雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」-時代に創られた偉人- ②

2020-10-03 06:00:00 | 読書案内

公開前の下書き記事を一部の皆さんに提供してしまいました。お詫びします。
完全版をアップしましたので、よろしくお願いします。

読書案内「黒澤止幾子」-時代に創られた偉人- 
②軍鶏駕籠(かご)に載せられ大阪から江戸へ
                               

(数少ない止幾子の写真)

(黒澤止幾子の生家)
随分前の頃の写真です。2013年頃の写真を見ると茅葺(かやぶき)屋根は一部朽ち、特に屋根のてっぺん・「ぐし」は崩れています。

 出入口(正面右)は当時の面影を残していますが、居室等部屋の方はアルミサッシになっていました。
20数年前に訪れた時はアルミサッシではなかったように思います。
(2016年頃の様子)
近年の動き
  茨城新聞2006年10.19及び毎日新聞2007年3.28の記事から抜粋。
   生家は築400年とも云われています。茅葺屋根の日本家屋で、止幾子が活躍した寺子屋の机や
  土間、機織り機、民具などが展示されている。平成9(1997)年には、敷地内に止幾子資料館もできた。
      
顕彰碑敷地内にある。
   だが、残念なことにこの土地を所有する6代目の子孫の経営する印刷機製造会社の資金繰りが悪化
  し、工場をはじめとする止幾の生家の土地が競売に掛けざるを得なかった。物件は10件に分かれ、う
  ち一つが生家にかかっているとみられる。生家の修復や保存に関わって来た。隣接の「とき蕎麦」店
  主の大沢さんは、「伝記だけではなく生家があれば、実感をもって止幾を知ることができる」とはな
  す。(茨城新聞)(毎日新聞)
   住民の一部は、生家を町の文化財に指定するよう求めて著名運動を始めた(毎日新聞)。

   私が調べた「近年の動き」は、ここまでで、現在の状況については後日の調査を待ってほしい。

止幾子、軍鶏駕籠で江戸へ護送
  献上「長歌」を座田右兵衛之大尉に依頼し、その結果も待たずに、翌日早朝大阪に出立したのは
 なぜか。以下前回に続いて京都捕之文にそって止幾子の行動を追ってみましょう(要約)。

 安政6(1859)年3月29日 大阪へ下り、八軒屋の枡屋市兵衛の宿に入る。
                                 30日    雨。……近所に住む俳諧師に「長らくご逗留ください」などと云われたが、
             いずれ四国巡りの予定もあるので、その戻りに又お邪魔いたしますと云って、
             その夜はゆっくり休みました。
                              4月1日   風が激しく外出もできない。大塩平八郎の本を繰り返し読んで涙を流した。
             銭湯の帰り、京都からの使いだがお尋ねの件でと云って袂から取縄を出し……
             しばられて連行された。時に五十四歳お国のために生まれて初めて逮捕され、
              ……。
             ※【大塩平八郎の乱】江戸時代末ごろの陽明学者。大坂町奉行の与力であったが、
                引退後、家塾で陽明学を教えた。天保の飢饉で苦しむ人々を救おうと、たびたび
                奉行所へ訴えたが取り上ちげられず、農民300人を集めて「救民」の旗を立て、反
                乱を起こした(大塩平八郎の乱)。
                反乱は一日で鎮圧され、平八郎は自殺した。平八郎らの反乱は、幕府が直接におさめる都
                市で、幕府の元役人が起こした反乱であったので、幕府を驚かせた。
                またこのあと、この乱に影響され、各地で一揆や打ちこわしがおこった。
        止幾子は漢学や国学に長じていたので、この時読んでいた本は、「大塩平八郎の乱」
      の関連本なのかもしれません。大塩の著書では『洗心洞劄記(せんしんどうさつき
)
      などもあるが、これは大塩の陽明学に基ずく読書ノートである。
      いずれにしろ、安政6年のこの時期は、井伊直弼の思想弾圧と言われる「安政の大獄」
      の真っ只中で、反幕府の大塩平八郎の本を読めば探索側に疑いを掛けられてもおかしく
      
ないと思われる。
        
                 .
                 
4月2日 調べられているうちに旅道具の中から長歌の下書きを見つけられました。
              明け方の四時頃になって牢屋敷の未決囚部屋に連れていかれ、衣服、
                                             帯それに絹物はえり袖口まではぎ取られ、髪もこわして櫛、かんざしも
                   取り上げられました。
        4月11日   大阪奉行所の白砂に座らされて遠慮はいらぬから細かく申せというので、
              申し上げるのも恐れ多いことながら、水戸様のご謹慎は無実の罪に陥れら
                                             れたと聞いて、この事を陛下に言上奉るために上京して参ったと話しました。

         容疑者(幕府方の女間諜)としての本格的な取り調べが始まる。大阪奉行所の取り調べ
         は5月7日ごろまで続き、15日には軍鶏駕籠に乗せられ江戸送りになり、引き続き取
         り調べが行われた。

         さて、黒澤止幾子への容疑は、水戸の殿様・徳川斉昭九代将軍(十五代将軍・徳川慶
         喜の実父)の無実を訴えるための『長歌』を奏上し、その下書きが露見したことに起
         因する。
         その長歌の内容はどんな内容だったのだろうか。
         次回は長歌の内容に触れながら、止幾子の行動についてもう少し詳しく触れてみた
         いと思います。
                                        (つづく)
                
            (読書案内№156)    (2020.10.2記)


        

 

               
                     

 

 

 

 

 


 
              

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