雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

老春

2017-05-27 08:30:00 | 読書案内

読書案内「老春」松本清張著

 性への執着(哀れとも思える老人の性)
「老春」という言葉は広辞苑にはない。
三省堂の大辞林には「高齢者が青年のように若々しくしていること」とあるが、
ネットで調べてみると「青春」の対語として「老春」という言葉を使用している例が多い。
しかし、清張は対語として使用しているわけではない。

 老いてなお衰えない「女」への興味、
執着あるいは妄執を78歳になる男を通して描く。
高齢者の性意識という視点で清張は
生々しい老人の問題を描いている。

この短編小説の主人公の太田重吉は、
離れに住み『自堕落に一日中万年床の中でごろごろしている』。
敷地内に住む息子夫婦とも孤立しがちの生活を送っている。

そんなある日重吉の面倒を見るために22歳の好子が女中として来た。
怠惰な日常を送っていた老人に変化が起こった。
女好きで遊び人だった自分の過去は棚に上げ、好子に訓戒を垂れたりするようになった。

好子が近所のアパート住む工員と同棲を始め暇を取ると、
重吉はアパートに押しかけ二人を罵倒しわめき散らした。
嫉妬が老人を狂わせた。

春子が代わりの女中としてきた時も、
変な男に春子を獲られないように、
騒ぎ立て周囲の人間に散々迷惑をかけてしまう。
春子もまた重吉の異常とも思える嫉妬心に姿を消してしまう。

春子が姿を消すと、老人は春子の実家がある田舎まで探しに行ってしまう。
あげく、春子を徹底して貞操のない女に仕立て上げてしまう。

若い二人の女中に懲りて、
中年の女中を雇い入れたが、
老人の性癖は変わらない。

相手が替わり、もはや若いとは言えない女にも老人の衰えない女への執心は、
周りの人間を巻き込み騒動を起こしてしまう。

清張好みの暗く淀んだおぞましい老人の生きざまに、
辟易するところはあるが、
今ほど「高齢者の性」が脚光を浴びていなかった昭和30年代に取り上げた清張の眼力に敬服する。

 この短編はミステリーではい。
老人の長男の嫁は夫に「あの年になっても性欲はあるのか」とたずねるが、
夫は「人間は枯れ果てるまでその業が払い落とされないのかもしれない」と思ったりする。

老人がまた女に関わることで問題を起こしているという電話が入り、
息子が迎えのタクシーを呼ぶ。
エンドロールのように繰り返される老人の女への執着を暗示して物語は終わる。 
                 
   ※ブックデーター   「老春」は昭和36(1961)年雑誌新潮に掲載。
               角川文庫 昭和49(1974)年刊行 日光中宮祠事件 に収録。他に8編がある。
               現在 品切れ、もしくは絶版
               


(2017.5.26記)   (読書案内№99)

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歌手を目指していた 歌は悲しみを癒してくれる

2017-05-21 08:30:00 | つれづれに……

歌手を目指していた 歌は悲しみを癒してくれる
   苦く悲しい思い出
   藤圭子が好きだった。
 「幸せになりたい」
 程度の差こそあれ、人は幸せを願ってやまない。
 いつもそう願っているわけではないが、
 人間の行動パターンや志向パターンは無意識のうちに、
 「幸せ」や「望み」の方向へ向いている。

 しかし、私たちの生活には時として思いもしなかったことが起こる。
 かけがいのない人を喪うことの辛さや哀しさは、
 残された者が目の前から消えてしまった人に、
 問いかけることができないからだ。
 「どうして」、「なぜ」と問いかけても何も答えてくれない。
 だから、張り裂けそうになった哀しみを抱えながら自問自答する以外に
 悲しみに対処する方法がわからない。

 深い喪失感を抱き、
 「なぜ逝ってしまったの」
 逝ってしまった人に問いかけ、
 時によっては自分を責めて出口のないトンネルに入り、
 心を閉ざしてしまう。

 shonanyuzurihaの「友だち」さんもまた若い時にこうした哀しみに苦しみ、
 深い喪失感を抱き、長い悲しみの時を経て
 立ち直った人なのでしょう。

 「友だち」さんのことは
 私のブログ5/18付『ひととき「ポール、ありがとう」』で紹介しました。

 その「友だち」さんから、新たなコメントをよせていただきましたので、
 紹介させていただきます。
 プライベートに関わることなので、
 公開するのを躊躇(ちゅうちょ)しましたが、
 こころよく承諾していただきましたのでお知らせします。

 「友だち」さんからのコメント
 私は藤圭子さんが大好きで、演歌歌手を夢見ていました。
 歌と踊りのレッスンを受けていたとき、
 知り合った親友が
 自ら命を終えることを選んでしまったのです。
 私はその親友がそんなに苦しんでいたことを察知してやれず、
 私はいったい何をしていたんだろう…と‥本当に申し訳なく思う日々で、
 毎日黒の服ばかり着ていました。

 歌も歌えなくなって、
 何年か過ぎ結婚、出産して少しずつ心の傷も癒えてきました。
 歌を聴くのも嫌だった日々はありのままに受け入れた自分の心が素直だったんだと
 今は思うようにしています。
 今はその親友がそばにいてくれるよう
 大好きだった歌を一緒に聴けるよう
 私の心が届いてますように…と祈っています。

 
また、次のようなコメントもいただきました。
 歌を聴いて励まされやっと自分の人生が始まった気がしました。
 嬉しい時も悲しい時も心がちょっと寂しくなった時も常に
 歌がありました。
 私よりもっともっと辛いめにあわれていらっしゃる方も沢山いらっしゃると思います。
 そこにそっと寄り添えるブログにしたいと始めました。

 
哀しみを乗り越えて立ち直っていった様子がよくわかる文章です。
 「友だち」さんにとって、
 親友の死は演歌歌手になるという『希望』をも奪ってしまうほどの
 喪失体験だったのでしょう。
 『希望』を失くした「友だち」さんですが、そのことを少しも後悔していない。
 ありのままに受け入れた自分の心が素直だったんだ

 今は辛い日々を、このように受け止めることで、立ち直ることができたのでしょう。
 歌を唄えば、「友だち」さんの心の中に、
 在りし日の「若い時のままの親友」の姿が蘇ってくるのでしょう。

 「友だち」さんへの私のコメント。
 一人一人の思いがさざ波のように広がり、
 ささやかな歌の心が、皆さんに伝わって行ったら
 嬉しいですね。

 このコメントを書きながら、今、気付いたことがあります。
 ブログ名の「友だち」の意味は、
 「歌で繋がれる人はみんな友だち」という意味と「歌は友だち」
 という深い意味があったのですね。
 もうひとつ私は若くして命を絶った「親友」のイメージもあるのかなと思います。

 そしてさらに、yuzurihaというIDにも
 「友だち」さんの思いがあったのですね。

 杠葉(ゆずりは)は常緑樹ですが、春の新緑のころ、
 後から生まれてくる若い葉っぱたちのために、
 自分の葉を一枚一枚落としていく、
 そんな健気な思いが込められていたのですね。

  
   数年前に私は14歳の孫を喪くしました。
   なんにでも挑戦する活発で明るい中学生でした。
   今でも夜更けに、
   彼の小さい時の足音が、コトコト、コトコトと聞こえてきます。

   告別式には、クラス全員がアンジェラ・アキの「手紙~拝啓十五の君へ」を
   合掌してくれました。
   すすり泣きで、タクトを振る生徒の肩が震えていました。
   クラスの仲間たちが背中で泣いていました。
   参列者のすすり泣きや、みんなの歌声が、
   今でも私の耳から離れません。

 たくさんの歌があり、
 心に響く歌は人それぞれに違うけれど、
 喜びや哀しみを
 歌には癒してくれる不思議な力があります。

         公開をこころよく承諾してくれた「友だち」さん
         ありがとうございました。
 (つれづれに……心もよう№61)     (2017.5.19記)
                     パソコンの調子が悪く、アップが遅くなってしまいました。

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ひととき 「ポール、ありがとう」

2017-05-18 08:43:06 | つれづれに……

「ポール、ありがとう」
     朝日新聞2017.4.16 ひととき欄から転載(ほぼ全文)

 昨年12月に母を亡くし、心の整理がなかなかつかない中、友達が4月末のポール・マッカートニーのコンサートに誘ってくれた。
 節約のため二段ベッドの相部屋形式のホテルをとったが、行く直前になって、引っ込み思案の上に介護生活で引きこもりがちな日々を送っていた自分がそんな宿に泊まれるかしらと不安になった。
 でも、杞憂(きゆう)だった。朝食のとき近くのテーブルにいた同室の若い女性に話しかけると、就活中とのこと。「がんばってね」と言いながら、ポールのコンサートに行ったことを話すと「私も昨日行きました!」と言うので驚いた。中2の時に「レット・イット・ビー」を聴いてビートルズを好きになったそうだが、私もだ。30歳以上の年齢差を瞬時に越え、話は尽きない。
 こんなに楽しくビートルズの話をしたことは初めてかもしれない。そして、未来に向けて羽ばたこうとしている彼女のすがすがしさは、私に未来に向かう力をくれたように思う。すてきな出会いをもたらしてくれたポールと、誘ってくれた友達に心から感謝したい。
    
(浜松市 秋山敦子 自営業 57歳)

  「歌は世につれ、世は歌につれ」といいます。
 私たちは、思い出や心の有り様を歌に託して、口ずさむことがあります。

 歌はしぼんだ心を元気にしたり、懐かしい思い出を運んできてくれます。
 同窓会で校歌を歌い、高校三年生を歌い、星影のワルツを肩を組んでうたう。

 そこに共通の思い出や、体験があり、集まった同士が歌を媒体として結ばれていく。
 歌にはそんな効果もあるようです。

 特定歌手が好き、俳優が好きというのも、こうした範ちゅうに入るのでしょうね。
 コンサートにいき、ペンライトを振りながら、うっとりと至福の時を過ごす。

 「杉さま」というファン心理もまた理解できます。
 大勢の同好の士が集まり、
 共通の「あこがれの人」に向かって、心躍らせ、目を潤ませる。
 なんと幸せなひとときを過ごすことができるのか。

 交通費を節約し、宿代を節約し、スーパーの安売り目指してスーパー行脚までして
 コンサートのために節約をする。
 数時間の至福の時を手に入れるために。


 以下はひさへさんのブログから拝借した、本人直筆の絵です。
ポール・マッカートニーが好きで好きでたまらないとひさへさんは、1時間以上もかけて
ビートルズ弁当なるものまで作ってくしまうほどの、永遠の27歳。

だから、やっぱり!
 大好きが止まらないの!

 そのユニークさがとても面白い。
 これ、焼きのりをカッターナイフでくりぬいた、のり弁ですよ。
 今なおビートルズは、彼女を幸せにしているのです。
 (画像の掲載をこころよく承知してくれたひさへさんに感謝です)
  
shonanyuzurihaの「友だち」さんのブログは、何時も音楽の話。
音楽に対する造詣も深く、カラオケも大好き。
「人生は歌」というほど、毎日のブログが歌の記事で構成されている。

 冒頭に紹介した記事も、ポールがいたから素敵な出会いを経験することができたと、
 その時の感動を素直に綴っている。
 また、コンサートに誘ってくれた友人に感謝の言葉を述べ

 「ポール、ありがとう」
 あなたのおかげよと、ポールへの熱い思いを綴っている。

 歌っていいですね。
 音楽っていいですね。

 最後に、私の好きな歌をあげます。
 「北帰行」
 「サーカスの歌」 
 「昴」
   私は、そうです。
 さすらい人、流れ者、大河を流れる病葉、
 なんていうイメージから今も脱却することができない
 少年です。

 (つれづれに……心もよう №60)         (2017.5.17記)

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松本清張の『誤差』 原作からかけ離れてしまうドラマ化

2017-05-16 09:42:21 | 映画と小説

松本清張の「誤差」
原作からかけ離れてしまうドラマ化

 最近、清張歿後25年特別企画としてテレビ東京で放映された、松本清張の『誤差』。
原作は1960(昭和35)年頃が舞台になっているミステリー短編。
従って、原作をそのままドラマに仕立てるのに無理があるから、
現代に話を置き換えて脚本を書くことになる。

 携帯がない時代に、相手の連絡をただひたすらまちこがれる。
現代ならスマホがあるから容易に動向を知ることができる。
昭和35年頃から現代に時代設定変えることに大きな無理があるが、仕方のないことなのだろう。


 原作では、鄙びた温泉宿に洗練された美貌の女が現れる。
冒頭の描写は女の容姿や旅館の状況など実に丁寧に書き込まれているのだが、
ドラマではサラリと流されてしまう。
やがて殺人現場となる舞台を清張は丁寧に書き込んでいる。
ドラマでは、原作にはない登場人物まで設定し、第2の殺人まで起きてしまう。
原作には登場しない犯人と思われる密会の宿に現れた男の妻まで登場させる。

 原作は清張独特の暗くて重い雰囲気の漂う中で描かれているが、
ドラマは流行のサスペンスドラマ風に見どころを作り、
原作からどんどん離れていく。

 この原作を2時間ドラマに仕立てようとするところに無理がある。


 現場に到着した警察嘱託医と病院長の解剖所見には、
推定死亡時間に2時間の差がある。
この2時間の差が事件に決定的な影響を与えるのだが、
病院長は嘱託医の見解を『誤差』として処理してしまう。
捜査は『誤差』という見解の重大なミスを犯しまう。
病院長の見解の方が犯人を推定するのに捜査上に合理性があるように思えた。
事件は容疑者の自殺で幕を閉じたかに思われた。ところが…。

 テレビドラマによくある傾向だが、
タイトルの頭に松本清張の「〇○○」と有名作家の名前を付けるやり方である。
松本清張や森村誠一の小説のドラマ化によく使用される手法である。
視聴率という枷を嵌められた製作者としてはやむを得ないことなのだろう。
しかし、小説の内容(原作)からあまりにかけ離れてしまうドラマだったら、
「原作」ではなく、「原案」とすべきではなかろうか。

 
松本清張の小説のドラマ化は原作から逸脱してしまうドラマが多く、
これは、原作者にとっても失礼なことではないか。


  短編小説「誤差」は傑作短編集(六)・駅路に収録されています。新潮文庫刊行
 昭和30年代に発表された10篇の短編が収められ、、高度成長期の昭和を彷彿とさせる作品です。
 一読の価値があります。
          (映画と小説 №6)                   (2017.5.15記)

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老いるということ

2017-05-14 12:40:48 | ことの葉散歩道

老いるということ
     (ことの葉散歩道№34)

「年をとっていいことはあるかい」
「細かいことを気にしなくなる」
「じゃあ最悪なことは」
「若い頃のことをおぼえていることだ」

   デビット・リンチ監督 
       「ストレイト・ストーリー」より

 いいこと言うね。
おそらく若い時のことを全部忘れてしまったら、
記憶力の衰えも、
肉体の衰えも意識せずに、
「今が最高!!」なんて言いながら、
豊かな老いを生きることができるのかもしれない。

 しかし、よく考えてみるとそれでも人生味気ないかな。
やっぱり山あり谷あり喜怒哀楽があって人生に味が出てくるのでしょう。
人間は、記憶があってそれを追体験することにより学習し、
より豊かな人生を歩むことができる。
記憶がトラウマとなり、苦しい立場に立たされる時もある。

 認知症が哀しいのは、
遠い過去のことは覚えていても、
直近の現実を忘れてしまうからだ。
だから自分を忘れ、
夫の事を忘れてしまう。


 ひどい腰痛を患う頑固な老人の言葉は、豪快で気持ちがいい。
老いなど吹き飛ばすほどの力強さを感じさせられる。

「細かいことを気にせず」に、
「若い頃のこと」は懐かしい思い出とし、
人生の肥やしとして保持していければ、
人生捨てたものではないですね。

 映画のあらすじ

  1994年にNYタイムズに掲載された実話を基に、「エレファントマン」のデヴィッド・リンチ監督がユーモアとペーソス溢れるタッチで描いた映画。
 アルヴィン・ストレイトは娘のローズと暮らす73歳の老人。
腰が悪く、家で倒れても人の力を借りなければ立ち上がることもままならない。
長年会っていなかった兄が倒れたという知らせが届く。
兄が住む家までの距離は350マイル(約560km)。
アルヴィンは時速8㌔のトラクターに乗り一人で無謀とも思える旅に出た。
出会う人々は彼を奇妙に思いながらも、
ある者は助けを惜しまず、
ある者は示唆に富んだ老人の言葉を得る。ロード・ムービー。

 冒頭に紹介した会話文は、
 老人が妊娠5か月の家出少女との出会いの中で交わされる会話。
 実は、この映画私は未見のため、映画案内で調べてみました。
 是非見たい映画の一つになりました。
 作家・北方謙三氏がインタビューの中で、「感動した会話」として紹介していました。

 ブログ「ポケットに映画を入れて」のyasutuさん、見ていたら映画の感想聴けたら嬉しいです。
 

 

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影法師…… ひそかに、そして確実にやって来る

2017-05-09 08:30:00 | つれづれに……

影法師…… ひそかに、そして確実にやって来る
   
     思いもしなかったところで蹴躓(けつまず)いた。

     忘れ物が多くなる。
          それに伴って、不安感が増してくる。
     電気は消したか。鍵は掛けたか。
           クスリは 確実に鞄の中に入れたか。
     駅で買った切符はどのポケットに入れたか。

           スマホの置き忘れ。
     情けないほど記憶力が減退していく。
           だから、メモが増えていく。
     スマホの予定表にメモる。
     愛用の手帳に書き込む。
     茶の間のカレンダーにも書き込んで万全を期す。
     しかし、新しい予定をメモるのを忘れ迷惑をかけることもある。

     一日の始まりは、予定表のチエックから始まる。
    しかし、たまたまこれを忘れた時に、大事な約束があったりする。

    持続力が減退していく。
    集中力もなくなってくるから、読書量も減ってくる。
    メガネは3種類。
    遠近両用にパソコン用の中近に読書用の近々メガネ。

    老いはかなり早い間に発生している。
    40代、息子と沢登りに行った。
    石の上を渡り歩くのだが、これが軽快にできなくなってきた。
    バランス感覚が鈍くなってきたのだ。
    先に登った息子が振り返り、バランスを崩した私を見て笑っていた。

    50代。
    国家試験に挑戦した。
    覚えられない。
    やっと覚えたのにすぐに忘れる。
    若い人の倍の時間をかけて勉強した。
    それでも、合格するのに3年を費やした。

    現在も「老い」は確実に粛々と私の肉体と精神を侵食している。

    暑い日があったり、寒い日があったりすると、
    体調を維持するのに努力が必要になってくる。

    花冷えの中での花見に、ぶるぶるっと身震いをして、
    俺も歳をとったなと思う。

    そうした、老いの心境を
    愛西市の小川 弘さんは次のように歌っている。
    
     花冷えにまた来る老いの影法師
                 (朝日俳壇2017.05.01)

                         (つれづれに……心もよう№59)     (2017.5.8記)
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どうにもならないこと

2017-05-05 17:30:18 | ことの葉散歩道

どうにもならないこと
                     
 (ことの葉散歩道 33)

 

 

 

 人生には、
自分の努力ではどうにもならない過酷なことがある

                                             友がみな我よりえらく見える日は 
                                                     上原隆著より 

 

 このルポルタージュに登場する人物は、人生の道を踏み外してしまった人々だ。
酔ってアパートの5階から墜落し、失明し生きる意欲を亡くしてしまった47歳の男。
自分の容貌に極端な劣等感を持ち、世間から隠れるようにしか生きられない46歳の女。
ホームレスに身を落とし、日銭を稼いでその日その日を凌ぐ生活も悪くはないと思う元サラリーマンの初老の男。
客に身の上話をするタクシーの女運転手。
女優に慣れなかった女。

 自分にとって不本意な人生がさまざまな形で描かれている。

 順風満帆とまでいかなくても、そこそこの人生を歩み、人並みの小さな幸せは手に入れたいと人は思う。
幸せを望まない人はいない。
しかし、予想もしなかったような陥穽に落ちて、身動きが取れなくなってしまう人たちも多い。
希望を失い、生きていくことにも疲れてしまう。
自分を取りまく人の一人ひとりが、自分よりはましな生き方をしていると思い込んでしまう。
劣等感は、自分を取りまく家族や友人や知人との間に壁を作り、やがて交流を断ち切ってしまう。
待っているのは孤独地獄だ。

 あの時、意地を張らなかったら…。
     友人の言うことを聞いていたら…。
     事業に失敗しなかったら…。
     交通事故に遭わなかったら…。
     病気にならなかったら……。

 

 過去を思い起こし、……したら、……だったら、と思うこと自体無意味なことのように思える。

 失敗や挫折を望む人はいない。
だが、人間の持って生まれた性格や気質は百人百様。
精一杯努力し頑張ったと自分が思っても、他者から見れば、努力が足りない、
踏ん張りがきかないという評価だってされてしまう。

器用に生きられる人もいれば、不器用にしか生きられない人だっている。

 

一度きりの人生を失意と喪失が占めてしまっては、とても辛い。

せめて、
他者との比較の中の自分ではなく、
自分にできる努力や頑張りで、
自分流の生き方を選択していくしかないのだろう。

 過酷な現実に立ち向かう気力も必要だが、
置かれた状況の中で、
意地を張らずに自分が生きられる場所を探すように努力するのも人生だ。
                              (2017.5.4記)


  

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「地毛証明書」 都立高の6割

2017-05-02 16:48:28 | 昨日の風 今日の風

「地毛証明書」都立高の6割
  朝日新聞5/1東京版は次のように伝える(ヘッドラインを引用する)。
   東京の都立高校の約6割が、生徒が髪の毛を染めたりパーマをかけたりしていないか、生まれつきの髪かを見分
  けるため、一部の生徒から入学時に「地毛証明書」を提出させていることがわかった。
  勘違いによる指導を防ぐ狙い
があるが、
  裏付けのために幼児期の写真を出させる例もあり、専門家から疑問視する声もある。

  本末転倒
  髪の色なんか自由にさせたらいい
         多く都立高は校則で髪の染色やパーマを禁止しているが、
    染めているのに地毛だという生徒もいて、「地毛証明書」の提出ということになるのだろう。
           地毛であるにもかかわらず、間違って指導し、
     生徒に嫌な思いをさせないための方法としてはあり得る(東京都教育委員会主事)。

     今時、髪を染めている人は珍しくもない。男だって染めている。
     時代の流れは、「茶髪」といわれた時代から、髪を染めることが社会的に認知されてきている。
     高校生だから染色は駄目というのは何とも理解しがたい。
     制服のスカートの丈もどんどん短くなり、これを制止させることはできなかった。
     携帯やスマホの所持も今では当たり前になっている。

           「生徒の見た目で、学校の評判を落とすわけにはいかない」(荒川区の高校経諭)にいたっては
    開いた口が塞がらない。
    本末転倒である。
    一体だれのための校則なのか。

    地毛なのか染色なのか見分けがつかないからといって、「地毛証明書」はないだろう。
    ここから見えてくるのは、上から目線の生徒を縛り付ける生徒指導に名を借りた強制でしかない。
    強制からは何も生まれてこない。
    話し合うという姿勢が欠落しているように思えてならない。

    驚いたことに、都立高校の6割が『地毛証明書』の存在を認めているという事実だ。
    「横並び」だ。おそらく、こんなバカバカしいことが横並びで実施されているということは、
    校長会の情報公開等で『地毛証明書』の存在を知り、学校間に広がって行ったのだろう。

    証明書を必要としない高校も多い。
    「染色は禁止だが、信頼関係の中でやり取りしている」
    「自主性に任せている」
    「教師は話し合いで説得するのが本来の生徒指導だ」

    生徒指導の名を借りた「強制」で生徒は心を開かないことを教育者は認識してほしい。
                      (2017.5.1記)  (昨日の風 今日の風№72)

    

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