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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

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松のある風景 ② 随筆の書かれた時代はいつ 

2024-07-20 06:30:00 | つれづれに……

 ①で紹介した随筆「松のある風景」を再掲します。
 鎌倉の景観をつくりなしているものに松がある、あったという方が正解かもしれぬ。
 そのせいか、ここには昔から名ある老松が多かった。
  ゆるぎの松、琴弾松、諏訪の松、弓立松などなど数えたてればきりがない。
 若宮大路の松並木を海岸へたどると、木漏れ日の散らばる道の彼方にぽっかり白く、低い砂山が見え、
 そのまた向こうに海が、波が眩しく光っていた。
  海岸に出ると、砂丘の後ろにつづく松林は防砂林だったのだろう、
 一様にかしいで低く枝を伸ばしていた。
 初夏の雨後など松の花粉が砂地に淡黄いろく不規則な模様や縞を描いた。
  町の背後を囲う山並みの尾根にも松が目立つ。細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、
 ともすれば足を取られる。
  それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい。
  赤煉瓦のガードをくぐって江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。
   (随筆に添えられた絵)
   画面左奥に江ノ電の車両が描かれていますが、
   随筆の内容から推しておそらく終点「小町」駅ではなかろうか。

そこで、江ノ電の歴史を調べてみた。
 江ノ電の最初の路線は、1902(明治35)年9月1日に、藤沢ー片瀬(現江の島)間の約3㎞
開業時には、湘南随一の商工都市藤沢を起点に片瀬までの3㎞の区間でした。
この時点で江の島駅はまだ認知されておらず、片瀬駅として表示されています。
 片瀬駅から江の島駅に名称変更があったのは、昭和4(1929)年3月になってからで、
開業から27年の時間を要しました。

 明治43(1910)年、全線開通した時の駅名です。

 図で示したように

開業以来存続している駅もほとんどが移転や改称を経ており、
100年の歴史の中で変化が見られないのは、「鵠沼」「稲村ヶ崎」「極楽寺」「長谷」の4駅に限られます。ちなみに、もっとも知られている駅名の改称は、
昭和4年3月に「片瀬」を「江ノ島」に変更した
ことでしょう。
主眼は観光客の誘致に置かれていました。
こうした中で、「七里ヶ浜」が現在の位置に落ち着くまでに数次の移転を繰り返したほか、
昭和初期には、海水浴客やバンガローの宿泊客の利便を図るために臨時駅「西浜」「七里ヶ浜キャンプ村前」が開設されるなど、
短距離路線ながら駅の変遷には複雑な経過が見られます。
町の発展と共に
 江ノ電の歴史が地方の町から町へ乗客を運ぶ生活路線鉄道から観光鉄道として、
観光客の移動手段としてその目的へ変遷していったことが理解できます。

「小町駅」から「鎌倉駅へ」 
明治43(1910)年には、図で示したように全線が開通されました。
全線が開通され、随筆に書かれた終点「小町駅」は登場しましたが、
現在の駅名に終点の「小町駅」は存在しません。
手掛かりは二つある。
 「町役場前の小町終点」とある。
そこで、現在の地図を検索してみるとあった。
鎌倉駅のそばには、鎌倉市庁舎があり、その近くには「小町商店街」が存在する。
おそらくここが終点「小町」駅で間違いないだろう。

 現在の江ノ電は始発「藤沢」駅から終点「鎌倉」駅まで上図のように、
全線10㎞で時代の流れと共に駅名変更があったり、廃駅になった駅が多くあり、
前述したように全線開通した時に39駅あった駅名は、15駅に淘汰された。

小町駅開業と駅名変更「鎌倉駅」へ
 江ノ電の歴史を見ると、全線開業したのは1910(明治43)年11月4日で、
この時終点「小町駅」が開業しています。
 その5年後、1915(大正4)年には「小町駅」は「鎌倉駅」に改称され、
歴史の時の中に消えていきました。

随筆に書かれた時代はいつ頃
随筆の最後の行には次のような記述があります。

江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。

鎌倉町役場前の終点「小町駅」は、
前述のように1910(明治43)からたった5年間の1915(大正4)の短い期間の駅名でした。
 「松のある風景」は、小町終点駅を実際にながめ、
「陰影がたくさんあった時代」がなつかしくなると述べてこの随筆を結んでいます。

 随筆の作者は小町駅が存在したたった5年間のときに、何歳であったのか、
更に時を経て「松のある風景」の随筆を当時のことを懐かしく思い出し、
古き良き時代の鎌倉描いたのは何歳のときだったのか。
 随筆に添えられた墨絵を書いた画家は誰なのか。
 厚紙に印刷された箱、(と言っても私の手元にあるのは手でむしり取ったような一枚の厚紙)は、
 何の箱(?)だったのか。
                                        (つづく)

(つれづれに…№118)  (2024.7.19記)

 

 

 

 

 

 



 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

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松のある風景 ① 随筆に描写された古き鎌倉

2024-07-13 06:30:00 | つれづれに……

松のある風景 ①随筆に描写された古き鎌倉

 鎌倉の景観をつくりなしているものに松がある、あったという方が正解かもしれぬ。
 そのせいか、ここには昔から名ある老松が多かった。
  ゆるぎの松、琴弾松、諏訪の松、弓立松などなど数えたてればきりがない。
 若宮大路の松並木を海岸へたどると、木漏れ日の散らばる道の彼方にぽっかり白く、低い砂山が見え、
 そのまた向こうに海が、波が眩しく光っていた。
  海岸に出ると、砂丘の後ろにつづく松林は防砂林だったのだろう、
 一様にかしいで低く枝を伸ばしていた。
 初夏の雨後など松の花粉が砂地に淡黄いろく不規則な模様や縞を描いた。
  町の背後を囲う山並みの尾根にも松が目立つ。細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、
 ともすれば足を取られる。
  それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい。
  赤煉瓦のガードをくぐって江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。

 一カ月もブログ投稿を休んでしまった。
特に理由があったわけではないが、畑作業がいそがしく、
午前に3~4時間作業をすると、暑さと疲労とでぐったり、
記事を作成する気力がなくなり、本を読んでもすぐに眠くなってしまう。
書きかけ記事の日付は6月14日の日付で止まっている。


 再開しようと気力を奮い立たせて投稿記事をスタートさせる。

本棚を整理していたら、お菓子の箱を引き裂いたようなB5判ぐらいの厚紙がはらりと落ちてきた。
エッセイらしいが、作者名がわからない。
厚紙に書かれたエッセイが、何時、どんな目的で何時頃書かれたのかわからない。

松のある風景と
エッセイの上の欄には松林の風景が描かれている。
道路に沿って植えられている松並木は太い松で、結構長い並木道になっている。
左下には『良』と読めるサインがあるが、この人物がエッセイの作者でもあるのかどうかはわからない。
タイトルは「松のある風景」としている。
橙色の彩色文字で示したものが、エッセイの全文だ。

 エッセイの内容から在りし日の「若宮大路」の風景が
昔日の面影をすっかり失くしてしまった「若宮大路」を懐かしんでいるようだ。
 「若宮大路」は源頼朝が妻政子の安産を願い築いた鶴岡八幡宮の参道で、由比ガ浜から八幡宮まで1.8㌖の参道です。墨絵で示す通りかつての若宮大路には、松並木があったらしい。


 
 「昔から老松が多く」あり、それぞれに「ゆるぎの松、六本松、琴弾松、諏訪の松、弓立松」などの
成り立ちに言われや、伝説を持つ松がたくさんあったらしい。ちなみにネットで調べてみると確かにそのような老松があったようだが、枯死したり、何らかの理由で現代に生き残っているものはないようである。


かなり詳しい松並木の続く往時の風景がつづられた後、
「それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい」と嘆いていることを思えば、かなり古い時代の鎌倉を知っている人が作者であると類推することができる。
 
 更に、町の松林の景観だけでなく、「町の背後を囲う山なみの尾根にも松が目立つ」と、
具体的な松林の風景描写が続き、
「細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、ともすれば足を取られる」
という具体的表現は、古くからこの町に住む住民でなければ書けない風景だ。

 手掛かりはもうひとつある。
エッセイの最後に登場する
「(江ノ電が)若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、『町役場前の小町終点』までごとごとと走っていた頃の、どこかどっしりとした陰影がたくさんあった時代がふとなつかしくなる」

 往時の「松のある風景」は最後に、「町役場前の小町終点」という貴重な時代を象徴する証を残して
見事に幕を下ろす。
 現在の江ノ電の路線図を見ても、小松商店街は現在でも残っているが、
「小町」という江ノ電終点の駅はない。
江ノ電終点の「小町駅」はどこにあったのか。
この駅の存在がわかれば、随筆に描写されたおおよその時代もわかるのではないか。
                                                                                                                           (つづく)
(つれづれに…№117)    (2024.07.12 記)

 

 

 

 

 

 

 

 



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駅弁

2024-05-20 06:30:00 | つれづれに……

駅弁立ち売り
 なんとも懐かしい「駅弁立ち売り」の写真である。
 かつては、旅の風物詩として旅情を誘う風景であった。
 「ベントーベントー」と大きな売り声で、
 ホームに入った列車が停車している間の短い時間のうちに弁当を売り歩く「弁当屋さん」と
 それを買う客との間のやり取りが私は好きだった。
 発車の合図のベルがホームに流れ、「ゴトン」と汽車がゆっくり大きな車輪を回す。
 窓からお金を握りしめ、弁当屋を呼ぶ声に緊迫感がある。
 今と違って汽車はゆっくり発車するから、お金をとりそこなったとか、
 逆にお金は渡したが弁当をもらえずになんてアクシデントは起きなかったのだろう。
 懐かしい昭和のプラットホームの風景である。
 現代のようにファミレスがあり、コンビニやスーパーには多彩な弁当が並んでいる時代と違って、
 日常から非日常の世界へ旅立つ旅行者にとって、
 「立ち売り駅弁」は、何よりの楽しみであり、ごちそうだったように思う。

 (写真はウエブ朝日新聞より引用)
 駅弁立ち売りの懐かしいスタイルである。
  滋賀県米原駅の構内で販売を復活させた「井筒屋」の駅弁である。
  1889(明治22)年に駅弁を始めた老舗で、井筒屋は30年ほど前まで立ち売りをしていたが、
  担当者の引退と共になくなった。
  記事は、「担当者の引退」とともに駅弁立ち売りはなくなったと書いているが、
  それは、消滅の原因の一つで、汽車から電車に替わり窓が開かなくなったことや、
  食料特に外食産業の普及などにより、時代にそぐわなくなったための消滅だった。
  長距離鈍行列車も無くなり、高速電車は瞬く間に目的地に着いてしまう。
  駅ホームでの立ち売り駅弁が姿を消したのは、こうした効率や利便性を追求した結果の
  帰結だったのだろう。
  便利性と快適性を鉄道に求めた結果、
  私たちは「旅情」という大切な感性をどこかに置き去りにしてしまったのだ。
   井筒屋の駅弁の復活は、駅側からの「旅客の弁当ニーズにこたえられないか」という要望で、
  に応えたものらしいが、当面は常時販売ではなく、時期を決めての販売となるらしい。

   時代
の流れに消えていった「立ち売り駅弁」だが、
その始まりは、明治18(1885)年7月16日、日本鉄道から依頼を受けて「白木屋」という旅館が販売したのが最初らしい。
 この日に開業した日本鉄道宇都宮駅で販売された。
「おにぎり2個にたくあんが2切れ」を竹の皮に包んで販売価格は5銭だったと記録にあります。
 この時代天丼が4銭で食べられたというから、結構割高な値段だった。
それでも、当時は列車の運行本数が少なかったために、5銭は赤字覚悟の値段だったようです。
              ※日本鉄道とは、国有鉄道ではなく、日本発の民営鉄道で、明治39(1906)に国有化された。

 公式の記録がないので、駅弁の元祖争いは多くの説がある。もっとも宇都宮説も確かな証拠があるわけではない。例えば、群馬県・信越本線横川駅で荻野屋が明治18(1885)年に駅弁を販売している。
  
以下、インターネット駅弁資料館の記事を参照にまとめました。
 〇 大阪府・東海道本線大阪駅説
    明治10(1877)年に発売。
    (大阪駅の開業が1874年ですからひの3年後には駅弁が販売されたことになります)
 〇 兵庫県・東海道本線神戸駅説
   「神戸駅史の年譜」によると、明治10(1877)年7月に「立ち売り弁当販売開始」と書かれているそうで
   す。(神戸駅の開業が明治7年で、その3年後には立ち売りの駅弁が始まっていた)
 〇 東京都・上野駅東北本線上野駅説
    
明治16(1883)年7月28日を発売日としています。この日が上野駅の開業日にあたります。
   「上野停車  場構内 弁当料理 ふぢのや」とあり、上野停車場とあり、
   これが駅構内なのかプラットホームなのかは不明です。

 〇 群馬県・高崎線熊谷駅説
    明治16年7月28日、熊谷駅が開業した日に「駅の売店で寿司とパン」
   が売られた、とありますが、これを駅弁と称してよいものかどうか疑問が残ります。

 〇 福井県・北陸本線敦賀駅説
    明治17(1884)年に駅弁発売。敦賀駅は明治15年開業。明治17年には柳ケ瀬トンネルの開通により便利 
   性が増し、これを記念しての駅弁販売か。

 〇 群馬県・高崎線高崎駅説
    明治17(1884)年、上越線の開通に伴い、おにぎりの販売を始めたのが始まり。

 〇 栃木県・東北本線小山駅説
    明治18(1885)年、小山駅開設に伴い、駅前で売られていた「翁(おきな)寿司」が駅の中で売られるよ
   うになったのが始まり。

  おなじみの「幕の内弁当」の駅弁の登場は、1889(明治22)年姫路駅といわれています。
  メニューを紹介します。
   ・たいの塩焼き  ・伊達巻き   ・焼きかまぼこ  ・だし巻き卵 ・大豆こんぶ煮付け
   ・栗きんとん   ・ごぼう煮つけ ・少し甘みをつけて炊いたゆり根 ・薄味で煮つけたふき
   ・奈良漬と梅干し(香の物)    ・黒ごまをふった白飯
      豊富な品数ゆえに、おかずに目移りがして、口の中で味が分散され、「味わう」
      という行為が減殺されるような気がして、「大人のお子様ランチ」風の「幕の内弁当」は
      敬遠してしまいます。
       現役時代、出張や会議、研修会等が多くあり、たいがいは問答無用の「幕の内弁当」でした。
      だれの好みにも会い、クレームか起きる確率が少ないという理由で、主催者側が便利に選んでし
      まうということもあったのでしょう。そんなこともあって、
      私は、幕の内弁当が好みでなくなりました。
      この弁当は1890年代に開発販売されました。

      明治22(1889)には、小さな土瓶に入った温かいお茶が発売され、
      「汽車土瓶」と言われていました。一方、首から下げた弁当に加え、土瓶のお茶が加わり、
      「立ち売り駅弁」は結構な体力を要求される職業になりました。
  今でも生き残っている人気「駅弁」を紹介します。
   シウマイ弁当 …1954(昭和29)年
   峠の釜めし  …1958(昭和33)年
   ますのすし  …1912(明治45、大正元)年
   だるま弁当  …1960(昭和35)年
   いかめし   …1941(昭和16)年
    それぞれの地域の特徴と吟味した食材を取り入れた、「ご当地弁当」は、
    駅弁から道の駅、高速道路サービスエリア、デパートでの
   「駅弁大会」などで人気弁当となっています。

   駅弁が亡くなり、同時に旅の旅情も半減してしまった現在ですが、
   私は、汽車の座席で母と食べた駅弁がわすれられず、今でも駅弁を買い、
   駅の待合室などで食べることにこだわっとています。
    

(つれづれに…№116)   (2024.5.18記)

 



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「夫のうれしい涙」

2024-05-10 06:30:00 | つれづれに……

「夫のうれしい涙」

   うれしい時も、悲しい時も、涙は流れてくる。


   「人前では泣くな」
   「男は泣くな

   私の子ども時代には、そういわれて育った。
   「泣くな」、「泣くな」。
   どんな悲しいことがあっても、辛いことがあっても
   涙をこらえて泣かなかった。
   もっと正確に言えば、人前で泣かなかった。
   こらえた。

   小学低学年のころ、いじめにあった。
   不快感は残ったが、それだけのこと。
   しかし、同じようないじめが続けば、我慢ができなくなる。
   反撃に出る。
   相手を力でねじ伏せる。暴力によって相手を委縮させる。
   喧嘩は負けては意味がない。勝つために手段は選ばない。
   相手が泣いて悲鳴を上げるまで徹底的に痛める。
   それでいじめはなくなった。

   決して泣かない少年だった。

   それが崩れたのは、嫁いだ姉が亡くなった時だった。
   物言わぬ姉の顔を見て、こらえていた涙がとめどなく流れた。
   声は出さなかったが、こらえようにも感情の制御がつかず、
   大好きだった優しい姉の枕もとで涙を流し続けた。
   涙が枯れてその場を離れ、トイレにこもった。
   悲しみの緊張が狭いトイレの中で一気に崩れた。
   大きな声で泣き続けた。

   以来、人前で泣くことを忌避することはなくなった。
   母が亡くなり、長兄が亡くなり、長姉が亡くなったときも泣いた。

   悲しい時には泣いた。
   うれしい時には……
   泣くほどうれしいことに出会ったことがない。
   でも、「ありがとう」という言葉は、なんども言った。

   朝日新聞に「ひととき」という読者の投稿欄がある。
   65歳になる主婦が「夫のうれしい涙」というタイトルで投稿している。(4月1日記事)

   彼女の夫は、定年まで会社で勤め上げ、定年を迎えた後、小学校の用務員として7年を務めた。
   体もきつくなってきたため、今年の3月に退職の意向を学校へ伝えた。
   ところが年が明けた1月末、仕事中に倒れ、病に伏してしまった。
   退職を2か月後に控えた時期の予期せぬ出来事だった。
   夫が入院して2週間がたったころ、一通の宛名の書いてない茶色の封筒が届いた。
   「飼育委員」と小さな字が書かれていた。
   夫が務めていた小学校の飼育員の子どもたちからの手紙だった。
   夫の喜ぶ顔が見たいと、妻は自転車を走らせた。
   子どもたちが飼育しているモルモットの小屋を夫が倒れる前に、作ったことを妻は知っていた。
   以下、全文を掲載します。

   その小屋やモルモットの絵、それに飼育委員全員からの感謝の手紙が封筒に入っていた。
   結婚して36年。夫が私の前で涙を流したのは長男が亡くなったときと今回の2回。
   2度目はうれしい涙で本当に良かった。

  

   在職中の夫が退職間際に作ったモルモットの小屋が、
   飼育委員たちの心を動かし、感謝の手紙となった。

   第二の職場に選んだ小学校の用務員の仕事。7年勤めあげ、体もしんどくなってきて、
   職を辞したあと、妻との穏やかな第三の老後の人生をスタートさせる予定だった。
   それを、子どもたちの感謝の手紙は、
   病との戦いでスタートせざるを得なくなった男への
   何よりの励ましとなるプレゼントであった。
   飼育員たちの感謝の手紙を、入院先のベッドの上で何度も読み返しながら、
   泣いている夫を見つめる優しい妻の姿が浮かんでくる。
 
 (つれづれに…№115)       (2024.5.9記)

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喫煙のけむり

2024-03-31 06:30:00 | つれづれに……

煙草の煙

【1966(昭和41)年11月11日 朝日新聞朝刊掲載
】
   何やら偉そうな訪問客をサザエさんが迎え入れる。
  サザエさんの接待にも終始無言で、あろうことかテーブルに置いた灰皿には目もくれず、
  床の上に灰をまき散らす。怒り心頭、サザエさんは客がかぶってきた帽子を灰皿代わりに床に置いて、
  姿を消す。傍若無人な喫煙者に対するささやかで、しかも怒りの鉄槌だったのでしょう。

  昭和24(1949)~25年ごろだったと思う。東映の時代劇・笛吹童子だったり、紅孔雀が劇場をにぎわし、
 嵐寛寿郎の鞍馬天狗などが一世を風靡していた。
 小学生が一人で映画を見に行くことは禁じられていたが、
 わたしは一週間の小遣いをためて日曜日にはいつも映画を見に行っていた。
  当時は3本立で、映画が終わるとブザーがなり、場内が明るくなる。
 小学生が一人で映画を見に行くのはご法度だった。
 わたしは明るくなると座席の下に身を隠し次の映画が始まり、
 場内が暗くなるまで背中を丸めてうずくまっていた。

  懐かしい思い出だが、場内はたばこの煙で目が痛くなり、涙が出てくる。
 のども痛く、大好きな映画を隠れてみることの罪悪感と、
 たばこの煙に悩まされていたことを鮮烈に覚えている。
 
 漫画が掲載され1966(昭和41)年の成人男性の喫煙率は、
約84%で喫煙率が最も高かった年だそうです。

1971(昭和46)には五木ひろしが四度も芸名を変え、「よこはま たそがれ」で一躍売れっ子になった曲。
  よこはま たそがれ ホテルの小部屋
  くちずけ 残り香 煙草のけむり
甘く切ない失恋の歌だが、未練のないすっきりした今風の歌謡曲に仕上がっている。
小道具の『煙草のけむり』が効果的に使われている。
 
それから3年後の1974(昭和49)年には、中条きょしの「うそ」が一世を風靡した。
  折れた煙草の 吸い殻で
  あなたの噓が わかるのよ
冒頭の歌詞である。女心を機敏に捉えた歌が大ヒットした。
無造作に灰皿にもみ消された煙草をみて、男の嘘を敏感に捉える女心がなんとも切なく哀れである。
どちらも山口洋子の作詞である。
煙草が歌謡曲の小道具として、重要な位置を占めていた懐かしい時代の歌である。
煙草を小道具として作詞された歌。
〇 カサブランカダンディ (沢田研二 作詞・阿久悠) 2005年発売
    
ききわけのない女の顔を 一つ二つはりたおして
    背中を向けてタバコを吸えば それで何もいうことはない
〇 ブルーライト ヨコハマ (いしだ あゆみ 作詞・橋本 淳)2013年発売
    あなたの好きな タバコの香り
    ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ

〇 15の夜 (尾崎豊 作詞・尾崎豊) 2019年発売
    
    落書きの教科書と外ばかり見ている俺
    超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる
    やりばのない気持ちの扉破りたい
    校舎の裏 煙草ふかして見つかれば逃げ場もない

 煙草は長い間、時代を象徴するように、状況や雰囲気を代弁するような役割を担ってきた。

1900年代に入っても煙草はどこでも吸えた。喫煙禁止の場所などなかったようだ。
病院の待合室、レストラン、新幹線や飛行機などどこでも喫煙可能だった。
駅のプラットホームは、線路で投げ捨てられた吸い殻でいつも景観を汚していた。
大学の部室は汚れた灰皿に吸い殻が山のように盛られていた。
大学生にして、すでにヘビースモーカーが何人もいた。

冒頭に示した漫画が掲載された年に、日本で国際ガン会議が開かれ、

煙草の有害性とともに、日本では禁煙運動が進んでいないと指摘された。

週刊誌はこれを受け「われわれはタバコを吸いすぎるか」(週刊朝日)、

「緊急特報 タバコ飲み必読の最新ガン自衛策」(週刊現代)などの特集記事が組まれ、

売り上げに貢献した。現在で考えられないような、

喫煙習慣に対するなんともおおらかな対応でした。

受動喫煙の害
 煙草が及ぼす健康への害は、時代の流れと共に理解が進んでいきます。

 単に喫煙者が煙草を止めるだけでは、

 喫煙の害は防ぎきれないことが研究者の努力で世間的に認知されてきました。

 喫煙しなくても、喫煙者が吐き出す煙草の煙を吸うだけで、

 喫煙した時と同等の害を及ぼすことが分かってきました。

 2003年には健康増進法が施行され、その後法改正を経て喫煙による健康被害問題は、

 喫煙のマナーからルールへと変わっていった。

改正の概要は次の通りです。
 基本的な考え方 第1 「望まない受動喫煙をなくす」
   受動喫煙が他人に与える健康影響と、喫煙者が一定程度いる現状を踏まえ、室内において、
   受動喫煙にさらされることを望まない者が、
   そのような状況に置かれることのないようにすることを基本に、「望まない喫煙」をなくす。
 基本的な考え方 第2 受動喫煙による健康影響が大きい子ども、患者等に特に配慮
   子供など20歳未満の者、患者等は受動喫煙による健康影響が大きいことを考慮し、
        こうした方々が主たる利用者となる施設や、屋外について、受動喫煙対策を一層徹底する。
 基本的な考え方 第3 施設の類型・場所ごとに対策を実施 
   「望まない受動喫煙」をなくすという観点から、施設の類型・場所ごとに、主たる利用者の違いや、
   受動喫煙が他人に与える健康影響の程度に応じ、禁煙措置や喫煙場所の特定を行うとともに、
   掲示の義務付けなどの対策を講ずる。
   その際、既存の飲食店のうち経営規模が小さい事業者が運営するものについては、
   事業継続に配慮し、必要な措置を講ずる。
                         
 (2018年7月に健康増進法の一部を改正する法律)

何時でも、何処でも喫煙が許され、「受動喫煙の害」などという概念がなかった時代。

上野駅14番ホームは、東北本線の列車の終着・始発駅ホームだった。
金の卵を載せた就職列車が到着したのもこの14番ホームだった。

近隣から東京に日銭を稼ぎに働きに来ているブルーカラーたちが、
仕事を終え一斉に列車に乗り込み、煙草をふかし、
酒を飲み通路に新聞紙を敷いて将棋などを指す風景が毎日見られた。
降車駅に到着するまでの、
仲間たちとの楽しい団らんが一日の過酷な労働を癒してくれる時間でもあった。
生活が豊かになり、長距離鈍行列車が廃止になっていく過程で、14番ホームも役目を終了した。
今、14番線のホームの入り口には、井沢八郎の「あゝ上野駅」歌碑がひっそりと、
忘れられたように置かれている。
むせるような煙草の匂いとざわめきが、生きることに必至だった時代を懐かしく思い出させる
煙草の匂いである。      
     (つれづれに…№138)           (2024.03.30記)  






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男おいどん 松本零士逝く

2023-02-25 06:30:00 | つれづれに……

男おいどん 松本零士逝く
   男だって 人知れず泣くことがある
   いつか その夢が自分のところで
   とまるときもくると信じて
   おいどんは ひとり四畳半で泣いた
   サルマタケがものかなしく光っていた
               (「男おいどん」最終巻の一場面)
松本零士が逝ってしまった。
  「男おいどん」「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」の名作を残して。

「鉄腕アトム」の手塚治虫(1989.2)が逝き、
「ドラえもん」の藤子不二雄Ⓐ(1996.9)が逝き、
「ゴルゴ13」のさいとう・たかお(2021.9)が逝き、
わが青春時代の一ページを彩った作品を残して、還らぬ旅に出てしまった。

残っているのは、松本零士の稼ぎの少ない駆け出しのころからの付き合いだった
「あしたのジョー」のちば てつやだけになった。
食うものにも事欠く貧乏時代に『座布団のようなビフテキを食べたい』と、
サルマタケが生えるような貧乏暮らしにも負けず、漫
画道を歩み夢を貫き通した戦友のちば てつやの回想である。
「君も行ってしまったのか。もう……体中の力が抜けていくよ」
 ちば てつやよ! 日本中の若者を熱狂の渦に巻き込んだ、
「矢吹丈と力石徹」との熱い戦いのシーンが今も新鮮によみがえってくるのだ。
アル中の元ボクサー丹下ジムの会長「丹下段平」、
白木ジムの白いスーツ姿の美人葉子。
そして、最終回。
灰のように真っ白に燃え尽きたジョー。しかし、その顔には満足げな微笑みがあった。
などが今でも鮮明に思い出すことができる。
だから、ちば てつやよ元気を出してほしい。
       
 『男おいどん』は、週刊少年マガジンに1971年5月から1973年8月まで連載された。
連載第一回から私はとりこになった。
 無芸大食人畜無害で何のとりえもない貧乏男。
そのうえチビでガニ股でド近眼の醜男(ぶおとこ)で、女性にもてる要素など何もない。
貧しいけれど、正直で人生をまっすぐ見つめて歩んでアルバイトをしながら
夜間高等学校に行っている大山昇太(のぼった)。
だが、勤務先を首になり、中途退学してしまう。
学校どころではなく食うに困っての中途退学だから、
けなげに生きる彼は何とか復学しようと奮闘するが、
努力が報いられるほど世間は甘くはない。

 松本零士の漫画によく登場する人語を話す、
ちょっと意地悪でガラの悪い「架空の鳥」のトリさんが出てくる。
失敗が続いても、幾たびもドジを踏んでも、
男おいどん・大山昇太は志を高く持ち、負けない。
いつか故郷に錦を飾らんと自信を奮い立たせる。
そんな時大山昇太はトリさんに向かって、
「トリよ、おいどんは負けんのど!」とつぶやく。
自分自身への励ましの言葉でもあり、
トリさんにしか心情を吐露することが出来ない彼の孤独感を哀切を持って表現される。

 下宿の押し入れを開けると、洗濯していないパンツが崩れ落ちてくる。
パンツにはいつのまにかキノコまで自生している。
インキンタムシに苦しめられている、ラーメンライスが大好きな男を中心に、
ギャグとペーソスで味付けされたストーリーが大好きだった。

 残念ながら、最終回をまったく記憶していない。
 もしかすると、最終回はは未読だったのかもしれない。
 ただ、松本の連載終了の言葉がある。
 執筆を続けていくうちにどんどん話が広がっていってしまい「話が無限大になってしまった」ことから、  「ケジメが付かなくなる」として松本の方から編集部に「連載をやめさせてくれ」と
 打ち切りを申し出たという
 どうやら、何の前触れもなく原作者の意向により連載は打ち切られたらしい。

 最終回。
「いってきますんど~!」と言って下宿を飛び出し、帰ってこなかったおいどん。
おいどんの部屋の電気を消さずに待ち続けるバーサンとラーメン屋のおやじ………。


おまけ。
  映画「銀河鉄道999」の冒頭。城 達也のバリトンが旅愁をいざなう。
     
【人はみな 星の海を見ながら旅に出る
     思い描いた希望を追い求めて 果てしなく旅は長く
     人はやがて、夢を追い求める旅のうちに永遠の眠りにつく
     人は死に、人は生まれる
     終わることのない流れの中を列車は走る
     終わることのないレールの上を 夢と希望と野心と若さを乗せて列車は今日も走る
     そして今 汽笛が新しい若者の旅立ちを告げる】

    ひょっとして、あの風采の上がらない大山昇太(のぼった)も、
     
見果てぬ夢の旅路を、「夢と希望と野心と若さを乗せて」
     貧しい下宿の部屋から夢の宇宙へと旅立ったのかもしれない。

    (つれづれに……№137)          (2023.02.24記)




 

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話題の新星 陸上ドルーリー選手

2023-01-20 06:30:00 | つれづれに……

話題の新星 陸上ドルーリー選手

 (第三区を走るドルーリー選手)

  

  ストライドがいい。
  何よりも頭のてっぺんから体幹を貫き通す一本の線のように重心がぶれない。
  だから、フォームが美しく、前にまえにと体が飛んでいく。
  スタンスが広く、後ろ悪は体幹を前面に押し出すようにまっすぐに伸びている。
  前にけりだした足の高さもよく、体が飛ぶように移動していく。
  腕の振りもよく、脇の甘さもない。
  
  
ドルーリーは38位でタスキを受けると、最初の1キロを2分55秒で通過。
  速い。
  次々に競争相手を抜き、17人抜きの快走で順位を21位に押し上げた。
  従来の区間記録(9分10秒)を上回る9分2秒の好タイムで4区の選手にタスキをつなぐ。
  大きい舞台での駅伝は初めてだったけど、楽しかったです」と余裕の笑顔を見せた。

  スタートから勢いよく飛び出し、わずか200メートルで3人抜き。
  呼吸は乱れず、力強い腕の振り、大きなストライド。
  身長157センチとは思えない力強い走りだ。
  17人をごぼう抜きして、一陣のさわやかな風を巻き起こし
  全国舞台の駅伝は初めての快走に、早くも15歳の原石に、
  成長を重ねれば20歳で迎える28年ロス五輪への期待も見えてくる。

  2023年1月15日、第41回全国都道府県対抗女子駅伝は9区間42・195キロで争われ、
  今年は大阪が優勝を飾った。

  しかし、翌日の新聞各社は大阪の優勝を完全に食う形で、
  ドルーリー選手の快挙を一斉に報じた。
  3区3キロを走ったドルーリー朱瑛里(岡山・鶴山中)中学3年生が素晴らしい記録をた   たき出した。9分2秒の区間新だ。
  区間新もさることながら、彼女の競技環境に誰もが驚く。
  大勢の部員が監督やコーチのもとで、
  科学的なで合理的な競技練習を展開する環境が一般的なイメージだ。

  岡山県津山市立中学校3年生陸上部。部員数は各学年ごとに1人の合計三人。
  だから、単独の駅伝チームを組めず、
  昨年の春まではタスキの渡し方すら知らなかったという。 
  恵まれた環境ではない。
  指導者がいなければ自分で工夫する。
  体の調子を見つめながら、インターネットで調べた練習メニューを実践。
  自分流に組み立てる。
  カナダ人の父と日本人の母を持つ。
  小学4年で地元の津山ジュニア陸上競技教室で練習を始め、
  小学6年までは陸上と並行してバスケットボールにも親しんだという。
  走るのが「走るのが好きだった」彼女には、恵まれた天性の才能がある。
  
  競技歴
   2022年の全国中学校体育大会女子1500メートルで4分23秒79を出して優勝。
   2位に5秒以上の差をつける独走Vだった。
   同年2か月後、U16陸上大会女子1000メートルは2分45秒84で優勝(大会新)。

      絵を描くことが趣味で、岡山県内のコンクールで入賞したこともある。

   前に人が見えると闘志をみなぎらせる負けん気の強さが、
   競技にもプラス作用をしているのかもしれない。
    
   真面目で、何事も吸収する聡明さがあり、栄養面なども自分で積極的に調べて行動できるそうで
   す。知性を走りに生かせるのは強みですね。トラック種目のレースを見ても、高校生や実業団選
   手を引き連れて先頭で走る度胸もある。(福祉加代子)


          今年の春は高校一年生。 
          すでに、水面下では激しい磨けば光る原石の争奪戦が始まっているのだろう。
   彼女を獲得する関係者よ、どうかこの逸材の芽をつぶさぬように温かく見守り
   大切に育ててほしい。

  (つれづれに…№135)       (2023.01.13記)
   
   
  

   

 

 

 

 
 
 
 
 

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成人の日 はなむけの言葉

2023-01-14 06:30:00 | つれづれに……

成人の日 はなむけの言葉
 
8日、国道で見た風景
  国道の横断歩道を渡り終えた私の後ろで、信号が青に変わり車が一斉に走り出す。
  車の騒音が高くなった。
  マフラーの破れた爆発音が高くなり、耳を覆うばかりの音。
  爆音と共に奇声を発する2台のオートバイ。
  どちらも二人乗りだ。
  白い羽織袴に身を包み、これは和製の特攻服というイメージである。
  爆音をまき散らし国道を我が物顔に、
  戦場で足軽が背中に背負うような旗を振り回して、
  車を縫うようにジグザク走行して追い越し、去っていった。
  午後に開催される市主催の「成人の集い」に参加する新成人だ。
  未来を担う若者の姿としては何ともおぞましく、情けない新成人の姿だった。

  一方、この日を真摯に受け止め、誓いを新たにする新成人が大勢いることも確かだ。
  60年前、田舎から東京に出てきた私は、帰省するのも面倒で成人式に参加しなかった。
  洋服を新調するでもなく、下宿先の部屋で本を読みながら、
  普段と変わらない一日を過ごした。
  翌日、当時流行っていたロストジェネレーションの一人と言われていたヘミングウェイ
  の全集を購入した。
  
青春の入り口に立った私の懐かしい思い出だ。

 伊集院静のはなむけの言葉
  水のようにまぶしい君になれ
    新成人おめでとう。
    今日から大人だと言われても、自分のどこが? 何が大人なの
              かわからないだろうネ。私たちも皆同じだった。懸命に生きる
    うちに大人になった。大人なりの考えも身についた。
    自分だけがイイのはダメだ。働くにしても、歩くにしても、自
    分だけがラクするのはダメだ。金を得ることだけが目的なら、
    早々自分を失うものだ。その仕事は誰かのために汗を流してい
    るか。さうして共に笑える日が見えるか?
    去年んの春から大人は十八歳になった。なぜ急にふたつも若く
    なったのか? それは信頼できる、可能性を信じて生きている
    大人を一人でも増やしたいからだ。
    この国はアジアの中で、いや世界の中で、美しい水に満ち、美
    味しい水にあふれ、素晴らしい自然に恵まれている。その国の
    上を平然と兵器が飛ぶことを許してはいけないのだ。断じて許
    さない。そういう大人になろう。誇りを捨てるな。
    今までの大人のやり方ではダメなんだ。
    さあ立ち上がろう。新しい日本人になるために。苦しくともと
    もに歩き出そう。立ちはだかる山も、挑めば必ず光が差す道は
    見えてくる。美しい一本の渓流が乾いたのどを潤してくれる。
    いつか命の水を育て、乾杯しよう。その日まで君たち新しい大
    人を私たちは応援し続けるから。

 気張らずに、難しいことをいうわけでもなく、淡々と新成人に語り掛ける雰囲気がいい。
 さて、これはある会社のイメージ広告のキャッチコピーです。
  この文章の欄外に活字体で印字された文字は、
 『水と生きる SUNTORY』とあり、ウイスキーのサントリーのイメージ広告かと知れば、
 文中の水へのこだわりも納得がいく。

 新成人よ、自分の頭で考え、自分の足で行く先を決め、自分の手で
 自分の未来をつかんでほしい。
 『寄らば大樹の陰』みたいな、安易な人生は歩んでほしくない。
 もっとも、大樹の陰で生きるのも、競争のつばぜり合いや理不尽な要求などもあり、
 神経をすり減らし安穏な場所ではないことを知ってほしい。
 あなたたちが歩んでいく未来は、
 戦いのための日常ではなく、
 自分のための、そして隣人のための豊かな日常であることを祈念します。

     (つれづれに…№135)         (2023.01.13記)

 

     

  

 

 

 

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頌 春 戦争で解決するものなんて何もない

2023-01-04 06:30:00 | つれづれに……

    頌 春
  戦争で解決するものなんて何もない
         年頭に思うこと

     
 ノーベル文学賞作家のアレクシェービッチはウクライナ侵攻が始まったとき
「人間から獣がはい出している」と言いました。
 弱者への殺害、拷問、性的暴行が繰り返し行われたことを「獣」と表現しました。

 かつて第二次大戦でドイツ軍がベラルーシに攻めてきたとき、
彼女は「ボタン穴から見た戦争」という本で次のように書いています。
空爆が始まり、皆が走って逃げていきます。爆弾が飛んで空中でヒューとなったり、
頭上で爆弾が破裂したりします。
 地面に臥せた10歳になる少女は頭からオーバーをかぶり、
小さなボタン穴から、爆弾の降って来る外の世界を恐る恐る眺めます。
学校が燃えている。窓という窓が炎に包まれている。
空襲が終わって少女が地面から起き上がっても、隣に倒れている人は起き上がりませんでした。
 「この子たちを連れていってください。私たちは街を守ります」通る車に向かって母は叫びました。

戦争で解決するものなんて、何もない。
例え平和が訪れても、私たちはあまりにも大きな犠牲を払ったことを後悔する。
大切なものを奪われ悲しみや憎しみだけが残ります。
勝者も敗者も何ひとつとして得るものはない。
私たちの社会は平安のなかに安らぎを求め、
その上に愛情や慈しみという自分以外への関心を注ぐことができるようになった。
情愛を注ぐという人間独特の感情が、
文明を生み文化を育ててきた。
戦争は次世代への遺産をことごとく破壊してしまう。
そして、最大の犠牲者はいつも弱者だ。

 ウクライナ侵攻で展開されていることは、
人間性への破壊と、
人間同士の信頼関係を破壊することだ。
現実的には、第二次大戦後の世界で構築してきた安全保障の信頼性を揺さぶり、
世界の秩序を分断する愚かな行為だ。
だが、
人間には困難を乗り越え、
より良い方向へ進んで行く「英知」がある。
「こころ」が育んできた「英知」を私は信じたい。 

     (つれづれに……№133)                 (2023.01.03記)

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里山を歩く ② 落ち武者の声が聞こえる

2022-12-10 06:30:00 | つれづれに……

里山を歩く ② 落ち武者の声が聞こえる
   晩秋の風が枯葉といっしょに里山の雑木林の中に消えていき、
  初冬の寒さが里山に降ってきて、
  北のブロ友からは初雪の写真のニュースがめっきり多くなりました。
  冬を迎える田圃のあぜ道を抜けて、山間の緩い坂道を上っていくと
  古い空気に包まれた古刹の甍に秋の名残りが枯葉にまじって漂っていました。
  この境内で数百年の風雪に耐えて生きてきた天然記念ぶっのクスノキを仰ぎ見、
  薄暗い本堂に鎮座する慈母観音に手を合わせ、
  弘法大師の像に別れを告げ、法螺貝の野太い声に送られて、
  林の中の城址に続く道を登っていく。

  今となっては城の痕跡の気配も感じられないけれど、
  私は、戦いに敗れ落ちていく雑兵や地方武士の叫びを、
  林を縫って走る細い道に聞いた気がした。

  すっかり葉を落として裸木になった林を抜け、
  谷に掛る吊り橋を渡り、小さな湿地帯を抜けて
  ほうの木の落ち葉をカサコソと踏みながら
  焼き物の里へと続く道に心地よい疲労を感じながら
  朝降りた駅への道をゆっくり歩いた。
  歩数計が21,281歩を示し、
  時計の針は13時10分を少し過ぎるところを指したころ、
  駅の時計台が見えてきた。
     (こころもよう…№132)       (2022.12.12記)
  

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