月上旬 喀血 進退極度に疲労し、しばしば喀血。
6月13日 夜半富栄と玉川上水に入水(住まいから5~6分の処)。
法名 文綵院大猷治通居士(ぶんさいんたいゆうちつうこじ)
文綵院→文章を生業とするもの
大猷治通→(作家として)道を究める。
『治』は太宰の本名・津島修治から採った。
年譜の中から、あえて文学活動をカットし、太宰の生活の乱脈ぶりを表現してみた。
30代に入って文学界で名声を得るようになり、
特に35歳以降の活躍は目を見張るものがある。
だが、長年の不摂生で、肉体的にボロボロになり、女性関係も行き詰まりを迎えていた。
この太宰を献身的に、命がけで支えていたのが、山崎富栄だった。
私は富栄の献身的な支えがなかったなら、
太宰の命はもう少し短かったのではないかと思っている。
太宰が選んだ仕事場近くの玉川上水は、
偶然に選ばれた場所だったのかと書いた(②)が、
この稿を起こしている今は、
富栄との情死行を決行する頃は、肉体的に衰弱し、
遠出のできない太宰は近くの玉川上水を選ばざるを得なかったのではないかと思う。
(つづく)
次回 ④ 情死行 遺体発見とその後の太宰と富栄
(つれづれに……心もよう№118) (2021.7.29記)