雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

戦場カメラマンの苦悩と孤独 ④ プロカメラマンとしての使命

2022-02-20 06:30:00 | つれづれに……

戦場カメラマンの苦悩と孤独 ④ プロカメラマンとしての使命

     内戦の続くスーダンで起きた飢饉の中で、痩せ衰えてうずくまる子どもを撮影した写真。
その後ろではハゲワシが子どもの方を向いて映っており、
この子どもが死ぬのを虎視眈々と待っているように見える。
 カーターが訪れた国連施設のある村では、
毎日20人前後の子どもが死んでいたと言われています。
カーターは国連の食糧配給センターの近くを歩いていて、
うずくまる子どもとハゲワシを見つけ、思わず構えてこの写真を撮った。
 写真を掲載したニューヨーク・タイムズは次のようなキャプションをつけていた。
『先日アヨッドの食料配布センターへの道において撮影された、
飢餓により衰弱してうずくまった幼い少女。すぐ近くでハゲワシが待ち受けている』

  前回は、『ハゲワシと少女』(カーターはこの写真でピュリッツァー賞を受賞)の写真を見た人々の反応を中心に考えてみました。
 更に、一歩進めて「あなたが戦場カメラマンだったらどのような行動を取るでしょう」と「職業倫理と命」ということについて考えてみました。
 さて、今回は実際に戦場カメラマンとして活躍しているプロの戦場カメラマンに焦点を当ててみました。

戦場カメラマン渡部陽一の場合
   (渡部陽一オフィシャルブログより)
 これまでの主な取材地は、イラク戦争米軍従軍記者、ルワンダ内戦、コソボ紛争、チェチェン紛争、ソマリア内戦、アフガニスタン紛争、スーダン、パレスチナ紛争など、学生時代から世界の紛争地を専門に取材を続けている。
 戦場の悲劇、そこで暮らす人々の生きた声に耳を傾け、
極限の状況に立たされる家族の絆を見据える。

 戦場カメラマン渡部陽一が取材に入る紛争地で、
命の危険にさらされながら切り取った被写体は、
まぎれもなく渡部陽一が見て、感じた写真である。
私たちが見ているのは、
被写体に焼き付けられた彼の個性を見ていることになる。
 彼の目を通して切り取った、「渡部陽一の戦場」なのだ。
 被写体に向けて切るシャッターは、
 誰が撮っても同じような写真しか撮れなければ、血の通った写真は撮れなくなってしまう。
 写真は無機質で感動のない写真になってしまう。
 被写体を見つめるカメラマン一人一人の個性が、被写体をとらえなければならない処に
 戦場カメラマンとしての個性があるように思う。

 流された血に、
 破壊された建物に、
 泣き叫ぶ子どもたちに、
 重銃機関銃で藪にひそんで対岸を見つめる兵士に、
 どのような物語があるのか、
 写真のなかに表現できなければ
 写真家の資格はない。

 だから彼は、自身のプロフィールの最後に
 「戦場の悲劇、そこで暮らす人々の生きた声に耳を傾け、
  極限の状況に立たされる家族の絆を見据える」
 と書いて、自分の立ち位置を表明したのでしょう。
      悲劇の物語を、
      そこで暮らす人々の生きた声を
      家族の絆を
      被写体の中に表現しようとする。


 これが戦場カメラマン・渡部陽一が見た戦場である。(写真・オフィシャルブログから引用)。
 硝煙の匂いも、血の匂いもしない、命の危険も感じられない。
 あるのは、横たわる子どもを覆っている戦場に漂う、倦怠感だ。
 だが、寝ている子供の脇には機関銃がなにげなく置かれている。
 「これが子どもたちを被う日常なのだ」機関銃を画面に入れることによって、
 命の危険が子どもたちを覆い、シャッターを切ったその後に敵方の銃撃が
 子どもたちの命を奪う危険が潜んでいることを渡部陽一はレンズを通して切り取っている。
 地面に投げ出された薄いシートは貧困の象徴であり、
 画面右端に少しだけ見えるアルマイトのような容器は、
 食事用のナベか、洗濯のタライなのか。
 戦場と日常が同居している危険地帯であることを写真は表現している。

   渡部陽一の 戦場カメラマンとしての立ち位置が、ぼんやりと理解できたので、
次は「命の危険にさらされる戦場に駆り立てるものは何か」という問題を見てみたい。
                               (つづく)

(つれづれに……心もよう№127)  (2020.02.19記)

 

 

 

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戦場カメラマンの苦悩と孤独 ③ 『ハゲワシと少女』人々はどう反応したか

2022-02-14 06:30:00 | つれづれに……

戦場カメラマンの苦悩と孤独 
     ③ 『ハゲワシと少女』人々はどう反応したか


 (『ハゲワシと少女』)

 1993年 撮影場所は 内戦の続くスーダン。
 1994年撮影者のケビン・カーターはピュリッツァー賞を受賞
       受賞の1カ月後、カーター氏は故郷ヨハネスブルグ郊外の自宅近くの公園で自殺。

内戦の続くスーダンで起きた飢饉の中で、痩せ衰えてうずくまる子どもを撮影した写真。
その後ろではハゲワシが子どもの方を向いて映っており、
この子どもが死ぬのを虎視眈々と待っているように見える。
 カーターが訪れた国連施設のある村では、
毎日20人前後の子どもが死んでいたと言われています。
カーターは国連の食糧配給センターの近くを歩いていて、
うずくまる子どもとハゲワシを見つけ、思わず構えてこの写真を撮った。
 写真を掲載したニューヨーク・タイムズは次のようなキャプションをつけていた。
『先日アヨッドの食料配布センターへの道において撮影された、
飢餓により衰弱してうずくまった幼い少女。すぐ近くでハゲワシが待ち受けている』

 ニューヨーク・タイムズの読者の反応は、「その後、少女はどうなったのか」という、
もっとも素朴な疑問であり、もっともミーハー的な興味だった。
カーター氏が戦場カメラマンとして、世界に伝えようとしたことは、
彼の願いに反して意外な方向に展開していった。。
内戦の続くスーダンで犠牲になっていくおさなごの姿に、
混乱と戦争の非情さを伝えようとしたはずの報道写真だったはずだ。

 「なぜカメラマンは少女を助けなかったのか」
 「少女を見殺しにしたカメラマンこそ本当のハゲワシだ」
 「ピュリッツァー賞は取材の倫理を問わないのか」
 写真そのものの非難ではなく、カーターに対する非難へとエスカレートし、
 倫理問題にまで発展していった。
 カーターの意図とは反対に、世論はまったく別な方向へ拡散したようだ。

 評論家を含む専門家の意見も、大衆のものの見方を踏襲したものが多かった。

 「写真を撮ることが大切なのか、目の前で起きていることが大切なのか、それが問われている写真だ」
                              報道関係者の代表は写真に批判的だ。
 「ジャーナリストは倫理的に考えて取材しようとしている状況を変えることはできない」
                                     コロンビア大学教授。
 白鵬大学教授 的場哲郎は毎年、この写真を提示して講義しているが、
  「あなたなら、このような場合、写真を撮りますか。それとも少女を助けますか」
  という質問に学生は何と答えるのだろう。

  少し時間を置いて、自分だったらどう答えるかと考えてみましょう。
           
           命の極限状態に置かれた場合、
           人命を最優先すべきなのか。
           いや、やっぱりカーターのように
           シャッターを切るべきなのだろうか。

           私は、①で示したように、
           使命感と倫理観が拮抗する状況下で
           二者択一の選択はできない、という
           思いが強く残ります。
           潔い決断ができず、卑怯かもしれないが、
           正直なところ、
           迫りくる被写体の命が危機にさらされている
           場面に臨場しなければ結論は出せないと思っている。

 この問題は、どちらが正しくてどちらが正しくないか、
 ということを念頭に置いて、的場氏の授業に参加した学生の意見を二、三取り上げてみます。
 私にとって意外だったのは、職業使命感に共感する意見が多かったことでした。
   「ジャーナリストは真実を伝える事こそが(ジャーナリストの)倫理であり……」
   「わたしがもしこの写真を撮ったジャーナリストだとしたら、
   ジャーナリストとして外部にスーダンの現状を発信することを優先するだろう」
   「わたしならすぐにハゲワシを追い払っていただろう。
   やはり、カーターさんは賞をもらにふさわしい人だ」と、職業使命感に共感する答えが多かった。

    しかし、次のような考え方もあることを忘れてはならない。
   「倫理的緊張を持つことこそが重要であり、
    ジャーナリストは写真を撮るべきだという考えは理解できた。
    しかし、私はどうしても心に何かもやもやしたものを感じずにはいられない」

  以上のような反応に対して、プロの戦場カメラマンはどう考えているのか。
  次回、的場哲郎教授の講義録を参照に紹介したいと思います。

         (つれづれに……心もよう№126)     (2020.02.13記)

 

 

 

 

 

 

 

 

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戦場カメラマンの苦悩と孤独 ② 『ハゲワシと少女』写真の背景

2022-02-06 06:30:00 | つれづれに……

戦場カメラマンの苦悩と孤独 ② 『ハゲワシと少女』写真の背景  
 (ハゲワシと少女)
 1993年 撮影場所は 内戦の続くスーダン。
 1994年撮影者のケビン・カーターはピュリッツァー賞を受賞

 内戦の続くスーダンで起きた飢饉の中で、痩せ衰えてうずくまる子どもを撮影した写真。
その後ろではハゲワシが子どもの方を向いて映っており、
この子どもが死ぬのを虎視眈々と待っているように見える。
 カーターが訪れた国連施設のある村では、
毎日20人前後の子どもが死んでいたと言われています。
カーターは国連の食糧配給センターの近くを歩いていて、
うずくまる子どもとハゲワシを見つけ、思わず構えてこの写真を撮った。
 写真を掲載したニューヨーク・タイムズは次のようなキャプションをつけていた。
『先日アヨッドの食料配布センターへの道において撮影された、飢餓により衰弱してうずくまった幼い少女。すぐ近くでハゲワシが待ち受けている』

  この衝撃的な写真は世界に向けて発信され、
内戦が続き国家的困難の中で困窮する国民を連想させる。
飢饉が続き飢餓が続く状況で、犠牲になるのはいつも弱者である民衆、
なかでも抵抗力がなく大人の加護なしには生きられない子どもが、
猛禽のハゲワシに命を狙われている写真は人々の感情を煽り、
力尽きたように草原にうずくまる痩せた少女の姿に同情心をかきたてられた。
 例えば、次のような写真では、
衝撃的ではあるけれどカーターの写真ほど話題にはならなかったでしょう。
   

  写真には説明がないので類推するしかないが、目をそむけたい過酷な写真だ。
 一般受けもしないし、報道規定があり一般紙に掲載されることもない。

 カーターの写真は、人々の琴線に触れる部分があったのだろう。
『ハゲワシと少女』は何度見ても衝撃的な写真である。
血の匂いもしないし、暴力的な匂いもしない。
存在するのは無抵抗の少女に集まる同情心と、
少女のその後の安否はどうなったのだろうという物語性だ。

 やがて、この写真は「報道か人道か」という問題を提起するようになる。
 ①のブログで「読者の反応」を予告したが、「写真の背景」に変更した。

       (つれづれに……心もよう№125)     (2020.02.05記)

 

 

 

 

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