雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

太宰治 情死行 ③ 生活の乱れと女性遍歴

2021-07-30 06:30:00 | つれづれに……

 太宰治 情死行 ③生活の乱れと女性遍歴
  作家として世間的な名声を得た現実とは裏腹に、太宰の私生活はすさんだ生活の連続だった。
  
太宰の人生の女性問題を初めとする乱脈ぶりに驚かされる。
  年譜から抽出してみる。
       (無味乾燥な年譜ですが、どうか読み飛ばさないで眼を通し、太宰の人生をなぞって欲しい)

  大正14(1925)年 16歳 青森中学校在学 
              宮越トキが行儀見習い女中として実家・島津家に住み込む。
  大正15・昭和元(1926)年 17歳 
               芥川龍之介に心酔する一方、女中のトキに恋心を抱き苦しむ。
  
昭和2(1927)年 18歳   青森中学卒業 官立弘前高校入学 芥川自殺に衝撃を受ける。
              青森の花柳界に出入りし、芸妓・紅子と馴染になる。
  昭和4(1929)年 20歳   創作活動のかたわら紅子との逢瀬をつづける。
              カルモチンを多量に嚥下し、第一回自殺未遂事件を起こす

   昭和5(1930)年 21歳   東京帝大仏文科入学  共産党のシンパ活動に参加。
                10月 芸妓・紅子(小山初代)出奔 分家除籍を条件に結婚を認められる。
                初代は一端青森に帰る。その間に、銀座カフェーの女給田部シメ
                子と鎌倉七里ガ浜で薬物心中を計り、シメ子は絶命、自殺ほう助罪
                に問われる。
                                              12月 小山初代と仮祝言
   昭和6~7(1931~32)年   22~23歳 シンパ活動を続け官憲に追われ、頻繁に住居を変える。青森
               警察から出頭を求められ、以後非合法活動から離脱。
   昭和10
(1935)年 26歳 大学卒業は単位不足でできず、新聞社入社試験にも失敗、鎌倉山で縊死
             を図り、未遂に終わる。
             急性盲腸炎の手術後、腹膜炎を併発し鎮痛剤パビナールを射ち、習慣化
             する。
  昭和11
(1936)年 27歳  パビナール中毒治療の為入院。入院中に妻初代、姦通事件を起こす。
  昭和12(1937)年 28歳     初代の過失を知り、水上温泉でカルモチン心中を図るが未遂。
             初代と別れる。
    昭和13(1938)年 29歳   石原美知子と見合い。
    昭和14(1939)年 30歳      石原美知子と結婚(媒酌人・井伏鱒二夫妻)
 
     比較的安定した生活を続ける。だが一方で太田静子と恋愛関係に陥る(昭和16年頃)。
     太宰は神奈川県の山荘「大雄山荘」に疎開中の静子に会いに行く(昭和19年頃)。
     静子太宰の子を宿す(昭和22年冬)
 同年初夏 生まれてくる子の相談に三鷹の太宰宅
     を訪れる。
 
  昭和22(1947)年 38歳 5月24日三鷹の太宰を訪れた静子は〈山崎富栄〉と鉢合わせする。
              この日が、生きた太宰を見た最後となった。11月太田静子に女児誕生。
              9月頃より仕事部屋を富栄の部屋に移す。
 
昭和23(1948)年 39歳  1月上旬 喀血 進退極度に疲労し、しばしば喀血。
               6月13日 夜半富栄と玉川上水に入水(住まいから5~6分の処)。

          法名 文綵院大猷治通居士
(ぶんさいんたいゆうちつうこじ)
                      
綵院→文章を生業とするもの 
                    大猷治通→(作家として)道を究める。
                   『治』は太宰の本名・津島修治から採った。

  年譜の中から、あえて文学活動をカットし、太宰の生活の乱脈ぶりを表現してみた。
   30代に入って文学界で名声を得るようになり、
  特に35歳以降の活躍は目を見張るものがある。
  だが、長年の不摂生で、肉体的にボロボロになり、女性関係も行き詰まりを迎えていた。
  この太宰を献身的に、命がけで支えていたのが、山崎富栄だった。
  私は富栄の献身的な支えがなかったなら、
  太宰の命はもう少し短かったのではないかと思っている。

       太宰が選んだ仕事場近くの玉川上水は、
  偶然に選ばれた場所だったのかと書いた(②)が、
  この稿を起こしている今は、
  富栄との情死行を決行する頃は、肉体的に衰弱し、
  遠出のできない太宰は近くの玉川上水を選ばざるを得なかったのではないかと思う。
                               
                                                                                                                           (つづく)
    次回 ④ 情死行 遺体発見とその後の太宰と富栄 

  
 (つれづれに……心もよう№118)   (2021.7.29記)

 

 

 

 

 

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太宰治 情死行 ② 最期の太宰治・玉川上水

2021-07-26 06:30:00 | つれづれに……

太宰治 情死行 ② 最期の太宰治・玉川上水
玉川上水
 前回にも触れたが私が東京近郊を走る玉川上水を歩いたのは、
 およそ2年前のことだった。玉川上水路散策が目的ではなく、
 三鷹の禅林寺にある太宰の墓を訪ねるためだった。
 禅林寺と玉川上水は近く墓参の帰りに、玉川上水に行った経緯があった。
   
  閑静な三鷹の住宅地を縫うようにして流れる上水路は、川沿いに木々が生え緑地の散歩道として
  近隣の住民の散策路でもあった。
  木陰の道を歩きながら、水かさの少ない浅い流れの水路を眺め、
  どうしてこんな浅い水路を太宰は死出の旅路の情死行に選んだのか、私は理解できなかった。
   疑問の解消は、事件当時の新聞記事を読ん時だった。


  13日の深夜、もしくは未明に太宰と愛人富栄が行方をくらまし、
  騒ぎが大きくなったのは14日の午後だった(①を参照) 。
  
新聞各社が報道したのは、16日だった。
  
             (朝日新聞 昭和23年6月16日付)
     上段中央 遺体捜索風景、その左 富栄の部屋に飾られた二人の写真(和服姿の富栄とバーのス
    タンドで足を組んでいる太宰)。 
              左二段目 捜索願に提供された富栄、その下しかめ面をした太宰。
    死出の旅路の支度をした富栄の部屋に残された写真や、遺書の一部まで朝日が掲載できたのは、
    「14日午後引用で示した騒ぎの最中に朝日新聞学芸部の部員が、新聞連載小説「グッド・バイ」の
    打ち合わせに偶然来ていて、太宰の失踪騒ぎに遭遇した」(①参照)からだと思う。

    作為のない嘘
     記事のサブタイトルに「梶原悌子氏によれば、14日午後引用で示した騒ぎの最中に朝日新聞学芸
     
部の部員が新聞連載小説「グッド・バイ」の打ち合わせに偶然来ていて、
     太宰の失踪騒ぎに遭遇した、
」、とあるがこういう記事の書き方は誤解を招くもとにな
     る。いかにも太宰が「書けなくなった」と遺書を残したように読者は解釈するだろう。
     だが、記事の全文を読んでみると、記事の最後に、絶筆「グッドバイ」という小見出しがあり、
     ドンファンの主人公・田島が妻あての遺書の中で、
     「小説が書けなくなった。人の知らぬところに行ってしまいたい」と書く場面があり、
     太宰が自分の遺書として書いたわけではない。
     また、太宰の遺書の中には具体的な情死行の理由も見当たらない。
     もうひとつ、記事の大見出しには『太宰治氏情死』とある。
     16日発行の新聞だから、記事内容は15日の締め切り時間前の出来事を記載した
     ものであるが、遺書が発見され、捜索願が出されたにせよ、15日の時点で「太
     宰治氏情死」というタイトルはいかがなものだろう。
     人の生死にかかわることであり、道行きの女性がいたと思われる状況で、
     断定的なタイトルは性急に過ぎる。
     三鷹署が入水自殺と断定したのは16日。
     状況証拠のみで断定記事を書くことの危険性を、私たちは過去の報道から容易に抽
     出することができる。
     読者が読んで誤解するような記事は許されない。このような記事を「作為のない嘘」という。
     週刊誌などがしばしば使う「常套手段」だ。

    話を本題に戻します。
                   私が玉川上水を訪れた時に抱いた疑問を、ノンフィクション作家・梶原悌子も
     次のように述べている。
     『いま玉川上水は雑草に覆われ、その流れはわずかでしかない。
     二人を呑み込んで多数の人々による捜索が五日間も続けられたとは想像もできない』
     当時の玉川上水の状態を新聞記事から抽出してみよう。

     『二人が入水したとみられる現場は、川幅はせまいがひどい急流で深いところは一丈五尺もあ
     り、落ちると死体も上がらぬ魔の淵』(読売)

     『(玉川上水は水深二メートル幅十二メートルの急流で、川壁に洞穴が無数にあり死体発見は
                  相当困難なものとみられる)』(毎日)

    十六日には三鷹署も二人が上水に入水自殺したものと断定し、捜査のために浄水場水門をしめ、減
    水してくれるように水道局に依頼したほどだったが、朝から雨は激しく降り続き、水は濁って捜索
    は難航した。

    また、作家・野原一夫氏は
     『回想・太宰治』の著書の中で捜索の日のことを次のように述べている
   『「この川は人喰い川というんだ、入ったらさいご、もう死体は絶対に揚がらないんだ」と
    太宰さんは散歩の途中、上水の流れを見ながら言っていた。「川のなかが、両側に大きく
    えぐれていてね、死体はそのなかに引き込まれてしまう、おまけに水底には大木の切り株
    なんかがごろごろしていてそれに引っかかる」』
    この散歩がいつの頃の出来事なのかわからないが、回想が本当だとすれば太宰の死への願
    望が如実にわかる一文であり、太宰は偶然にもこの上水を死での旅路に場所に選んだこと
    になる。
     はたして、偶然に選ばれた「死に場所」だったのだろうか。
    二度にわたる心中未遂事件を経て、三度目の富栄との情死行で、
    太宰は玉川上水の水底に沈んだ。
    作家として世間的な名声を得た現実とは裏腹に、太宰の私生活はすさんだ生活の連続だった。
                                       (つづく)
       次回 太宰治 情死行 ③ 最期の願い
       (つれづれに……心もよう№117)            (2021.7.25記)
 
 

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読書案内「南三陸日記」 ⑦ 新しい命

2021-07-12 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」 ⑦ 新しい命

 前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。

  前回⑥ おなかの子に励まされてのつづき
     新婚一週間目で夫の智〇さんを津波に呑まれたE子さんのお腹には、
    新しい命が宿っていた。「安心して。私絶対この子を産んでみせるから」。
    亡くなった夫への誓いの言葉は、E子さん自身への励ましの言葉でもあったのでしょう。
    「つらくて何度も死のうと考えた」E子さん。
    でもそう思うたびに、おなかの子どもがE子さんのお腹をを蹴って、
    「生きよう、生きよう」と言っているようにE子さんには思えた。
    それはたぶん、まだ見ぬ赤ちゃんのお母さんへのメッセージであると同時に、
    夫の智〇さんからE子さんへの励ましのメッセージでもあったのでしょう。

 ⑦ 新しい命
          
     (希望の光・新しい命の誕生「三陸日記」より引用)

    夫の智〇が津波にさらわれた日から、4カ月か過ぎていた。
   7月11日。新しい命の誕生が始動し始まる。
   陣痛。
   夫・智〇の母・江利子さんは息子の遺影を病室に持ち込んだ。
   「智〇、力を貸してね」
   と願う江利子は、きっと遺影に向かって祈りをこめて語りかけたのだろう。
   
    江利子さんにも乗り越えなければならない辛い被災の経験があった。 

 夫とは離婚している。保険会社に勤めながら、石巻市で食堂を営む両親と一緒に、二人の子供を育てた。だから津波で家族四人を同時に失ったとき、暗闇に一人突き飛ばされたような気がした。
「生まれてくる子は、私の最後の希望なんです」 (引用)

  幸せの絶頂にあった息子(智〇)を失い、
 その息子は津波の引いた後の水たまりで、
 近くで見つかった妹を抱くような姿で発見された。
 両親も津波にさらわれた。
 独りぼっちになってしまった江利子さんに残されたたった一つの希望は、
 息子が残したE子のお腹に芽生えた新しい命だった。

 7月12日、午後七時三十二分。産声が響いた。
 新しい命の誕生だ。
 分娩室の扉が開かれ、大きなタオルに包まれ「おばあちゃん」になった江利子さんの前に
 元気な女の赤ちゃんが姿をあらわした。
 みんなが泣いていた。
 助産婦さんまで目を真っ赤に腫らして泣いた。

 「生まれてきてくれて、ありがとう」
  江利子おばあちゃんは泣きながら言った。
 「これから、いっぱい笑おうね」

 最後の一行は次のように結ばれている。 

小さな命はしっかりと目を開いて、応えるように「おばあちゃん」を見た。

                             (つづく)
    次回は「太宰治 情死行」②を掲載します。

 (2021.7.11記)     (読書案内№180)

 

 

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太宰治 情死行 ① 桜桃忌に寄せて

2021-07-08 06:30:00 | つれづれに……

太宰治 情死行 ① 桜桃忌に寄せて 

 死に急いだ無頼派作家 太宰治
    
           写真1                    写真2
      (写真1)  昭和21年秋、東京銀座のバー・ルパンにて  (撮影・林忠彦) 
      (写真2)
 昭和23年4月、三鷹の自宅にて。左より長女園子、太宰、次女里子。                                   
             太宰の多くの写真が、神経質で太宰の苦悩が表情に現れているような写真で
     私は好きになれなかった。
     この二枚は例外的な写真だ。
     新潮日本文学アルバムに掲載された写真で、
     私が好きな写真である(見つけるのに苦労した二枚である)。
     
                      小説家水上勉はエッセイ『苦悩の年鑑』で二枚の写真について次のように書いている。
      酒房ルパンでの、太宰さんの屈託のない明るいお顔を拝見していると、それから一年半た
      って、太宰さんにあんな死が訪れようとは、誰も思っていまい。ルパンの写真には、まっ
      たく、その後一年半の無茶苦茶な酒びたりの修羅は想像できないのである。(…略…)
      縁先ににわとり二羽を入れた金網の四角い鶏舎があって、六歳の園子さんがおかっぱで立
      ち、太宰さんはいっさいの里子さんを抱いて、園子さんの方を向いて笑っておられる。二
      十三年四月とあるから、亡くなる二カ月半前だろう。
      エッセイの最後は再びこの二枚の写真に触れて次のように結んでいる。
      ルパンの木椅子にあぐらをかいておられる写真と、二羽のにわとりの入った金あみ籠のあ
      る縁先で、ふたりのお嬢さんと笑顔でしゃがむ太宰さんの写真を見ていると、太宰さんの
      つかのまの平穏と安息が想像されて、眼がうるむ思いのするの私だけではあるまい。


 昨年も雨だった「桜桃忌」。
 今日6月19日は「桜桃忌」。
 梅雨のさなかの年に一度の「桜桃忌」は雨に降られる日が多いとか。

桜桃忌と誕生祭
 
 
1948年のこの日、6月13日に自殺した作家・太宰治の遺体が発見された。
  13日に失踪した日も、遺体が発見された日も雨が降っていて、
  玉川上水は水かさを増し、水流は激しく濁流となって流れていた。

  6月13日、太宰治が戦争未亡人の愛人・山崎富栄と玉川上水に入水心中し、
 6日後の19日に遺体が発見された。
 また、19日が太宰の誕生日でもあることから、6月19日は「桜桃忌」と呼ばれ、
 三鷹市の禅林寺で供養が行われる。
 その名前は桜桃(サクランボ)の時期であることと晩年の作品『桜桃』に由来している。

  太宰治の出身地・青森県金木町では、
 生誕90周年となる1999年から「生誕祭」に名称を改めた。
 親族にとって太宰の情死は「痛ましい事件」であり、
 6月19日を遺体発見に由来する「桜桃忌」として偲ぶよりも、
 同じこの日を「太宰が生まれた日」として在りし日の太宰を偲びたい、
 という思いが親族にあったのではないか。


     6月13日の午後、二人は太宰が仕事部屋にしていた小料理屋「千草」の2階の6畳間から、
    筋向いにある山崎富栄の下宿先に移る。
 遺書をしたため、死出の旅支度を終わったのはその日の深夜だった。
 太宰は愛人山崎富栄と共に、二人の住まいから5分ほどの玉川上水に身を投げる。

 梶原悌子の記録文学『玉川上水情死行』から引用します。
 太宰と富栄の家出を最初に知ったのは野川アヤノであった。
 アヤノは富栄が部屋を借りていた家主で、
 14日の昼近くなっても富栄が起きてこないのを不審に思った。
 二カ所の雨戸も閉じられたままだった。
 声を掛けても返事がないので二階に上がり部屋の戸を開けると、
 整理された室内には線香の匂いがこもっていた。
  部屋の隅にある本棚の上に和服姿の富栄の写真と、
 バーのスタンドで足を組んだ太宰の写真が並べられていた。
 驚いたアヤノは筋向いの小料理屋「千草」に走り、店の女主人増田静江に様子を伝えた。

 
 発見された二通の遺書は、太宰の妻あての封書と、
 二人連名の小料理店「千草」宛の便せんだった。

 翌朝15日は朝日新聞だけが「太宰氏家出か」と第一報を奉じた。
 なぜ、朝日新聞のスクープ(?)なのか。
 梶原悌子氏によれば、14日午後引用で示した騒ぎの最中に朝日新聞学芸部の部員が
 新聞連載小説「グッド・バイ」の打ち合わせに偶然来ていて、太宰の失踪騒ぎに遭遇した、とある。
 しかし、この時点で太宰自殺を報じるには、遺書という状況証拠があるのみで確証に乏しい。
 当時、すでに売れっ子作家だった太宰を14日時点で、
 「自殺」「心中」という内容で報じるにはあまりにセンセーショナルな出来事だった。
 記事はたった15行ほどで、「…家出か」と、憶測記事にせざるを得なかった。
 しかも同行者と思われる女性の名前を山崎晴子と間違えている。
 15日朝刊の締め切り間際だったのか、いずれにしても偶然に立ち会えた太宰氏失踪に、
 新聞社側の動揺ぶりが推測されます。
 朝日新聞1948年6月15日朝刊の記事
    北多摩郡三鷹
   町下連雀一三作
   家太宰治氏(本名
   津島修二(四〇)は
   十三日夜同町内の
   山崎晴子さん(三
   〇)方に美知子夫
   人と友人にあてた
   遺書らしいものを
   残して晴子さんと
   二人で行方をくら
   ませていることが
   十四日わかり、同
   日夫人が三鷹署へ
   捜索願いを出した。(梶原悌子著 玉川上水情死行より引用)

     記事は15行というので、再現してみた。(実際の記事は縦書き)

 当時の玉川上水は現在とは違い、水かさもあり、水深も深かった。
2年ぐらい前に私が訪れた時、水勢は弱く、浅瀬を流れる水を眺めながら
太宰はなぜこんなところに身を投げたのかと不思議に思った。

 玉川上水は江戸の人口増加に伴い、多摩川から江戸に水を供給するための上水路で、
多摩川羽村市取水口から四谷まで高低差92.3メートル、
全長43㎞に及ぶ距離を1年で完成したというから、
近辺住民の労力負担を思うと、大変な事業だった。
新聞記事によると、
当時の玉川上水路は水深2メートル、幅2メートルの急流だった、とある。
昭和40(1965)年に利根川の水が東京に引かれると、
その役割も終わり、現在の流れになったようです。

 二人を呑み込んだ急流で、五日間も大勢の人々が捜索に関わったことなど、
現在の流れからは想像できません。濁り水が流れ梅雨時の玉川上水は水量が増し、
捜査は難航し、遺体発見は19日を待たなければならなかった。
                                (つづく)
  
(次回はシリーズ「三陸日記」⑦「新しい命」をアップします)


    (2021.7.7記)               (つれづれに……心もよう№116)

 

 

 


 

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