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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

「あゝ岸壁の母」⑤ 番外編

2025-03-08 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」⑤ 番外編

 敗戦時点で海外に在住する日本人は軍人・民間人の総計で660万人以上いたと思われます。
 引揚げた日本人は1946年(昭和21)末までに、500万人が帰国したといわれています。
 しかし、いろいろな事情があって帰国しない選択をした人もいたが、
 その人数や理由については現在も不明です。
 これを『残留日本人』と言います。
 
 
 厚生省によれば、
 1971年末時点での軍人・軍属と法人あわせた引揚者の総数は、
 6,290,702人と言われています。

日本5大引揚港
 引揚港は北の小樽、函館港から、
 南は博多、鹿児島港まで約15港に及びます。

 浦頭港 長崎県佐世保市  引揚者数 139万6468人
 博多港 福岡県福岡市     〃  139万2429人
 舞鶴港 京都府舞鶴市     〃   66万4531人
    浦賀港 神奈川県横須賀市   〃   56万4625人
 仙崎港 山口県長門市     〃   41万3961人
                       合計    443万2014人

最後に引揚者の人数を申し上げて、私の話は終わります。

 厚生労働省のまとめによると、海外から引き揚げた軍人・軍属は310万人、民間人は318万人、合わせて628万人となります。
しかし、いろいろの事情があり、残留日本人の詳細な数や実態については現在も不明である。

終戦までの経緯(まとめ)
 
 ポツダム宣言を受諾した日本は昭和20年(1945)9月2日、降伏文書に調印しました。一般には、この日を第二次世界大戦の正式な終結日とされています。

  1945年7月26日 連合国がポツダム宣言を日本に勧告
      8月  6日 広島原爆投下
                   8月  8日    ソ連対日参戦広島に原爆が投下された2日後の1945(昭和20)年8月
         8日、中立条約(1941年4月調印 1945年4月5日失効)を結んでいたソ連
         が、日本に宣戦を布告した。
          日本は米英との和平交渉の仲介役をソ連に打診していたほどで、まったく
         の不意打ちに何の対応も取れなかった。
          ソ連の参戦は、同年2月に開かれた米英ソ首脳によるヤルタ会談で秘密決
         定されており、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることにな
         っていた。 

     8月  9日 長崎原爆投下  
     
 8月10日 午前会議でポツダム宣言を受諾
         ポツダム宣言受諾が遅れた理由は、①陸海軍の受諾反対
                           ②受諾を巡る反論が相次いだ。
                           ③無条件降伏を受諾した場合の天皇
                            の責任扱いについてどのように扱
                                                                                                    われるかわからなかった。
                           等々議論がまとまらないうちに12日が経過し、原爆投下を受け更にその
           二日後には長崎にも原爆投下があり、見計らったようにソ連参戦があ
           り、日本は受諾を余儀なくされてしまった。
      14日 終戦の詔書が閣議決定され、玉音放送のための録音盤が
          作成された。
       15日 玉音放送 鈴木内閣総辞職
          日本はこの日を終戦記念日とした。
       9月  2日   東京湾上の米軍艦ミズーリ―号で連合国と日本軍の降
          伏文書の調印式が行われる。
               
世界的にはこの日を第二次世界大戦の終結日とされています。
ソ連参戦
 
ソ連の参戦が1945年2月に開催された米英ソ首脳によるヤルタ会談で秘密裏に決定されており、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることになっていた。
 どのような経緯があってソ連参戦が認められ、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることになったのか、知るよしもないが日本は米英との和平交渉の仲介役をソ連に打診していたほどで、まったくの不意打ちに何の対応も取れなかった。

 以下、時事ドットコムの『終戦特集~太平洋戦争の歴史』から関連記事を抜粋引用します。 

 ソ連との国境地帯に配置された日本軍は、
主力を南方戦線に引き抜かれ、戦力は著しく低下していた。
これに対し、ソ連軍は対日戦に約150万人の兵力を動員、
大量の戦車や航空戦力で日本軍を圧倒し、
またたくまに日本の勢力圏だった満州国と朝鮮半島北部を制圧した。
さらに、日本がポツダム宣言を受諾した後に千島列島に侵攻し、
日本側の守備隊と激しい戦闘が繰り広げられた。
 同年の9月初めまで続いた日ソ戦では、
ソ連側推定で戦死者はソ連軍が約8200人だったのに対し、
日本軍は約8万人に及んだ。
 停戦後に捕虜となった日本の軍人、
軍属のうち57万人以上がシベリアや中央アジア、モンゴルなどの収容所に抑留され、
強制労働を課された。
 厳しい飢えと寒さで、抑留者のうち死者は約5万5000人に達した。

 中国、朝鮮半島南部、東南アジアなどからの引き揚げが比較的順調に進んだのに比べて、ソ連に抑留された軍人や民間人たちの引き揚げは、容易には進展しませんでした。

 引揚事業が終了する13年間を引揚者の世話をし、
「引き揚げの母」と言われた舞鶴市の田端ハナさんの証言。
 「子供を持つ親、夫を待つ妻。当時は男も女も子供も年寄りも一緒だった。ひたすら、帰りを待っていた。いせさんもその一人で、ナホトカから船がつくたびに見えていた」。

 

国の引揚船事業は昭和33年9月引揚が終了。昭和29年9月

 現場には一時、新聞、通信社、放送局など75社、1000人を超える報道陣が押しかけ、
激しい報道合戦を展開したと言われています。

 京都市舞鶴市平引揚桟橋には、終戦直後から引揚事業の終了する13年間に346回の引揚船が入港し655,501人が帰国した。中には引揚船の中で病気や、栄養失調などでなくなる人もいました。また、出産する人もいました。

 
 京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館によると、終戦時大陸に残された日本人の内、
約47万2千人がシベリアの収容所で拘留生活を強いられていました。
 政府は昭和20年10月7日から舞鶴港は政府指定引揚港のひとつとして、
先の大戦において海外に取り残された660万人以上といわれる日本人の生命線としてその使命を果たしてきたそうです。

浦頭検疫所
 上陸した引揚者は、検疫所で問診・検疫を受け荷物や衣類も消毒されました。これは、コレラやチフスなどの伝染病を水際で防ぐためで、多い時は一日で一万九千人も検査された。検疫が済むと、引揚援護局が管理する収容所まで約7キロの山道を歩いた。
 余談になりますが、浦頭資料館の敷地内には、浦頭引き上げを経験された田端義男さんの「かえり舟」の歌碑が設置されています。

「岸壁の母」を昭和50年に大ヒットさせ、いせさんを病院で看取った歌手、二葉百合子は「うわ言で新二さんの名前を呼び続けて亡くなられた。いせさんは死ぬ間際まで新二さんを待っていた」という。
彼等は毎年6月、旧満州や旧ソ連軍によって強制抑留されたロシア・ハバロスク、中国などを訪問し、戦友らの墓探しや消息確認を行っていた。

 660万人の引揚者が日本全土に設けられた引揚港から、祖国日本に帰ってきた。
艱難辛苦を乗り越えて帰ってきた引揚者には、引揚船にたどり着く前に、
貧困、暴行、強姦、略奪、食糧難、伝染病など、
様々な悲惨な体験を乗り越えての帰国であったのだろう。
一人一人の引揚者には、語りつくせぬ悲惨な体験があった。

 岸壁に立つ「端野いせ」と同じように、帰らぬ父や夫や息子を待ち続けた、
多くの「端野いせ」がいたことを忘れてはいけない。
 そしてまた夢にまで見た祖国日本に帰ることができずに、
消えていったたくさんの人々がいたことを、
今も異国の土に眠る人々のいることを私たちは忘れてはいけない。

                               (終り)
               

(語り継ぐ戦争の証言№43)             (2025.03.07)


   

 

 

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「あゝ岸壁の母」④ 戦友の証言

2024-12-19 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」④ 戦友の証言
前回までのあらすじ
岸壁の母のモデルとなった端野いせは、生前2通の死亡通知を受け取った。
 厚生省からの通知(死亡認定理由書) 29年9月付け。
  『昭和20年8月15日未明……(ロシア軍との戦闘で)力尽きて
  「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した』
   東京都知事からの通知(死亡通知書) 昭和31年付け
  『昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたので
  お知らせします』 
 二通の通知を受け取った端野いせは、それでも新二の死を受け入れず、
昭和56年7月に81歳で亡くなるまで息子の生存を信じていた。
 新二の生存が明らかになったのは、平成12(2000)年8月だった。
いせの死亡から19年が過ぎていた。
 新二は日本に帰ってこなかった。

二人の戦友の証言

滝沢千秋氏の証言。
「端野(はしの)君は左足を負傷し、
半年以上中国人の農家の世話になっていた」。
 滝沢は28年7月に帰国するまで新二と6年以上一緒に仕事をしていた。
新二は朝鮮人の「李(り)」という看護師と恋愛していた、と当時を振り返る。

 もう一人の証言者の國定拳吾氏の証言。
「端野(はしの)君はソ連侵攻の始まった8月14日に後ろ弾(味方の誤認弾)に左足太ももを打たれ、一時陣地を無断で離れた」。

 証言者の話が微妙に食い違っているのも戦後のソ連侵攻の極限状態のなかでは仕方のないことと思われます。

 面談した慰霊墓参団の問に対して、新二は次のように答えている。
「母が舞鶴の岸壁で待っているということは人づてに聞いて知っていたが、
帰るに帰れなかった。
死んだことになっている自分が帰れば、
歌にまでなり有名になっている母のイメージをすべて壊すことになる。
いまさら帰れない」。
木で鼻を括るようなあまりにも味気ない、
感情のこもらない新二の言葉です。

 新二は、帰りを待ちわびる母のことをかなり以前から知っていたに違ないと思われる発言です。
岸壁で息子の名を叫ぶ母の姿をリアルタイムで知っていたのではないか。
新二の生存が明らかになったのは、
端野いせが亡くなった19年後のことだった。
 新二の発言の、
「死んだことになっている自分が帰れば……」という語感の響きから、
新二はかなり早い時期からリアルタイムで母のことを知っていた様子がうかがえます。
 このように推測した時、
誰が待ちわびる母の存在を新二に知らせたのかという疑問が浮かんでくる。
 それは、日本の関係者ではなく、
中国のある機関で動いている人物ではないか。
國定拳吾氏の証言に、
「一時、陣地を無断で離れた」という証言がある。
これは、戦線離脱であり、「脱走」行為とも解釈されかねない。
「一時」とあるが、怒涛のように押し寄せるソ連軍に追われて、
敗走する日本軍から離れて
左足太ももを撃たれた新二が自分の舞台に還ることなど不可能に近い。
 

 負傷による戦線離脱が新二が祖国に帰らなくなった原因のひとつになるのではないか。

 付記 証言者・滝沢千秋のこと(産経新聞取材班調べ)

 昭和20年8月15日、旧満州で行方不明となった新二は戦後、
一時シベリアに抑留され、同年9月10日頃再び旧満州に移送されたという。
 その後、21年9月に中国牡丹江省ジャムスで中国共産党軍の八路軍に従事。当時、朝鮮人と偽って八路軍の軍医をしていた長野県佐久市の滝沢千秋は、
その頃の新二をよく覚えていた。
 「端野君は左足を負傷しており、半年以上中国人農家の世話になっていた。(私は端野君を)レントゲン助手に誘い、(その後)農家の中国人が軍に推薦してくれた」
 滝沢は昭和28年7月に日本に帰国するまで、レントゲン助手の新二と6年以上一緒に仕事をしていた。この間、新二は朝鮮人の《李》という看護婦と恋愛していた。滝沢は「新二君はその後、李さんと結婚したのではないか」という。
  ()内は小島による補足

 証言のなかでは具体性があり、信憑性に富むと思われます。
 以来40年余り、新二がどんな経過をたどって上海市内に暮らすようになったのかはわからない。

 新二の言葉の裏側にある語ることのできない何かを感じるが、それが何なのかはわからない」。

 「帰りたくても帰れない」
未帰還兵端野(はしの)新二と、
舞鶴の引揚船の桟橋に立ち最後まで一人息子の生存を信じて生きた「岸壁の母」端野いせの物語は、
当時の日本の引揚桟橋のどこにでも起きる物語のひとつであった。

                            (つづく)
                                                                     次回は最終回「番外編」

(語り継ぐ戦争の証言№42)          (2024.12.18記)

 

 



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「あゝ岸壁の母」③生きていた息子

2024-11-21 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」③生きていた息子
前回までのあらすじ
 
〇 岸壁の母・端野いせ 
    いせは、戦地から戻らぬ一人息子の新二を桟橋で待ち続けた。
   東京から舞鶴までの距離は遠く経済的にも苦しく、
   体にも負担だったに違いない。
   いせが舞鶴引揚桟橋に出向いたのは、昭和25年1月だった。
    昭和29年3月20日にも端野いせの「新二を知りませんか」と、
   幾度も我が子の名を呼び岸壁に立ついせの姿があった。
   いせが書いたノートには「金があったらここに小屋を建てて待っていた
   い。…(略)…待つことのこの辛さ。
   この苦しみから早く逃れたい」と。

 〇 2通の死亡通知 
    昭和29年9月、
   一人息子新二の死亡の厚生省からの死亡認定理由書を受け取る。
   『昭和20年8月15日未明…(略)…突然のロシア軍の進行に応戦。
   力尽きて「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した』
    昭和31年には死亡通知書が、東京都知事の名で届いた。
   『昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたので
   お知らせします』と。
   しかし、いせは昭和56年7月に81歳で亡くなるまで、
   新二の生存を信じていた。

③生きていた息子

 (息子の生存を伝える記事)

 新二の生存が明らかになったのは、平成12(2000)年8月だった。
いせの死亡から19年が過ぎていた。
 生存を確認したのは、
シベリア強制抑留経験者らで結成した慰霊墓参団のメンバーだった。

 新二は、妻子とともに中国人名で暮らしていた。
中国政府発行の<端野新二>名の身分証明書を持っていた。
新二の口は終始重く、慰霊墓参団との記念写真も拒んだ。
 慰霊墓参団の代表は、「日本と中国に対して気兼ねをしていると感じた」と当時を振り返る。
 
 2000年(平成12)8月10日付の新聞記事(写真)のリード記事は
 次のように伝えている。
  「岸壁の母」が待ち続けた息子は、中国で生きていた。
  終戦後、引揚船が 着く京都・舞鶴港に通いつめ、
  演歌「岸壁の母」のモデルとなった故端野いせさんの一人息子、
  新二さん(七五)が上海で生存していたことを日本の慰霊墓参団が
  九日までに確認した。
   帰還を待ち続けた母の思いを知りながらも、
 「死んだことになっている自分が帰れば、
  有名になった母のイメージが壊れてしまう」と帰郷を断念した新二さん。
  日本中の涙を誘った。
  "岸壁の母伝説"が、
  逆に母子の再開を永遠に引き裂く皮肉な結果になった。
 記事は平凡な記者の思い込みで、「母のイメージ」壊れてしまうという極めて単純な理由で記事を締めくくっている。

 終戦から55年が経ち、
新二の母は19年前の1981年(昭和56)7月に他界している。
帰らぬ息子の生存を信じて亡くなった母・いせのことを思えば、
この記事が報道されたとき新二は75歳になっていた。
母への思いは人一倍強かったに違いない。
母と暮らした日本への望郷の思いがないわけはない。
 「岸壁の母」のイメージを損なうという理由で、
 帰郷をあきらめなければならないという新二の言葉には、
 信憑性がないように思われる。
 
「日本と中国に対して気兼ねをしていると感じた」と当時を振り返る慰霊墓参団の代表の言葉の裏に隠された真実があるのではないか。
                           (つづく)   

(語り継ぐ戦争の証言№41)         (2024.11.20記)

 

 

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「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った

2024-11-12 22:55:01 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った

前回の要点
  〇 歌謡曲「岸壁の母」 
     息子の帰還を舞鶴港で待ちわびる端野いせがモデル。
    昭和29年菊池章子が歌い、昭和47年には二葉百合子が歌い、
    いずれも大ヒットをした。
    特に後者の歌はセリフ入りで、300枚の大ヒットとなる。
    二葉百合子はモデルとなった端野いせにも何度もあって、
    その臨終にも立ち会った。
    戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待つ母の愛情が、
    戦後27年を経てなお、人々の感情を掻き立てたのでしょう。
  〇 京都府舞鶴港への引揚船  
     終戦直後の昭和20年10月7日、
    朝鮮釜山から陸軍・軍人を乗せた雲仙丸の入港を皮切りに、
    昭和33年9月サハリン(樺太)のホルムスク (真岡)から472人を乗せた白山丸の入港まで、
    13年間続いた。
     
その13年間で、66万2982人の引揚者と1万6269柱の遺骨が京都府舞鶴市平引揚桟橋
    に祖国への第一歩を記した。

  〇 舞鶴港桟橋の由緒書き 
    『幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩をしるした桟橋。
    桟橋の脇に佇み我が子、夫を待ち続けた多数の「岸壁の母・妻」。
    そして温かく迎えた往時の市民の姿。この史実を21世紀へと伝えるため、
    歴史の語り部として(この桟橋を)復元した』
とある。
      〇 岸壁の母のモデルになった【端野いせ】
    
引揚船が舞鶴港に着くたびに、いせは岸壁に立ち、
   帰らぬ息子・新二の名を呼び、桟橋に立ち続けた。

 

歌謡曲岸壁の母二番 (作詞 藤田まさと)
 呼んで下さい おがみます
 ああ おっ母さんよく来たと
 海山千里と言うけれど
 なんで遠かろ なんで遠かろ
 母と子に

  (セリフ)
  「あの子は今頃どうしているでしょう。
  雪と風のシベリアは寒かろう……
  つらかっただろうと命の限り抱きしめて……
  温めてやりたい……。」
                                                               (二葉百合子が歌う絶唱「岸壁の母」)

母の思いは届かなかった
  
(端野いせ)

 針仕事で生活を支えていた端野いせにとって、
住まいの東京から京都の舞鶴までの距離は遠く経済的にも苦しく、
体にも負担だったに違いない。
 それまで、東京大田区に住むいせは復員列車の着く品川駅に日参し、
復員者に新二の消息を尋ねたが、情報は入らない。
 焦燥感に背中を押されるようにして、
いせが舞鶴港に出向いたのは、
昭和25年1月だった。
 「新二は居ませんか。新二、新二」と引揚者の列に声をかけたが、
いせの声は、引揚者と迎えに来た大勢の人の雑踏の中に、
空しく消えていった。 
 昭和29年3月20日、端野(はしの)いせは再び桟橋に立ち涙ながらに「新二を知りませんか」と幾度も我が子の名を呼んだ。
敗戦から9年の時間が流れようとしているのに、
端野いせにはまだ戦争は終わっていなかった。
「新二よ、どこにいるのか。
生きてはおらぬのか。
『母さん』と呼んでもらえないのか」
と母はノートに記す。
「金があったらここに小屋を建てて待っていたい。
いま少し待つのだと自分の心に言い聞かせ、涙を拭いた」
「新二なぜこのように泣かせるのだ。
あきらめようと思うが命をかけて育てた子です。
生きていると信じるのです。
けれど待つことのこの辛さ。
この苦しみから早く逃れたい」。
 ノートに記された無念の言葉だった。

 同年9月。厚生省から新二の死亡認定理由書を受け取る。
《昭和20年8月15日未明、前方約300㍍の地点付近より突然ロ軍の射撃を受けたので、ただちに分散してこれに応戦したが数多いロ軍の一斉攻撃によって戦友は次々と倒れ、本人は最後まで抵抗していたが、ついに力尽きて「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した》。
理由書に添えられた戦友の証言である。

 また、31年9月には次のような新二の死亡通知書が東京都知事、
安井誠一郎の名でいせに届いた。
《昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたのでお知らせします》
 しかし、いせは昭和56年7月に81歳で亡くなる最期まで、
新二の生存を信じていた。
                         (つづく)
(語り継ぐ戦争の証言№40)                (2024.11.11記) 

 

 

 

 

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「あゝ岸壁の母」①岸壁に立つ私の姿が見えないのか 

2024-11-06 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」 ① 岸壁に立つ私の姿が見えないのか

母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

(セリフ)
「又引き揚げ船が帰って来たのに、今度もあの子は帰らない。
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……。
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……
帰れないなら大きな声で……。」
                                                  (作詞 藤田まさと)

 歌謡曲「岸壁の母」は、
息子の帰還を舞鶴港で待ち続ける端野(はしの)いせのことをモデルに、
昭和29年菊池章子が歌い、 
昭和47年には二葉百合子がセリフ入りで吹き込み
300万枚を売り上げる大ヒットとなった。
 戦後27年を経た昭和50年代でも、
戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待ちわびる母の愛情が
人々の感情を掻き立てたのでしょう。

 終戦直後の昭和20年10月7日、
朝鮮釜山から陸軍軍人2100人を乗せた雲仙丸が入港したのを皮切りに、
引揚事業は昭和33年9月7日、樺太(からふと)の真岡(ほるむすく)から邦人472人を乗せた白山丸の入港まで13年間続いた。
 終戦以来、主に旧満洲や朝鮮半島、シベリアからの
66万2982人の引揚げ者と1万6269柱(はしら)の遺骨が
祖国の京都府舞鶴市平(たいら)の舞鶴港の引揚桟橋に、帰ってきた。

 平成6年5月に復元された引揚桟橋は、四方を山に囲まれ入り江の奥にあり、
私が訪れたときも、穏やかな波が引き上げ当時の喧騒を忘れたように桟橋の橋桁を洗っていた。
幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩をしるした
桟橋。桟橋の脇に佇み我が子、夫を待ち続けた多数の「岸壁の母・妻」。そして、温かく迎えた往時の市民の姿。この史実を21世紀へと伝えるため、歴史の語り部として復元した』と桟橋の由緒書きにあります。
 
 (舞鶴港 平引揚桟橋)                                                       (帰らぬ夫を待つ母と子)
 この桟橋に立ち、
歌謡曲「異国の丘」を思い出すまでもなく、
多くの人が祖国の地を踏むことなく異国で死んでいった。

 一方引揚船が桟橋に着けば、帰らぬ息子新二の名を呼んで、
端野(はしの)いせは、戦地から戻らぬ一人息子を舞鶴港の桟橋で待ち続けた。
ナホトカ港から船が着くたびにいせの岸壁に立つ姿が、
人々の涙を誘った。

(語り継ぐ戦争の証言№39)

 
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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ⑤ 番外編・その後の酒巻和男 

2024-01-25 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ⑤ 番外編・その後の酒巻和男

 

捕虜になってから4年。
太平洋戦争で最終的に日本が敗れるまで、
酒巻はハワイを経てアメリカ本土に移され、6か所の捕虜収容所を転々としました。
この収容所の中で、
アメリカの民主主義や合理主義への理解も深め、
続々と収容されてくる捕虜たちのリーダー的存在となっていきます。
 
 
日本に帰ってから書いた「捕虜第一号」には、
収容所で死を望む記述がある。
 戦陣訓の中に『生きて虜囚の辱めを受けず』とあり、
捕虜になる事は最大の屈辱であると、教育を受けてきたからだ。
「撃ち殺してほしい」と米兵に懇願する。
しかし、願いがかなうはずもない。
また、顔写真をとられたとき、
彼は自分の顔にタバコの火を押し付け、人相を悪くした。
自分が生きていることが判明した時、別人になるための行為だったのだろう。
その写真は現存するが、顔面に押し付けられたタバコの火の火傷の跡がたくさん見られる。

自殺願望をもち、これが叶えられないと
やがて酒巻は、収容所を転々とするうち、
英語を習得し次第に捕虜のリーダーになっていく。
「何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言ひ得るのであろうか」と考え方を変える

帰国後の酒巻和男

4年間の米国での捕虜生活の後、1946(昭和21)年1月4日に無事帰国する。
翌1947(昭和22)年3月には「俘虜生活四 ケ年
の回顧」を出版。愛知県のトヨタ自動車工業に入社
続いて1949(昭和24)年11月には、「捕虜第一號」を出版する。
 戦後数年後の手記は、「なぜ死ななかった」「非国民、腹を切れ」などの誹謗中傷が絶えなかったという。
 
                   一千五厘の召集令状で、あるいは志願兵として、出征する人々に
                 日章旗に書かれた寄せ書きを贈り、のぼり旗で激励し、千人針を贈り、
                 万歳三唱で華々しく出征を見送った銃後の人々は、
                 手のひらを返したように帰還兵に冷淡なあつかいをした。
                 或る帰還兵は貝のように沈黙し、戦地での体験を忘れようと、
                 
心に封印をした。負傷兵として帰還した人のなかには、
                 傷痍軍人として白い服を着て、行きかう人々の冷たい視線にさらされな
                 がら、屈辱的な思いで、街角に立つ姿も珍しくなかった。
 敗戦を経て、人々の考え方は、一変した。
終戦、文字通り、敗戦ではなく終戦という言葉が多く使われていた、この時代に、捕虜の体験を発表する、しかも真珠湾攻撃による開戦のその日に、「捕虜第一号」という当時としては不名誉な体験記を発表した酒巻和男の勇気に驚きを覚える。
 
 昭和44(1969)年には、トヨタ・ド・ブラジル社長に就任し、トヨタの国際的発展に手腕を発揮したという。さらに、再帰国後は、関連会社豊田総建の社長や参与となり、トヨタでの職を終えた。
1999(平成11)年11月 死去 81歳
 
 
 (大東亜戦争九軍神慰霊碑・戦死した9人の慰霊碑・捕虜になった酒巻少尉は秘匿された)

 

戦後80年目の名誉回復
 
 2021年12月8日、愛媛県伊方町の三机湾に新しい石碑ができた、碑には旧日本海軍の若者10人の写真が埋め込まれている。10人を悼むため、有志がクラウドファンディングで費用を募って建立した。
                                  (朝日新聞2021年12月8日) 

                                         

     (史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑 10名の名前が刻まれている)

 実に、真珠湾攻撃から80年目の記念碑建立である。
紹介した酒巻和男の手記などによれば、1941年春から三机湾で約10カ月近くの訓練を仲間と共に小型潜水艦「特殊潜航艇」の極秘訓練に励んだ。全長24㍍の2人乗りで、2発の魚雷を積んでいた。攻撃後に母艦に戻るのは難しく、亊実上の特攻兵器だった。酒巻さんの艇は座礁し、同情の部下稲垣さんと脱出したが、海中ではぐれてしまう。酒巻さんは浜辺に流れ着き、米軍の捕虜となった。海軍は捕虜になっていることを把握していたが、攻撃に参加していたこと事体も隠ぺいし、「生死不明。機密の為口外をしないように」と家族に連絡、出撃前に10人で撮った写真から、酒巻少尉だけを削った。一方、戦死した9人は軍神としてたたえられ、戦意高揚のための自己犠牲の美談として、銃後の国民に流布された。
 戦後80年目にしてやっと酒巻和男の名誉回復がなされた。
                                                                  (おわり)
        (語り継ぐ戦争の証言№38)                    (2023.01.24記)

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ④ そして捕虜になった

2024-01-21 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ④そして捕虜になった

              前回まで。
                敵地まで近づいた酒巻和男少尉と稲垣清二等兵曹の乗艦した特殊潜航艇
                ジャイロコンパスが故障していたが、艦長に「いよいよ目的地(真珠湾の
                入り口近く)ジャイロがためになっているがどうするか」と問われ、決行
                することを艦長に伝えた。苦しい訓練の末にやっとたどり着いた命がけ
                 の実践だ。手記の中で酒巻は次のように記している。
                 『私は艦長の憂慮を吹き飛ばしたいと思いながら、力と熱を込め、「艦
                 長行きます」と答えた。艦長に注目しながら最後の敬礼をする艇付の稲
                 垣清二等兵曹の澄んだ目が、異様な閃光のように輝いて見えた』

 
 だが、ジャイロコンパスの壊れた潜航艇は迷走を続ける。
湾口があとどれくらいかともどかしそうに潜望鏡を除く酒巻。
しかし、酒巻の期待は微塵に砕かれてしまった。
酒巻の見たものは、恐ろしい方向誤差による海原にすぎなかった。
 艇は盲目航走の結果、湾口方向より90度近くも方向を変えて進んでいた。
 方向を確認する方策は、潜望鏡露頂走行だが、
敵陣近くでのこの走行は、敵に発見される確率も高く、許されない。
予測されたようにジャイロコンパスは機能不全のままだから、
再三再四方向を軌道修正し、でたらめな走行をせざるを得なかった。

 東の空が白み南十字星が消えるころ、静かに明ける真珠湾がはっきりと出現し、
偉大なる艦隊を守る二隻の哨戒艇を走るのを認めた。
朝日はすでに東の空に昇り、洋上には波がきれいな光を反射していた。
嵐の名残の為か、波は幾分高いが、攻撃には上々の日和である。

 監視艇が大きく目前に現れ、甲板を走るアメリカ水兵の白服がはっきり見えた。

その時、ドドドーン。
ものすごい爆発音と共に私の乗った潜航艇が大きく震え、異様な音響が何度も聞こえた。
あっと思う瞬間、私の体は宙に浮き、潜航艇の隔壁に叩きつけられた。
敵は爆雷を投射したのだ。
至近爆発の爆雷を数個受け、
頭を打った私はそのまましばらく何もわからなかった。
               
               

                  エピソード 吉村昭が体験した12月8日真珠湾攻撃の2日後
                   
兄がやがて中国大陸に出征しまして、一年半ぐらいたった時、
                  戦死の公報が来ました。戦死すると階級が一つ上がるのですが、
                  なぜか二階級特進になっていました。新聞に出ていた記事によると
                  敵前渡河といって、クリークを渡るのに、兄と上官とが決死隊にな
                  って向こう岸に渡って、軽機関銃を打っていたときに弾に当たって
                  戦死したそうです。
                   昭和十六年十二月八日は太平洋開戦の日ですが、その二日後に兄
                  の遺骨と遺品とが帰ってきました。白木の箱に入っている遺骨を見
                  ますと、骨の一部であるかのように小石がこびりついていて、野外
                  で遺体が焼かれたことを示していました。
                  遺品袋には、つるの代わりに黒いゴム紐のつけられた眼鏡、母が編
                  んで送った毛糸のパンツも入っていました。
                                 (吉村昭 随筆集 『白い道』より)


その後気絶から目を覚まし、上げた潜望鏡の映し出す光景に、酒巻の眼は引き付けられた。

 胸の鼓動は高まり、体中が熱してきた。
狭い視野の潜望鏡に、大きな真珠湾に黒煙が立ち上がっているのを確認した。
ものすごい黒鉛の塊はまっすぐに中天に舞い上がっているのが見えた。
しかし、運命の女神は、勝利の女神とはならず、特殊潜航艇は敵の投射する爆雷に追われ、
ついに一発の魚雷も発射することもなく座礁してしまう。
潜航艇は傷つき動かなくなった。
              

座礁した潜航艇の中で酒巻は考えた。

私は潜航艇を捨てて逃げ出してよいのであろうか。
艇と運命を共にする。
それが海軍軍人としての生き方ではないのか。
と思いながらも生を求める本能的な叫びが私を呼んでいる。
私は人間である。
人には血があり、肉があり、将来の命と仕事が待っている。
兵器はいくらでも作れ、いくらでも代用できる。
しかし、人間はそう簡単に代用できるものではない。
人間は兵器ではないのだ。
私は立派な軍人でなくもよい、人間の道を選ぼう、そして次の使命を待とう。
私は思いきって潜航艇の爆破装置を作動させ、艇を去ることにした。
海水は思ったより冷たく、波は見たより高かった。
私は泳ぎ始める。
疲れ切った身体は自由に動かない。
思わずガブリガブリと海水を飲み、私はもう泳げなくなり、ここで死んでしまうかもしれないと直感した。
しかし、死にたくない、死んではいけない、死んでなるものかと、
隣にいるはずの艇付き(潜航艇の操縦者・稲垣 清二等兵曹)が心配である。
最愛の艇付きを死なしてはならない。
夢中で、稲垣二等兵曹の名を呼んだ。
「艦長」という声が聞こえる。
「おい頑張れ、岸は近くだ」。
だが、稲垣二等兵曹の声を二度と聞くことはなかった。
私たちは引き離され、稲垣との連絡は、永遠に立たれてしまった。

 疲れきって泳げなくなってから、あるいは失神して磯波に打ち上げられていたのだろう。

気がつくと、背の高い米国兵がピストルを差し向けて立っていたのである。
私の片腕は米兵に掴まれ、
ほとんど同時に他の一方の腕がもう一人の米兵によって掴まれた。
酒巻和男少尉が太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃での捕虜第一号となった瞬間でした。
                                    (つづく)

 (語り継ぐ戦争の証言№36)       (2024.1.20記)

       参考資料:  
         真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 酒巻和男の手記
                    増補 復刻合本改定版
         NHK関連番組関連新聞記事 朝日新聞等

        

 

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ③ 機能しないジャイロコンパス

2024-01-13 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ③ 機能しないジャイロコンパス
                             前回は、五艇を乗せた特殊潜航艇の母艦が、ハワイ・オアフ島の海域近く
                         まで近づき、命を懸けた作戦を遂行する興奮と不安で緊張し、母艦の甲板
                         に仁王立ちする酒巻の姿を描いた。

       特殊潜航艇とは
             本題に入る前に、特殊潜航艇・甲標的について説明しておきます。
            甲標的は魚雷2本を艦首に装備し(前回の写真及び図を参照)、鉛蓄電池によって行動
            
する小型の潜航艇だ。
             乗員2名で、操縦士が座り、指揮官は立ったまま潜航する。開発当初は洋上襲撃
            を企図して設計されたが、後に潜水艦の甲板に搭載し、水中から発進して港湾・泊
            地内部に侵入し、敵艦船を攻撃する戦術に転換された。
             連合艦隊司令長官山本五十六に甲標的の作戦が具申されたとき、山本は奇襲案に
            は賛成だったが、甲標的作戦では、攻撃後の収容が困難なため、採用しなかった。
            しかし、改善策を作り、数回陳情し採用に至った経緯がある。
             甲標的の部隊は「特殊攻撃隊」と命名された。真珠湾奇襲攻撃には五艇の特殊潜
            航艇に計十名の隊員が乗り込んだ。結果的にみれば、真珠湾内に侵入できた艇は皆
            無で九名が戦死し、酒巻和男のみが、第二次大戦捕虜第一号として米軍に確保
            された。
酒巻和男の手記
  ジャイロコンパスが機能しない。しかし、いまさら……。
 
昭和16年12月、開戦前日の暁近いころである。
母艦の部屋に戻り、私は整備日誌に恐ろしい最後の記録を綴った。
それはいくら整備しても、ジャイロコンパスが動かないことである。
深い溜息が私の胸を圧迫し、そして大きく吐き出されると重々しい胸苦しさが取り残された。
ほとんど水上航走を許されない特殊潜航艇には、ジャイロコンパスこそ命の綱であり、
コンパス無しの出撃ということは、
常識では考えられないし、
出撃したところでそれは直ちに不成功と死を意味するからである。

 今日までの努力と挺身は、艇の完全装備であった。
しかるに、今となって故障を起こすとは、はたして整備努力の不足なのか、
決定的な運命のからくりのいたずらなのか、私はその判断に迷った。
私は固い強い拳で無心に机をたたいた。
「ジャイロが何だ、俺は魚雷を持っている。魚雷を命中させればいいではないか」。
そう独り決めして、私は憤然として立ち上がった。
    
    ジャイロコンパスが故障していることは、出港するときからわかっていたことで、
    上官から「酒巻少尉、いよいよ目的地に来た。ジャイロがダメになっているがどうするか」。
    上官の最後の念押しである。
    酒巻は『力と熱を込め「艦長、行きます」とこたえる』
    この時の酒巻の心の逡巡を酒巻は、
    苦しかった訓練や技術の取得や激励の見送りなどを振り返り、
    『いまさら攻撃中止なんて考えられない。大きい責任と使命が私を縛っていた』
    と手記に書いている。

 この後手記は出航の場面に移ります。
タンクのブロー音を残し、母艦はぶくっと浮上する。 
急いで潜航艇に乗り込む。シューブルブルッ。
タンクへの浸水音と共に私の乗った特殊潜航艇はすーっと波間に進水していった。

今や、日本の運命を決しようとする世紀の戦いは、あと数時間で始められようとしている。
特殊潜航艇のモーターが起動する。
母艦は速力を増していく。
太平洋のど真ん中に、粟粒ほどの特殊潜航艇が、
もんどり打って踊りだし、単独行動を始めたのである。
深度を浅くしながら湾の入り口があとどれ位かと大きな期待に手に汗して、
私はもどかしそうに潜望鏡の上がるのを待った。
しかし、私の期待は微塵に砕かれてしまった。
私の見たものは、恐ろしい方向誤差による海原だった。
潜航艇は盲目航走の結果、湾の出入口方向より、
九十度近くも方向を誤り先行していたのである。
使用不能のジャイロコンパスを積んで潜行する特殊潜航艇は、
目隠しをして道路を歩くようなものだ。
湾内に辿り着こうとする焦燥感に追われながら、
再三再四方向を変えて走行を続けた。
しかし、運命はあくまで執拗に私たちへ味方してくれなかった。
結局はでたらめな走行と、徒労に過ぎなかったのである。
東の空が白み南十字星が消えるころ、
静かに明ける真珠湾がはっきりと現れ、
偉大なる艦隊を守る哨戒艇が走るのを認めた。
私は湾の入り口に向かって盲目の突入潜行を続けた。
                     (つづく)
    参考資料 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 酒巻和男の手記
                    増補 復刻合本改定版
         NHK関連番組 関連新聞記事等

  (語り継ぐ戦争の証言№36)                            (2024.1.12記)


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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ②特殊潜航艇  

2023-12-24 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ②特殊潜航艇・甲標的

 航空母艦の艦載機による、奇襲攻撃は前述のように華々しい戦果を挙げた。
しかし、この手記の酒巻和男が乗った「特殊潜航艇・甲標的」のことはあまり知られていない。
簡単に言ってしまえば、甲標的は、二人乗り(甲型)の小さな潜水艇です。

 全長24㍍、全高3.4㍍、速力は19㌩(毎時35㌖)で、
航続力は最大速力で潜行した場合50分程度しか航行できませんでした。
魚雷2本を搭載しています。
作戦終了後に母艦により収容される計画となっていたが、
実際の収容は困難であり、生存率の低い兵器でした。
     

華々しい戦果の陰に隠れて、
たった5隻の潜航艇に10人の兵士が乗った2人乗りの「特殊潜航艇・甲標的」の戦果は皆無だったが、
当時は戦果についての発表はなかった。
戦死した9人は太平洋戦争最初の戦死者として華々しく報道され、
「9人の軍神」として、国民の戦意高揚に利用された。
  (真珠湾攻撃は1941(昭和16)年12月8日ですから、報道機関に発表されたのは、
  3カ月後の発表ということになります)  

 1942(昭和17)年3月7日付の東京日日新聞(現毎日新聞)朝刊を見てみよう。
『軍神 真珠湾強襲・特別攻撃隊の九将士』という活字が躍っいます。
また、「不滅の偉勲」「壮烈無比の攻撃」などの活字が躍っています。
戦死した九人の写真が掲載されているが、
捕虜となった酒巻和男さんについてはまったく触れられてなかった。
戦歴から抹殺されていたのです。
戦死した9人は軍神としてたたえられ、
1人だけ生き残り捕虜第一号となった酒巻和男の存在は秘匿された。

 さらに、大東亜戦争記録画報(前篇) 1943年6月20発行からの関連記事を見てみよう。
 九軍神特別攻撃隊の大戦果
  ハワイ真珠湾に潜行突撃したわが特別攻撃隊の精神は果たして至高至純にして神そのものの如く忠勇無比
 なるその義烈はまさに鬼神を哭かしむる、征ける九勇士はみな還らず、すべて真珠の玉と砕けたのである。
 激闘の瞬間身を死地に投ずるは安いが、このハワイ九軍神の如く数カ月前より一旦緩急ある場合を期し自ら
 死を着想し死を工作し死の訓練を重ねて静かに、尽忠報国の秋を待てるは千古に比を見ざる崇高なる精神で
 ある。
 「九軍神」の表現はあるが、
 5隻の潜航艇に10人の兵士が乗った2人乗りの「特殊潜航艇・甲標的」で出撃した特別攻撃隊なのに、
 「征ける九勇士はみな還らず」とすれば、
 「残る一人は生存しているのか」という素朴な疑問が国民のだれ一人も思い浮かばず、
 プロパガンダの戦果報道に酔いしれていた。
     
     捏造された写真には九人の軍神がハワイ・オアフ島を囲むように配置されている。
     酒巻和男の姿はない。 

 ハワイ沖まで潜水艦で運ばれた2人乗りの潜航艇5隻の一つに乗り込み、米軍艦を魚雷で攻撃するために湾内に向かった。しかし、酒巻和男が乗る潜航艇はジャイロコンパス(羅針儀)の故障で思うように航行できず、敵の攻撃を受けて座礁し、浜辺に打ち上げられ、米軍につかまった。

『真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号』の冒頭は次のように始まります。
 蒸し暑い特潜の中から母艦の甲板へ降り立った。冷え冷えとした夜気を含んだ南海の潮風が容赦なく私の顔を打ち付けてくる。
 憑かれたようにハワイの島影を求めた。薄暗い星明りの下に、ぼんやりと霞むオアフ島が現れて来る。その霞の奥からかすかに、昼間聞いたホノルル放送局の耳慣れないジャズ音楽が響いてくるようだ。言い知れない不気味さが、敵地に侵入した私を不思議な緊張感の中に追い込め、しばらくはただ茫然と仁王立ちしていた。
                                      (つづく)

  (語り継ぐ戦争の証言№35)        (2023.12.23記)

 

 

 

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ①太平洋戦争の始まり                

2023-12-17 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 ①太平洋戦争の始まり 
     真珠湾攻撃について
             開戦82年目の12月8日  あの日を振り返ってみよう。
           1941年12月8日(現地時間7日)、日本海軍の航空機約350機と、空母六隻とからな
          る
機動部隊が、ハワイ・真珠湾にある米軍基地を奇襲攻撃した。米国は艦船6隻が
          沈没するなどの損害を受け、約2400人が死亡。攻撃直前には日本陸軍もイギリス領
          マレー半島へ上陸し、太平洋戦争が始まった。ただ、米国への最後通牒が攻撃の一
          時間後に届けられたために、「宣戦布告なき戦争」として、後々まで批判された。
           この奇襲作戦には、二人乗りの特殊潜航艇五艇が参加していたことはあまり知ら
          れていない。
           五艇の特殊潜航艇のうち、作戦通り湾内に侵入できたのは二艇、できなかったの
          は二艇で、いずれも米軍の哨戒艇による爆撃で撃沈されている。ただ一艇、酒巻和
          男少尉の乗った特殊潜航艇は艇の故障や米軍の爆雷の攻撃によって、湾外の砂浜に漂
          着し
、この奇襲攻撃で、太平洋戦争捕虜第一号となった。操縦員の稲垣 清二等兵曹は
          行方不明になり、後に戦死したことが判明する。
           酒巻和男氏は戦後日本に戻り手記を発表。また、我が国の経済活動に活躍の場を求
          め、経済人としての功績
を残した人でもあった開戦の日に不幸にも捕虜第一号とな
          ってしまった酒巻和男氏の悔恨の青春と、その後の人生を、酒巻氏の手記を参考に紹
          介します。

太平洋戦争の始まり  

 1941(昭和16)年12月1日、午前会議において対米宣戦布告が決議され、

翌日(開戦7日前)機動部隊に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号文が打電されます。

日本時間12月8日午前1時30分、

機動部隊から第一波攻撃隊として183機、午前2時45分には第二波攻撃として171機が発進。

第一波攻撃隊から起動艦隊に向けて「トラ・トラ・トラ」の暗号文が打電された。

「ワレ奇襲ニ成功セリ」。

 日本側の空母6隻は無傷で帰艦。

損害は飛行機29機、戦死64名でした。

対する米国の損害戦艦4隻沈没、他4隻に大きな損傷を与えた。

戦死2345名。日本側の圧倒的勝利でした。

 太平洋戦争(大東亜戦争)のはじまりです。

ただ、日本国から米国への最後通牒が攻撃の一時間後に届けられたために、

奇襲攻撃と称されるように、

「宣戦布告なき戦争」として後々まで批判されることになった。
                      エピソード
                       開戦日の朝の記憶は鮮明に胸に残っている。
                      1941年12月8日、中学2年生だった作家の吉村昭は
                      学校に行く途中、軍艦マーチの猛々しい音と共に、
                      大本営発表を伝えるラジオのニュースを耳にした。
                      「町全体が沸き立っているような感じであった」。
                      開戦の2日後、中国で戦死していた兄の遺骨が贈ら
                      れてきた。
                       ハワイでの戦果に「狂喜」する近所の目を気にし
                      て、家族は雨戸を閉めた。母親は発狂せんばかりに
                      激しく泣いたという。(吉村昭『白い道』)
                               (朝日新聞2023.12.8 天声人語から引用)
 航空母艦の艦載機による、奇襲攻撃は前述のように華々しい戦果を挙げた。
しかし、この手記の酒巻和男が乗った「特殊潜航艇・甲標的」のことはあまり知られていない。
特殊潜航艇とはどのような潜航艇だったのでしょう。         

                                     (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№34)
参考文献 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号    酒巻和男の手記
           朝日新聞2023.12.08 太平洋戦争開戦82年他





 

 

 

 

 

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