雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内 「霧笛」ルイ・ブラッドベリ著

2024-04-27 06:30:00 | 読書案内

読書案内(再掲・改訂) 「霧笛」ルイ・ブラッドベリ著

             短編集太陽の黄金の林檎より
               2012.9刊 ハヤカワ文庫SF

眠りから覚めた一億年の孤独

 孤独岬の灯台。

突端から2マイル(約3200メーター)離れた海上に70フィート(約21メーター)の高さにそそり立つ石造りの灯台。

 夜になれば、赤と白の光が点滅し船の安全を見守る。

霧の深い夜には霧でさえぎられた灯りを助けるように、霧笛が鳴り響く。

霧笛の音……。

〔……誰もいない家、葉の落ちた秋の樹木、南めざして鳴きながら飛んでいく渡り鳥にそっくりの音。十一月の風に似た音、硬い冷たい岸に打ち寄せる波に似た音、それを聞いた人の魂が忍び泣きするような音。遠くの町で聞けば、家の中にいることが幸運だったと感じられるような音。それを聞いた人は、永劫の悲しみと人生の短さを知る〕

 寂しくて孤独に震え、一度聴いたら忘れられない霧笛の音が、濃い霧に覆われた孤独岬の灯台から流れる。

 霧の出始める九月、霧の濃くなる十月と、霧笛は鳴りつづけ、やがて十一月の末、一年に一度、あいつが海のかなたからやってくる。深海の暗闇の眠りから目を覚まし、一族の中の最後の生き残りが、海面に姿をあらわす。

 全長九十から百フィート。

 長く細長い首を海面に突き出し、何かを探すように、霧笛の流れる霧で覆われた海面を灯台めざして泳いでくる。

 永い永い時間のかなたで絶滅してしまった恐竜。

 数億年の眠りから目覚めその霧笛に向かって、恐竜が鳴く、霧笛が響く…。

恐竜の鳴き声は、霧笛の音と見分けがつかないほど似ている。

孤独で、悲しく、寂しい鳴き声だ。

 霧笛が鳴る…恐竜が吠える…お互いが呼び合い、求め合うように呼応する。

 霧笛を仲間の呼び声と錯覚し、深海の深い眠りから目を覚まし、数億年待ち続けた仲間の呼び声に孤独な怪物は灯台に近づいてくる。

 その時、燈台守が霧笛のスイッチを切った。たった一匹で気の遠くなる時間にじっと耐え、決して帰らぬ仲間をただひたすら待たなければならなかった孤独。

 彼は霧笛の消えた灯台に突進していく……。

 喪われ二度と会えないものを待つ孤独が、読む者の心を切なくさせるSF短編である。

                           ハヤカワ文庫2006年2月刊 評価 ★★★★★

  仲間たちが死に絶え、たった一人生き残った恐竜。
  深い海の底に潜んで、気の遠くなるような永遠の時間を
  仲間の誰かが迎えに来ることをただひたすら待っている。
  孤独に絶えて……
  霧笛の音が、彼には仲間の呼んでいる声に聞こえる。
  
  失われていくものの孤独が、
  絶滅していく生物の無言の声が聞こえてくる。

 

  私たちは、この世に存在するものの希少なものに関心を寄せ、愛でようとする。
  先人たちが作った、縄文土器の造形を岡本太郎は、芸術だと称し、
  「芸術はバクハツだ」と言った。

  古代人たちのまだ文字を持たなかった時代に、
  創造した奇妙な形のものを『火焔土器』と名付けた。
  体内に満ち溢れ、ほとばしるエネルギーが、
  「炎」という形を「土器」写し取り、表現したのだろう。

  あるいは洪水を恐れて、高台の日当たりのよい場所に住んだ彼らにとって、
  「火」と「水」は大切な自然の恵みであったろう。
  同時に、時によっては災難をもたらす元凶でもあったことを彼らは肌で感じていたに違いない。
  生活に恵みをもたらす「水」や「火」はこうして土器の形へと発展していったのだろう。

  水の躍動を「水紋」で表現したのも、火の躍動を「炎」のイメージとして発展させたのも、
  生きるために必要な精神の具現化だったのだろう。
  
  形のもの 目に見えない存在
   私たちは異形のもの、例えば人魚、河童などにも興味をひかれ、
  各地に買ってそれらが存在した証として、それらのミイラなどが残っている。
  平安の貴族社会では、物の怪など正体不明のものがこの世を跋扈し、
  人を呪い殺し、感染症を流行らせた。
  雪女も民話の中に座敷童と共に人々の関心を集めている。
   現代ではツチノコ騒動があった。ネス湖のネッシーなど、まだみぬものへの興味は、
  憧れの的であり、恐れでもある。
   縄文人が造形した土器も、自然への恐れであり、自然への畏怖だったのかもしれない。
  
  ゴジラは放射能によって生まれた怪物であり、
  どのような理由があってか、文明が作り出したものを徹底的に破壊しつくす。
  科学が作り出した放射能の落とし子が、その文明を破壊しつくす姿に、
  どこか悲しいゴジラの文明への怒りが見えてくる。
  ハリウッド映画のキングコングにも、文明社会で生きていけないコングが美女に
  愛情を注ぐシーンに哀れさを感じる。

  灯台が発する霧笛を仲間の呼ぶ声と錯覚して、海底の底で眠る生き残りの恐竜が、
  孤独の長い時間から目覚め、現代によみがえる姿は、哀れで悲しい。

 (読書案内№191)         (2024.4.26記)
  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  
  



  

    

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今日のことば(5)  「嘘」(2) 「嘘のスパイラル」

2024-04-17 06:30:00 | 今日のことば

 今日のことば(5)  「嘘」(2)
  「嘘のスパイラル」 
「嘘の誘惑に対して」(前回続き)
嘘は一つでは終わりません。
嘘を隠すための嘘
嘘を正当化するための嘘をつくことに必ずなるからです。
そして、やがて何が本当の自分なのかわからなくなってしまう。
それほど寂しいことがあるでしょうか。

嘘をついても見抜かれなかったと
ほくそえんでいる人がいるなら
それは大変な錯覚というものです。
なぜなら
嘘をつくたびに
心は傷つき
魂はカルマを深くしているからです。
やがて
嘘をつくことにも慣れ
恐れもなく痛みもなく
嘘と同化してしまうのです。
         ※ カルマ(Carma)  人間が持つ心の奥に存在する「業」で、宿命とも訳され、「因果応報」という言葉がある。
                  善悪どちらのカルマも、それぞれの応報(結果)が導かれる。

  「
嘘」についての考察がわかりやすく、ていねいに述べられてきた。
このあと、著者が最も言いたかった言葉が続く。

人は誰でも
自分に嘘をつけない心を持っています。
良心――。
あるがままの事実を温かく見守の心
あらゆるものを大切にする心
あらゆる存在の前に謙虚に自分を置く心
嘘はこの良心の働きを奪い、眠らせてしまいます。
嘘は良心の窓を塗りこめてしまうのです。
愛の光
いのちの光
そして
生かされている事実を見失わせてしまうのです。

   「嘘依存症」という病気があるのなら、水原一平氏の行為は最も信頼に値する大谷翔平を裏切り、
  申し訳なかったと謝罪する気持ちではなく、不正が露見しても「口裏合わせ」を依頼して、
  この期に及んでなおも自己保身を図ろうとする行為は正に、「ギャンブル依存症」以前に、
  「嘘依存症」の最たるものと思わざるを得ません。

  「あるがままの事実を温かく見守の心」を喪失し、「あらゆる存在の前に謙虚に自分を置く心」
  を見失ってしまい、嘘によって「良心の窓を塗りこめてしま」った愚か者の末路を見るような思いです。
  
  私たちに一番大切なことは、
  「生かされている事実を」忘れない生き方ではないかと思う。/
  私たちは、生きているのではない、この世界に「生かされている」のだ。
  自然に生かされ、人と人の絆に生かされ、決して傲慢になってはいけない。
  
   日照りの時は涙を流し/寒さの夏はおろおろ歩き/
   みんなにでくのぼーと呼ばれ/
   褒められもせず/苦にもされず
   そういうものに/わたしは なりたい
                 (宮沢賢治・雨ニモ負ケズ)

       どこかで、宮沢賢治の生き方に繋がるような高橋佳子氏の言葉です。
  世間のしがらみの中でたくさんの余分と思われるものを背負いながら生きている私たちには
  なかなか難しい生き方かもしれませんが、そういうものにわたしはなりたい。

   (今日のことば№5)           (2024.04.16記)

 

 

 

 

 

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今日のことば(4)  「嘘」(1) 

2024-04-14 06:30:00 | 今日のことば

 今日のことば(4)  「嘘」(1)

 嘘の誘惑に対して

  何気なくついてしまう嘘。

   責められるのが嫌で
   馬鹿にされるのが嫌で
   除け者になるのが嫌で
   愛想をつかされるのが嫌で
   誉められたい一心で
   認められたい一心で
   立場を守りたい一心で
   つい、言ってしまう嘘
   ないものをあるがごとく、やったことをやらなかったごとく
   吹聴したり、隠したりする。
   恐怖心からの嘘
   虚栄心からの嘘
   投機心からの嘘
   嘘は、何気ないものであっても
   最も恐ろしい誘惑の一つでしょう。
        (新祈りのみち 至高の対話のために 高橋佳子)
著者・高橋佳子氏について私は知らない。
 引用した「ことば」は800ページ以上もある単行本のなかから引用した。
巻末のプロフィールによると、幼少のころより、人間は肉体だけでなく、目に見えないもう一人の自分――魂からなる存在であることを体験し、「人は何のために生まれてきたのか」「本当の生き方とはどのようなものか」という疑問探究へと誘われる。現在68歳。
 哲学者、宗教者、霊感の強い人などそのどれにも属するような雰囲気があるけれど、
一定の枠におさまり切れない人のように思う。

  何気なくついてしまう「嘘」は、人間の感性の「最も恐ろしい誘惑」の一つでしょう、
と読者に投げかける。窮地に陥ったとき、何とかそこから逃れたいという思いで「嘘」をつく。
一度ついた嘘に、これをカバーするためにまた嘘をつく。
嘘のスパイラルに陥ってしまえば、取り返しのつかない人生の破滅が待っている。
 嘘によって窮地を脱出したように思えても、嘘はもつれた糸をほぐすようにほころび、
心の傷口を大きくしてしまう。
 
多くの政治家が、嘘の轍(わだち)に足をとられ政治生命を絶たれるのを見てきた。
「記憶にございません」ということばに託された「嘘」。
「嘘をついているのではありません。記憶にないのです」という大ウソ。
人間として恥ずべき行為で政治姿勢を問われ、倫理観を問われているのに、
「記憶にない」と、人間として政治家として絶対に忘れてはならないことに記憶は味方しない。
都合の悪いことを忘却の彼方に追いやるほど、人間の心は便利にできていない。
 嘘をついてでも、
名誉と地位を守りたいと何ともあさましい人間の自己防衛本能だ。
「嘘の誘惑に負ければ、破滅が口を開けて待っている」


♪せめて一夜の夢と 泣いて泣き明かして 
 自分の言葉に嘘は つくまい人を裏切るまい
 生きてゆきたい 遠くで汽笛を聴きながら♪
              
(アリス 「遠くで汽笛を聴きながら」)

  嘘をついたら楽になれるのに、悔し涙かもしれない辛い涙を流して
若者は「嘘はつくまい 人を裏切るまい」と、青春の荒野をさまよう。
嘘の誘惑に負けない青春の旅立ちを謳う名曲である。

 (今日のことば№4)             (2024.3.13記)

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今日のことば(3)  「目」 観察眼と感性

2024-04-09 11:54:12 | 今日のことば

今日のことば(3)  「目」 観察眼と感性
   最近小説をあまり読まなくなった。
   特に小説部門においては、シリーズ物が多く、
   これはこれで気軽に読めて楽しい読書時間を過ごすことができるが、
   読んだ後何も残らない。
   出版事情にもよるのだろうが、人気作家のシリーズ物は当たりはずれがなく、
   読者が付きやすく、版を重ねる予測がつく。
   人気シリーズになれば、一番労力を使う「主人公」の人物設定など、
   シリーズで培養された人物像に基づいて話を進めることができ、
   ストーリーの筋立てに専念できるメリットがある。
   シリーズものは一定の水準を維持した「小説」を書き、量産もできるメリットがある。
   だが、安易にストーリーの面白さに重点が置かれ、
   深みのない物語が乱造される危険性も持っている。
   
   代わりにノンフィクションをよく読むようになった。
   伝記物もよく読む。随筆などもよく読んでいる。
   これらのジャンルは、執筆者の『感性と観察眼』が見事に結晶し、
   著作に当たっての書き手の本気度が示されるから、
   読者の私もぐいぐい著作の中に引き込まれていく。

   今日のことばは、向田邦子のエッセイ集、『父の詫び状』からとった。
   ありふれた日常生活を見つめる作者の目は、優しくどこかにユーモアを含んでいる。
   読んでいて疲れた気持ちが落ち着きをとり戻し、
   いつの間にか作者の著作の世界に引き込まれている自分に気づくことになる。

   エッセイ集『父の詫び状』から動物の「目」についての文章を紹介します。

    動物園へ行って、動物の目だけを見てくることがある。
               ライオンは人のいい目をしている。虎の方が、目つきは冷酷で腹黒そうだ。
    熊は図体にくらべて目が引っ込んで小さいせいか、陰険に見える。
    パンダから目のまわりの愛嬌のあるアイシャドウを差し引くと、ただの白熊になってしまう。
    ラクダはずるそうだし、象は、気のせいかインドのガンジー首相そっくりの思慮深そうな、
    しかし気の許せない老婦人といった目をしていた。
    キリンはほっそりした思春期の、はにかんしているのかもしれない。だ少女の目、
    牛は妙に諦めた目の色で口を動かしていたし、馬は人間の男そっくりの悲しい目であった。
    競走馬でただ走ることが宿命の馬と、はずれ馬券を細かく千切る男たちは、
    もしかしたら、同じ目をしているのかも知れない。

     このエッセイは、「魚の目は泪」という題で400字詰め原稿用紙で18枚に及ぶ長い内容だ。
    表題から連想するのは芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を連想させる。

    46歳の晩春、平均寿命50歳未満と言われた江戸時代芭蕉は、
    後に芭蕉庵と呼ばれる千住の住まいを他人に明け渡し、
    「前途三千里」の奥の細道の旅へと旅立ちます。
    芭蕉の門弟や友人、芭蕉を経済的に支えた杉山杉風など多くの門人、知人たちが見送りに来た。
    「春が過ぎてゆく千住の別れに、芭蕉を慕う人々が悲しんでいる。春の別れを惜しんで鳥が啼き、
    魚だって目に涙を浮かべている」。
     春の別れを惜しむ芭蕉の胸中にはきっと、生きては戻れぬかもしれない旅寝の健康への不安と、
    俳聖への路を極めたいという決意があったのだろう。
    
     期待を込めながら、冒頭に目を通す。
    「子供のころ、目刺しが嫌いだった」魚が嫌い、鰯が嫌いというのではない。魚の目を藁で突き通す
    ことが恐ろしかった。見ていると目の奥がジーンと痛くなって…

     芭蕉を期待していたのに、いきなり「目刺し」の目が嫌いだと、読者の度肝を抜く。
    で、話は次のように展開していく。
     網にかかったカタクチイワシは、日差しにさらして一気に煮干しにする。生きながらじりじりと陽
    に灼かれ死んでゆく、そう思ってよく見ると一匹一匹が苦しそうに、体をよじり、目を虚空に向けた
    無念の形相に見えてくる。
     さらに、魚の目についての記述が続く。
    目が気になりだすと、尾頭付きを食べるのが苦痛になってきた。
   …鯵や秋刀魚の一匹付けがいけない。母や祖母にくっついて魚屋に行く。
   見まいと思っても、つい目が魚の目に行ってしまう。どの魚も瞼もまつ毛もない。
   まん丸い黒目勝ちの目をしている。
   とれたては澄んだ水色をしているが、時間がたつにつれて、
   近所の中風病みのおじいさんの目のような、濁った目になる。
   焼いたり煮たりするとこれが真っ白になるんだ、と思うと悲しくて、
   なるべくお刺身や切り身にしてもらうように、それと
なく頼んだりただをこねたりする。
   
    次から次へと魚の目についての話が展開される。
   芭蕉さんの有名な句はいつ出て来るんだと思うころ、芭蕉さんが登場する。
   「行く春や鳥啼き魚は目に泪」
   芭蕉大先生には申し訳けないが、私は今でもこの句を純粋に干渉することができない。
   次の文章で作者はさりげなく、その理由を述懐する。塩が振られたざるに並べられた魚の目が、
   泣いたようにうるんでいるように見えるし、
   「鳥が啼く」を思い浮かべれば、祖母の飼っている十姉妹が日差しを浴びてさえずる場景を浮かべてし
   
まう。
    ここまで話を進めるのにまだ、全体の五分の一しか進んでいない。
   漁師に打たれて木の枝から落ちて死ぬ直前の猿の目の話になり、
   日本人形の目の話になり、鳥の目の左右上下に動く目が嫌だと言い、猫の目の観察になる。
   最後はある男の足裏に出来た「ウオの目」の話で落をつける。
   最後の二行は次のようにつづられている。
     行く春や鳥啼き魚は目に泪 
    この人にとって、俳聖芭蕉のもののあわれは、わが足元なのである。 
  向田邦子は話の展開がうまい。言葉が紙の上で踊るように生き生きとしている。
  鋭い観察眼と感性が読者を捉えて離さない。
  芭蕉の句が、魚の目の話になり、動物の目の話に進み、最後の落は足裏に出来た「ウオの目」
  で落ちをつける。ウイットにとんだ筋運びは、読者を飽きさせない。

   
映画雑誌編集記者を経て放送作家となった作品には「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」
  「阿修羅のごとく」などいずれも庶民の暮らしを描いて人気ドラマになった。
  1956年8月航空機事故で急逝。才能の花開きを予感させる作家の惜しまれる死だった。
  享年51歳。     
                              (2,024.4.9記)

 

 

 

 

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能登半島地震 (13) 二次避難所から一次避難所へ戻る

2024-04-06 06:30:00 | ことばのちから

「やっぱり地元で…」戻る一次避難所 朝日新聞2024.03.06

ホテルなどの二次避難所から、
「一次避難所」に戻りたいと希望する被災者が増えている。(リード文より抜粋)


 能登半島地震の被災地では、一次避難所の小学校の空き教室や体育館、
公民館などに避難した人などのうち、高齢者や病気療養中の患者、
プライバシーに制限のある集団生活を送るのが難しい被災者を中心に、
二次避難所としてホテルなどの比較的生活環境の落ち着ける場所を、
希望者に提供してきた。しかし……

住めば都にはならなかった

 珠洲市のMさん(85歳)は、被災後金沢市の姉の元に身を寄せた。
しかし、2月末には一次避難所の小学校に戻ってしまった。

 「金沢は水もトイレも使えるし、あったかい寝床もあった。
 でも、知り合いも話し相手もいない。珠洲なら知った人ばかりだもの」

 珠洲市は人口減少により、過疎の進行が進む町である。
若い人たちは珠洲の町を出ていき、高齢者比率が高い町になってしまった。
でも、そのような街だからこそ、人と人とのつながりが深く、
近所づきあいの中に、助け合いの精神が色濃く残っている。
残った者同士、幼なじみの気心の知れた仲間たちの集まる地域だった。

 震災の被災者になり一次避難所に生活の場を移したが、
集団生活になじめず、金沢の姉の家に移った。
住み慣れた珠洲と違って、Mさんにとって見慣れぬ風景の街で暮らすことは、
一歩外に出れば、知らない人ばかりのご近所さんに、故郷珠洲の風景が思い出される。
「帰りたい。珠洲の街に」。
望郷の思いに耐えがたく、Mは故郷珠洲に帰ってきた。

 被災した家に住むことはできないから、
また一次避難所での集団生活が始まった。
ここの生活には、規則があり、気疲れもする。
だが、ここには震災で激変してしまった故郷の風景だが、
それでも生活の匂いがあり、この土地に根っこを下ろした安心感があった。

 避難所での朝食が終わると、傾いた自宅に戻り、
瓦礫の片付けや、畑の野菜の世話をする。
自宅は傾いてしまったけれど、やらなければならない仕事があり、
それが何より生活の張りになり、生きがい対策にもなる。

 「明日の自分もわからない。でも、わたしは珠洲にいたい」

珠洲市のTさん(69歳)は、親族のいる大阪府に避難した。
3月上旬には、大谷小中学校の体育館の一次避難所に戻ってきた。
自宅の荷物整理や罹災証明の再申請が目的だという。

「近所では家が倒壊し、亡くなった人もいた。
 そんな中で、大阪での不自由ない暮らしはうしろめたい」

珠洲市長
は、二次避難所から一次避難所へ戻ってくる被災者を、
「お戻りいただけるのはありがたい」
と収容人数に比較的余裕のある一次避難所への斡旋をしている。

石川県輪島市の場合
 震災から3カ月経過して、最も多い時で167ヵ所あった一次避難所は、今50ヵ所に減少している。
4月からは倒壊家屋などの公費解体の手続きが始まる。
 市職員の避難所への通しが付き、
解体作業に関連する職務に職員を配置する段階にきている。
「そこでまた一次避難所に人が増えると対応が必要になる。
戻りたいという人を受け入れたらきりがない。心苦しいが断るしかない」
(担当職員)
 対応職員の不足がまねく、苦渋の選択なのだろう。
だが、住み慣れた故郷の避難所に戻りたいという被災者を戻ってくるな、
と言わないまでも、対応職員が不足しているから一次避難所に戻るのはご遠慮願いたい、
という方針がよいのかどうか疑問は残る。

一次避難所になっているある公民館の現状
「輪島に戻りたい」
「家が倒れて、帰るところがない」
 いずれも、切実な問題だ。
 一次避難所から、二次避難所に移ったものの故郷から離れ、
 知らない人達の中で暮らすのに疲れ、故郷帰還の願望が高まる。
「家が倒れて、帰るところがない」という表現のなかにも、
二次避難所に移った生活がうまくいかなかったための
故郷願望の切実な願いがあるに違いない。

県はどう考えているか
 県の担当者は、「(二次避難から一次避難への逆流を)断る想定はしていなかった」
と想定外であったことを明かす。
一次避難の運営は各市町村の対応で、判断の統一は難しい。
従って、避難所の開設に期限などの決まりはなく、
仮設住宅の促進など支援を急ぐ必要があると、歯切れの悪い回答が返ってくる。

遠くの避難所、能登特有の地形
 県はいち早くホテルや旅館などを二次避難所として確保した。
能登半島の被災地では、
二次避難所とするみなし仮設として活用できる住宅が少ないという事情もあり、
二次避難所は県内の別の自治体や県外が採用された。
住み慣れた土地を離れ、見知らぬ人たちとの生活に疲れ、
望郷の念に駆られた人も少なくはない。
「一次避難所に戻るということを念頭に置いた避難、
生活再建の計画づくりを進めることが重要」(京都大学教授・矢守克也 防災心理学)
と指摘する。
 能登半島の復興は、日本の半島や離島などの地域づくりに関わる重要な課題を示している。
地震災害の教訓を、今後検討されるであろう「創造的復興プラン」に反映し、未来への教訓としたい。


            (ことばのちから№13)              (2024.4.5記)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




                     









 

 

被災の奥能登4市町、人口減に拍車 前年比3倍超
産経新聞2024.4.1

支援活動で福岡県から訪れ、「輪島朝市」付近で手を合わせる男性=1日午後1時53分、石川県輪島市(渡辺恭晃撮影)

市町別の減少数は珠洲市が227人で前年同時期(24人)の9・46倍に達した。輪島市336人(前年同時期150人)、能登町129人(同20人)、穴水町71人(同28人)だった。

2月の転出者数は珠洲市が115人で前年(11人)の10・45倍となった。輪島市は239人(前年132人)で、能登町79人(同15人)、穴水町55人(同16人)。県人口は前月比0・15%減の110万4587人。

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