雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

黄昏時を生きる ① 恍惚の人

2020-02-24 11:51:41 | 黄昏時を生きる

  黄昏時を生きる ①
   小説「恍惚の人」は
      目の前に起こりつつある高齢者社会への警鐘でもあった。
     高齢社会について:
      高齢化社会とは……65歳以上の人口が、全人口に対して7%を超えた社会のこと。
      高齢社会とは   ……65歳以上の人口が、全人口に対して14%を超えた社会のこと。
      超高齢社会とは……65歳以上の人口が、全人口に対して21%を超える社会のこと。
    さて、日本の高齢社会はどのような経緯をたどってきたのでしょうか。
    1970年代に高齢化社会に、その後25年足らずの1994年には高齢社会に突入、
    その約半分の13年後には14%を超える超高齢社会が訪れました。
    2025年には30%、2060年には約40%に達するであろうと、
    統計グラフ(公益財団法人・長寿科学振興財団)は容易ならざる未来を暗示しています。

              グラフ1:日本の人口推計と高齢化率の推移を示したグラフ。2060年には高齢化率は約40%を見込むことを示す          グラフには少子高齢化の現実を如実に物語っています。
    高齢化の高い国には、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカなどが知られていますが、
   これらの国の高齢化率は長い時間を(50~100年)かけて到来した人口現象です。
   日本のように30年ぐらいで高齢化を迎えた社会は世界に例を見ないといわれています。

   社会学の世界では高齢社会の到来をかなり早い段階から予測し、
   警鐘を鳴らしていた。
   だが、
   政治の社会では見えない近未来の社会についてはなかなか手を打つことができない。
   どうしても、現実に抱えている問題に追われ、
   それさえも完全に対応することはできない。
   国民の希望も、「今そこにある現実」の改善を望む傾向にある。

   少子高齢に伴う問題は、
   社会保障や労働問題など多くの構造的、複合的社会問題を含んでいる。

   1970(昭和45)年、65歳の高齢者の全人口に占める割合が7%を超えた。
   高齢化社会の到来である。
   だが、この時点で将来に不安を抱いた人は少なかった。
   有吉佐和子は時代の流れを敏感に感じ取り、2~3年の時間を費やし、
   当時新潮社が力を入れていた「純文学書下ろし作品」の一冊として
   「恍惚の人」を世に出し、高齢化社会に警鐘を鳴らした。

   まだ、アルツハイマーとか、認知症などという言葉が、社会の中で 
   使われていなかった時代の時だった。
   「恍惚の人」はやがて当時の流行語にもなっていき、
   果たして、長生きすることがいいことなのか?
   誰もが一度は直面しなければならない老いの問題に
   一石を投じた「警鐘と問題提起」の書だったように思います。

 1972年(昭和47)発刊。有吉佐和子著 新潮社
          (画像は1982年発行の新潮文庫)

 著者の言葉:  数年前から私は自分の肉体と精神に飴色に芽吹き始めた老化に気づき、
       同時に作家としてこれは最後まで直視しようと決意していた。外国へ
       出かけると老人の施設を隈なく見学し現代にあっておいて生きるのは
       自殺するより遥かに痛苦のことであると悟った。科学の進歩は人間の
       寿命を延ばしたが、それによって派生した事態は深刻である。

       今から48年前の初版本に書かれた言葉です。


   (黄昏時を生きる№1)      (2020.2.24記)





 

 

 

 

 



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アフガンの大地に倒れた中村氏を悼む  「悔しい」とただそれだけを思い泣く…

2020-02-13 06:27:34 | 昨日の風 今日の風

アフガンの大地に倒れた中村氏を悼む
            「悔しい」とただそれだけを思い泣く……

 共に撃たれしアフガンびとを悼みたる家族の声のとうとかりけり 
                              
 ……(水戸市)中原千絵子 朝日歌壇2020.01.12
     中村哲氏がテロの銃撃に襲われた時、
    同乗していたアフガニスタン人の運転手、警備の人など五人も犠牲になっていた。
    「父を守るために亡くなったアフガンの運転手や警備の方、残された家族へ申し訳ない気持ちで
      いっぱい」と親族代表としてあいさつした長男健さん(36)はお悔やみの言葉を述べた。
    たくさんの参列者がこの言葉に、
    志半ばで銃弾に倒れた父への哀しみに耐え、
    犠牲になったアフガンの人々の家族への思いやりに涙しました。

 

アフガンの大地に水と人の「道」創りし仕事中村氏逝く 
                        ……(観音寺市)篠原俊則 朝日歌壇2020.12.29
    アフガンの大地は渇いた「沙漠」で、砂の「砂漠」ではない。
    赤茶色に乾燥したした大地は、一切の緑を拒否している。樹も野菜も育たず、牧草も生えないから
    牧畜も成り立たない。水が枯れた大地は、私たちが想像するよりはるかに過酷な大地だ。
    生活に必要な水汲みは女の仕事だ。
    数キロも先の水場から、家族のために命をつなぐ水を頭に乗せて運ぶ。
    汚れた水は命をつなぐ水でもあり、ときによっては命を奪う水にもなりかねない。
    汚れた水は、胃腸炎を起こし、大人だけでなく、幼い命を奪う細菌の混じった汚れた水でもある。
    そうして中村氏は医療から、渇いた大地を潤し、緑の大地の創生にエネルギーを注ぐことになる。
    その間のこころの経緯を、中村医師との対談の中で澤地久枝は次のように述べている。 

 医師として、医業にいかに献身してもむなしい答しかない現実。原因をのぞかねば救えない命の数々。死の跳梁を手をつかねて見ていることができず、ついには、沙漠化するアフガニスタンの大地に水をもたらすべく、水路建設に率先してとりくむことになった医師の奮闘に、多くの日本人が共感し、事業資金を寄せて来た事実を私は知った。
        人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束 
                中村哲・澤地久枝対談集 岩波書店2010年2月刊行

生きるため傭兵になる男らを緑の大地に導きし人
                      
……(松阪市)こやまはつみ 朝日歌壇2020.12.29
 この歌もまたアフガンの過酷な現実を見つめている。
 傭兵になって一家の命を支える。
 命を賭けるだけの仕事なのかどうか。部外者でアフガンの現実を知らない私には判断のしようがない。
 ただ一つ言えることは、傭兵にならざるを得ない過酷な現実があり、
 何とも言えない憤りが沸々と湧き上ってくる、ということだ。
 ブルトーザーで水路を開削し、命の水を引く中村医師は、
 命を賭けて過酷な現実に向かって、当たり前に生きられることの素晴しさ実証しよとしたのではないか。

薬では飢えや渇きは治せぬと水路作った中村医師逝く 
                      
           ……(那珂市)小野瀬寿 朝日歌壇2020.12.29
 アフガニスタンは、二つのイスラム勢力が対立する。
 イスラム原理主義・タリバンとスンニ派過激組織「イスラム国」の二つの組織が、
 テロ攻撃の応酬を繰り返し治安は最高に悪い。支援活動を行う団体も標的に合う、と報道は伝える。

 医療行為をする医師も少なく、薬の補給もままならない。
 「医者がいる」という情報は人から人へと辺境の山岳地帯に流れていく。
 食料が乏しく、栄養状態の悪い住民が山を越え、谷を渡って中村医師のところに来るが、
 医薬品を持たない医師の無力さを無念の思いで噛みしめる。
 意気消沈して重い足取りで来た道を戻っていく後姿を中村医師は、
 ただただ黙って見送るほかに手立てがなかった。
 

 今、住民に最も必要なものは、「百の診療所よりも」、清潔な水を供給できる井戸であり、
『大干ばつにより栄養失調に加え、汚い水を飲み、赤痢で亡くなる人々も大勢いました。医療者たちは、幼い子どもたちの命を奪っていく大干ばつに、なす術なく立ちつくすのみでした。きれいな水と食べ物さえあれば、多くの人が死なずに済んだという思いが溢れてきました』と、報道はルポルタージュで伝えます。
 
 ペシャワール会によれば、1991年には、ダラエヌール(アフガニスタンの東部山岳地帯)に最初の診療所を開設し、1998年には恒久的な基地病院としてPMS(ペシャワール会医療サービス)病院をペシャワールに建設します。以来、東部山岳部の3診療所を中心に、山岳無医村での医療活動を行なってきたようです。

 やがて、PMS病院の付近に井戸掘りが開始されます。
 ここでは、医療よりも、清潔な水と食べ物の確保の必要性は、
 PMS病院付近に井戸を堀り、2000年5月に開始されたこの事業を中心に新たな活動を始めます。
 飲料用井戸約1600本と直径約5mの灌漑用井戸13本を掘削。
 2003年には、全長25.5キロの農業用水路の建設にも取り掛かります。
 乾いた大地に緑が復活します。

 

先生を返せお前も井戸を掘れ正しいことなら何故撃って逃げた
                     
……(奈良市)矢尾米一 朝日歌壇2020.12.29
 痛恨の思いを矢尾さんは、「正しいことなら何故撃って逃げた」と歌に怒りをぶつけています。
 「先生を返せ」と悲痛な慟哭の叫びが聞こえてくるようです。

「悔しい」とただそれだけを思い泣く中村医師を識る人はみな 

                               ……(瀬戸市)冬木裕子 朝日歌壇2020.12.29
 崇高な志半ばにテロの銃弾に倒れた中村医師への思いは、
 「悔しい」とひと言。余計な言葉はいらない。

 

十二月夢は砂漠をかけ廻る 

                 ……(久留米市)塚本恭子 朝日俳壇2020.01.12

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉

中村さんが長年かけて築いた用水路に沿って、水が流れ、大地が潤い、人々が戻り、村が再建される・・・完成した用水路の最終地点に新たな村ができる頃には、アフガニスタンは緑の大地で覆われているかもしれません。

誰の言葉だったか、ネットで見つけた言葉。
中村医師の希望の灯りに救われる言葉でした。

芭蕉は「奥の細道」の中に「わび・さび」という日本文化の礎になるような精神性を求めて、
前途三千里の行程を若くはない身体に鞭打って、
千住の河岸を門人や彼を慕う友人たちに見送られて旅立ちました。
芭蕉の夢の追及は、病んで旅に倒れようとも、絶ちがたい思いを夢に託して
臨終の際まで続いていたのでしょう。

内村鑑三が「代表的日本人」の一人として紹介した二宮尊徳もまた、
自分の夢を追いかけ実践論者として、
関東一円の荒廃し、疲弊した村々を命を賭けて復興に導いた偉大な先達者だったように思います。
小田原の生家や田畑を処分した70両を懐に妻子と伴に下野(現栃木県真岡市)の桜町陣屋に赴任しました。
全財産を処分し背水の陣を敷いた尊徳翁の並々ならぬ強い意志が感じられます。
尊徳翁もまた異郷の地でその生涯を閉じますが、
村の復興と農民への愛情は生涯消えることがなかったように思います。

 

最後に、中村医師自身の言葉を紹介してこの稿を閉じます。

 「土壌があってこそ、初めて平和に暮らしていけるのです。家族がお腹いっぱい食べることができる、そして故郷に安心して住むことができることこそが平和なのです」

 自分のことには寡黙だった中村医師の言葉です。
命を賭けた強い意志に裏付けられた、住民への優しさに溢れた言葉と受け止めることができます。
アフガンの危険地帯で夢を追いかけた中村医師の夢は、アフガンの人々の夢でもあったのです。

 ご冥福を祈ります   合掌

      (昨日の風 今日の風№105)         (2020.02.12記)

 

 

 

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