追悼・船村徹 (4)
男の友情(2)
高野は水戸の病院で死の床にありながら、詞を書いていた。
作詞家・高野公男が残した詞は、高野自身の投影であり、
作曲家・船村徹への愛慕の気持ちだった。
最後の詞作ノートの最期のページに挟んであった「詞」、
それが、「男の友情」だった。
「男の友情」
(1) 昨夜(ゆんべ)も君の 夢見たよ
なんの変わりも ないだろね
東京恋しや いけぬ身は
背のびして見る 遠い空
段々畑の ぐみの実も
あの日のままに うるんだぜ
(2) 流れる雲は ちぎれても
いつも変わらぬ 友情に
東京恋しや 逢いたくて
風に切れぎれ 友の名を
淋しく呼んだら 泣けてきた
黄昏赤い 丘の径(みち)
(3) 田舎の駅で 君の手を
ぐっとにぎった あの温(ぬく)み
東京恋しや 今だって
男同志の 誓いなら
忘れるものかよ この胸に
抱きしめながら いる俺さ
(高野公男の詞は2006年12月31日で著作権が消滅しています。)
東京の空は、高野にとって人生そのものだったのだろう。
東京に行きたい。
東京には船村がいる。
夢がある。
羽黒の駅(高野の故郷・茨城県水戸線の駅)で握りしめた船村の手のぬくもりが手のひらに残っている。
船村は、毎週土曜日になると上野から常磐線に乗り、水戸国立病院に入院した高野を見舞い、
土曜、日曜と泊まり、月曜の朝東京に戻ってくる。
これが船村が高野に示してやれる友情の証なのだ。
だがその高野がいない。
どこを探してもいない。
どうやって生きていったらいいのかわからなくなっていた。
五体からすべての力が抜けた。
船村は、人生の無常を感じ、次のように書き「第三部 別れの一本杉」を終わる。
作曲家船村徹は、作詞家高野公男の死とともにあっけなく死んだ。
(船村)二十四歳の挽夏のことだった。いまいる私は二代目船村徹である。
船村喪失と慟哭の日々が始まる。
思いのままに生きてきた。
人に出逢い
人と別れ
旅をして
酒を飲むー。
私の傍らには、いつでも音楽があった。
喜びも悲しみも、みんな旋律(メロディー)に閉じ込めた。
船村徹は著書「演歌巡礼」の冒頭でこう書いている。
後年船村は、歌手船村徹として各地を回り歌の心を詠い続ける。
高野の眠る笠間の山間の村、刑務所への慰問など船村は、
ギターを携えて「演歌巡礼」を続けることになる。
そして、次のように綴っている。
……ふらり、ふらり
流れに逆らわず
明日からも
思いのままに
生きていこう。
(2015.10.21記を加筆して再掲載) (つづく)
(2017.02.26)
次回は船村徹・喪失と慟哭の日々をアップします。