雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

日航機墜落事故 37年目の夏 ③ 慰霊の園・慰霊の塔

2022-08-31 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

日航機墜落事故 37年目の夏 ③ 慰霊の園・慰霊の塔


慰霊の園 慰霊の塔
 

                                                     (図3)                  (図4)

 慰霊の園には次のような案内板があります。全文を掲載します。
   
昭和60年8月12日夕刻、日航機JA8119号機が上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、
  五二〇名の尊い命が昇天されました。
   本来ご遺族の元に帰り供養されるべきご遭難者の遺体の一部が行方不明処置となり、
  上野村に骨壺の姿で残されることになりました。
   上野村々民は事故処理のお手伝いを通して、事故の凄まじさ、ご遺族の悲しみを目の
  あたりにし、このような事故が二度と起こらないように願い五二〇の御霊を祀ることが
  上野村々民に課せられた責務であると考えるに至りました。
  上野村は険しい山々に囲まれ平坦な土地のほとんどない所ではありますが
  この趣旨に賛同した村民有志が土地を供出し慰霊の園を建設することができ
  御巣鷹の尾根に向かって合掌した形の慰霊塔が末永く聖霊をお守りすることとなりました。
   ここ慰霊の園にご参拝いただく皆様と共々、末永くお御霊をお慰めし、
  交通安全を祈ってまいりたいと存じます。
                                     合掌

        平成元年
          財団法人 慰霊の園

 
 
             (図4)        (図5)
慰霊の塔(図3)(図4)の真後ろには123の壺に納められた身元識別不能として、
この地で荼毘に付された犠牲者の遺骨が納められています(図5)。
当時はまだDNA型判定技術が難しかった時代です。
バラバラになった身体の部分なかなか特定することが難しく、
遺族が面接してはっきり確認できた遺体は520の犠牲者のうちの60体のみだったという。
もっとも破壊された遺体は身体の部位すらわからない分離遺体(骨肉片)であった。


墜落遺体がいかに悲惨であったかわかります。
 最終的に身元の確認されたのは518名だが、
分離遺体の納められた101の棺はその年の12月20日に荼毘に付され、
慰霊の園の納骨堂(図5)へ納められた。
5カ月にわたる検屍会場となった市民体育館は、
遺体の腐敗臭が消えず解体され、現在は公民館になっている。

 身元確認作業が終了した12月18日までの延べ127日間で、
出動した医師、歯科医、看護師は2891名に及ぶ。
身体に食い込んだブローチ、アクセサリー、歯形、手術痕などを頼りに
バラバラになった身体の一つ一つに身元確認の手がかりを発見していった
遺体確認にたずさわった人たちに敬意を表したい。

 群馬県上野村について
   航空機墜落事故の現場となった上野村。当時の人口は2122人634世帯の村全体の95%が山林の
  交通の不便な山峡の村だった。ちなみに37年経った現在の人口は1095人(令和4.8.1)。
  群馬県で一番人口の少ない村といわれている。裏を返せば、自然豊かで、ゆったり生きられる村で、
  移住支援やシングルマザー支援などにも力を入れていると言われています。
   村のホームページの『観光』のページを開いても、自然を謳う観光施設は出ているが、
  航空機墜落事故の現場であることには一切触れていない。
  これは、村の方針が「事故関連現場と施設は失われた御霊を慰霊する鎮魂の場」と
  位置付けるとしていることに由来する。
   だから、慰霊の園は国道から遠くない所にありながら、観光バスの乗り入れは禁止とされている。


 事故の責任はどうなったか
  1987(昭和62)年6月(事故から2年後)、
  運輸省航空事故調査委員会は事故の原因を、後部圧力隔壁の修理ミスと報告書をまとめた。
  捜査にあたった群馬県警は1988(昭和63)年、業務上過失致死の疑いで、
  日航とボーイングなどの関係者20人を書類送検した。
  しかし、前橋地検は1989(平成元)年、
  ボーイング社がミスを認めている(このことは拙ブログ「日航機墜落事故 37年目の夏 ①」でも触れた)
  にも関わらず全員を不起訴処分とした。

  

  1990(平成2)年8月12日、公訴時効が成立する。
  37年を迎える2022年にあっても、この事故は単独機の航空事故として犠牲者数が
  世界最多となっている。
                       (この項はBusiness Journalの兜森 衛氏の記事参照)                         
             (昨日の風 今日の風№135)    (2020.8.30記)

 

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日航機墜落事故 37年目の夏 ② 昇魂之碑

2022-08-27 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

日航機墜落事故 37年目の夏 ② 御巣鷹の尾根 昇魂之碑

    (図1)                  (図2)
   (図1) 昇魂之碑の前でシャボン玉を飛ばす遺族の皆さん。この碑の前は小さな広場になっているが
       ここは事故当時ヘリコプターの発着場所として開発されていた。
   (図2) 8月12日を前に毎年群馬県警の4月に入校した初任科生たちによって、
      昇魂之碑およびその周辺を清掃し、献花をしている。今年は12月8日に行なわれた。

     運命の時刻 1985年8月12日午後6時12分、
     日航123便は、東京・羽田空港から大阪・伊丹空港に向かって離陸した。
     
伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる直前の午後6時25分ごろ、
     「ドーン」という音とともに機体に異常事態が発生し、操縦不能になった。
     同56分、群馬県多野郡上野村山中に墜落した。
     
機内には、乗客509人と乗組員15人の計524人が搭乗していた。
     うち乳児12人を含む520人(乗客505人、乗組員15人)が死亡、
     乗客4人が重傷を負った。一家全員が亡くなったのは22世帯に上ると言われています。
     
日没を迎えたため墜落地点の特定に手間取り、
     場所がはっきり特定されたのは翌13日になってからだった。

      当時、メディアは墜落現場を「御巣鷹山」として報道したが、これは間違い。
     正確に言えば、墜落地点は群馬県・上野村高天原山の斜面(標高1565㍍)である(報告書による)。
     事故後、警察関係の報告書を作成するにあたって、正確な場所の名称を求められた当時の村長
     が、墜落地点を『御巣鷹の尾根』と命名した。
      
     事故直後は、登山口から沢づたいに2時間以上も歩かねばならなかったものの、
     地元、遺族らの努力で登山ルートの整備が行われ、
     現在では10台程度収容の駐車場が設置された登山口から、
     30分~40分程度、約180メートルの標高差を約1㌖登って、
     たどり着く事ができるようになった。
     真夏の暑い日、180㍍の標高差を上っていくのは多くのエネルギーを必要とする。
      事故から37年目の夏、遺族も歳をとり、子どもの代や孫の代になっている。
     コロナの影響もあり年々遺族の参加も減少している。

      昇魂之碑は、墜落現場にきずかれ、遺族にとっては個人を偲ぶ聖地として
     認知されている。
      一方この場所から『慰霊の園』までは、車で20㌖およそ1時間。520人の遺体は、
     損傷が激しく、検死総数は2065体におよびます。バラバラになった遺体の手や足や
     部位さえ判明しない肉片が一つの遺体として検死を待つ間2065体の遺体となったそうです。
     こうした遺体を『分離遺体』といいますが、最後まで誰の遺体か特定できないものが、
     101あり、これらは引き取り手のいない遺体として慰霊の園の納骨堂に埋葬されました。

      次回は「慰霊の里」・「慰霊の塔」について掲載します。

       (昨日の風 今日の風№134)         (2022.8.26)

 
 

   

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日航機墜落 ① 37年後の夏

2022-08-14 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

 

日航機墜落 ① 37年後の夏

1985年8月12日午後6時56分ごろ、
羽田発大阪行きの日航ジャンボ群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。
520人の尊い命が失われた。上空で圧力隔壁が壊れ、
機体尾部が吹き飛び操縦不能となる。
過去の修理ミスが原因と事故調査報告書には記載されている。

        事故発生の約1年4カ月前。製造元の米ボーイング社から、日本国内の駐在員を介し、
       日本航空の技術者に渡った英文のテレックス。事故機を含む同型機について、事故原因
       となった後部圧力隔壁を含む胴体部分の疲労度に懸念を示した上で、運航する日航に対
       し、機体を詳しくチェックする補足的な検査の「前倒し」を求めていた。
        運輸省航空事故調査委員会(当時)の事故調査報告書によると、日航は早期に補足検
       査をする計画を立てた。にもかかわらず、隔壁部分については実際に着手する前に事故
       が発生した、とされる。事故調は、その経緯や計画自体については問題視していない。
          (西日本新聞のスクープ記事から抜粋 2022.8.13記事)
       上記の米ボーイング社の文書は事故調にも一部引用されているが、西日本新聞は全文を
       入手した。

 あれから37回の暑い夏が巡ってきた。遺族も歳をとり、世代も代わった。
日航によると、全社員約1万4千人のうち事故当時在籍していた社員は284
人(今年3月末時点)。
約98%の社員が、事故を話でしか聞いたことがないことになる。
 裏を返せばたった2%の社員しか体験した社員がいないことに、ある種の危惧をいだき、
事故の教訓を風化させずに守り、伝える運営をお願いしたい。
遺族も高齢化が進み、墜落現場となった「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)への慰霊登山ができなくなった人も少なくない。
 
墜落現場のふもとを流れる神流(かんな)川に浮かぶ犠牲者追悼の灯籠(11日
)

 マスメディアも私たちも時の経過の中で、当時の鮮烈な想いは薄れ、
風化の波が少しずつ事故の悲劇を忘却の彼方へと押し流してしまうのは、
仕方のないことなのかもしれないが、
決して忘れてはならない尊い命の代償を強いられた250人の犠牲者の御霊を
せめて私たちは思いおこし、伝えていかなければならない。
飛行機墜落事故の再発が無いように……。

 8月12日の朝日新聞は、関連記事の中で次のようなエピソードを掘り起し、記事にしている。
   37年前小学3年生だった美谷島健君は、高校野球が大好きな少年だった。なかでも大阪の強豪
  PL学園にあこがれていた。
   1985年8月12日。甲子園でPL学園を応援するのを楽しみに、ジャンボ機に乗った。
  初めての一人旅。……その機体は墜落した。当時、9歳だった。この年のPL
学園は、
  桑田真澄さんと清原和博さんの「KKコンビ」を擁し、夏の甲子園で優勝。
  事情を知った同校から遺族のもとに選手のサイン色紙ゃ野球帽が届き、健君の棺に納められた。

   37年後の今、御巣鷹の尾根にある健君の墓標は好きだった「ドラえもん」のグッズや
  電車の模型などに加え、いまも、たくさんの野球ボールに囲まれている。


          250人の鎮魂の御霊の安からんことを願う。

  (昨日の風 今日の風№133)                      (2022.8.13記)

 

以下の記事は2年前の墜落事故35年目の夏に書いた記事です。
併せて読んでいただけれは幸甚の至りです。

読書案内「風にそよぐ墓標」
       父と息子の日航機墜落事故
 
             ブックデータ: 集英社2010年8月12日刊 第1刷 門田隆将 著

35年前の8月12日午後6時56分、羽田発伊丹行きの日本空港123便(ボーイング747ジャンボジェット機)が、群馬県上野村御巣鷹の尾根に墜落した。
 乗員乗客524人の内520人が犠牲となった。
 単独機としては、史上最大の事故だった。
 標高1500メートルの尾根筋の急斜面に、樹々をなぎ倒し、ボーイング747はほぼバラバラになり長い帯
 のように残骸をさらし、人の原型をとどめぬほど損壊の激しい遺体も事故現場を埋め尽くしていた。

  灼熱灼熱の太陽にさらさらた愛する者の肉体は、みるみる変質し、異臭を放って腐敗を始めた。日が
 経つにつれ、それは耐えがたきものになった。しかし、家族は、肉親を家に連れて帰るために、その中
 で気も狂わんばかりの身元確認作業をおこなった。

 「風にそよぐ墓標」冒頭に描写された、事故現場の状況であ。(この記事を書くにあたり、他のルポル
 タージュにも目を通してみたが、あまりにも悲惨な現場の状況を一切の感情を抑えて、燦燦たる状況を
 描写したものもあったが、ここではそれが目的ではないので、紹介を控えた)

  息子、娘、夫、妻、父親、母親……何の予兆もなく突然、愛するものを奪われた家族たちは、うろた
 え、動揺し、泣き叫び、茫然となった。(略)
 極限の哀しみの中に放り込まれた時、人はどんな行動に出て、どうその絶望を克服していくのか、また
 哀しみの「時」というのは、いつまでその針を刻み続けるのだろうか。

「はじめに」で述べた著者の言葉が、このルポルタージュの目的だ。
   今から25年前に、遺族に会い、書かれた本である。
   事故に遭い、それぞれの哀しみを背負った遺族たちが、重い口を開いて語り始めた。
   心の整理が進み、あの時の哀しみを語るには、25年という長い時間が必要だったのだろう。
   哀しみに沈み、成す術もなく暮らした最初の10年。
   次の10年は生活の立て直しと、生きる気力をを立て直すための10年。
   時が流れ、遺族たちの子供たちが成長し、子供を亡くした親は年を重ね、
   苦労の重みで白髪も増えてきた。
   何年たとうとも、「哀しみ」は浄化されることはないだろう。
   あるとすれば、時の流れの中で、鮮烈な記憶が少しずつ遠ざかっていくことだろう。

  「風にそよぐ墓標」は、ブックデーターにも示しましたが、今から10年前の2010年、
つまり、事故から25年目に書かれたノンフィクションです。
6人の遺族に焦点を当て、辛い25年を振りかえり、
その辛さを乗り越えていく「強さ」を描いていく著者の優しい思いがある。

 第一章「風にそよぐ墓標」
   舘寛敬(ひろゆき)さんが、御巣鷹山で父を亡くしたのは15歳の夏だった。
   あれから25年。40歳になり、結婚もした。
   だが、この25年間8月が近づいてくると、きまって悪夢にうなされる。
   あの日、御巣鷹の事故現場に向かうバスの中で、日航の職員に食ってかかった。
   「(パパを)返してください! 今すぐ!」
           夜になると、弁当が運び込まれてきたが、母は相変わらず食べようとしない。
   「食べんと死ぬぞ」15歳の少年・舘寛敬は母を諭すように告げる。
   「パパは食べてないやん。私もいらん」
   常軌を喪った母に15歳の少年は、無理に即席のうどんを食べさせた。

   現場に行きたい、現場に行ったら、あの人に会える……
   現実と夢や妄想の区別が、
   この時の須美子には、つかなくなっていたのかもしれないと著者は記録する。

   事故現場へつづく道は、森と藪を切り開いて作られていた。
   今でこそ、麓の駐車場から30~40分で到着できる道が整備されているが、
   上野村側のルートは閉鎖され、
   当時は自衛隊や地元の消防隊員が切り開いた岨道を行くしかなかった。

          歩いても歩いても先が見えない道。
     森や林を縫うようにして歩く。いったい、どれだけ歩けば事故現場にたどり
つけるのか。
     突然、道が開け、想像もしなかった景色が飛び込んできた。
     目の前に広がるお花畑。
     憔悴してぼろぼろになった母。
    「ああ、きれい…」「親父は(死ぬ)直前にこのきれいな景色が見れたんだ…」
          そう思うことで、一瞬哀しみで一杯になった心が癒された。

     もう引き返さなければ部分遺体の公開に間に合わない。
           「親父、行きたいけど、これ以上は行けない……」
   背負っていったリュックから紙を出し、須美子は次のように書いた。
   舘 征夫 昭和十七年九月十三日生
   ここはとってもお花のきれいな所です。
   やすらかにねむって下さい。
   もう苦しくありません
    それを、木の枝に差し込み、持って行った果物をその前に置いた。
    須美子はその「紙の墓標」に手を合わせ、
    寛敬は詩文の靴の靴ひもを抜き出し、紙の前に置いた。
    「親父、ここまでしか来れなかったよ。もう引き返さないといけない。ごめんね」
    四十歳になった寛敬は、この時のことをはっきり記憶しているという。

    母子が残したお花畑の「紙の墓標」は、ここを通りかかった新聞記者の手によって、
    八月十八日、読売新聞朝刊に報じられた。
    墜落現場に通じる三国峠近くの登山口から約一キロ歩いた急斜面のお花畑に十七日、
    犠牲者の家族らが供えた「紙の墓標」が建てられた。ヤマユリ、アザミ、リンドウなどに囲まれ 
    た、はがきほどの大きさの白い墓標は吹き渡る風に静かに揺れていた。
    記事は写真入りで紹介された。

    この後、親子にとっては、損傷が激しくぼろぼろに千切れた遺体の確認作業が待っていた。
    哀しく、辛い地獄を彷徨うような作業を、母に代わって十五歳の少年は果敢に挑むのだが、
    私の拙い表現力では、とても紹介できるものではない。
    墜落事故から25年を経た時間の経過が、その過酷な作業を母子は丁寧に語り、筆者はそれを
    感情を抑えて冷静に受け止め、淡々と文章にしている。

    この章の最後に筆者は次のように書いて章を閉じる。
    寛敬が、とてつもなく大きかった父という存在を客観的に捉えることができるまでには、四半世
    紀という気の遠くなるような歳月が必要だったのである。と。

    PS: 「風にそよぐ墓標」を紹介するにあたり、
      六章に分けられた家族の「父と子」の物語を全部紹介するつもりだったが、
      それは非常辛い作業だった。
      結局、表題にもなっている第一章「風にそよぐ墓標」のみの紹介になってしまった。
      このノンフィクションに流れているものは、
      「どんなに辛く、悲しい体験をしても、人間は時間の経過とともに立ち直っていく強い力を
      持っている」という著者の心なのかもしれない。
      この本の扉の裏に引用された明治の文豪・田山花袋の詞を引用して、
      このブログを閉じます。

      絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得らるるごとき勇者たれ
                    運命に従ふものを勇者といふ
                               田山花袋
     この本の内容にふさわしい含蓄のある詞である。
     日航機墜落35年目の夏、コロナ禍の影響や高齢で御巣鷹山登山に参加できなかった
     遺族も多いと聞きます。
     尾根は、1500メートルを超える急斜面にある。登山道の整備が進んだとはいえ、
     急な階段がいくつもあり、入口の駐車場から40分ほどかかる険しい道だ。
     35年の時の経過は、人々の記憶を少しずつ忘却の彼方へと押しやってしまう。
     私たちは、人知れず風にそよいでいた「紙の墓標」のことを、忘れてはいけない。
     お花畑を渡る高原の風が、今日も「紙の墓標」を人知れず揺らしているのでしょうか……

     全ての遺族の方々に奉げたい言葉である。

    (読書紹介№153)         (2020.08.17記)

 

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読書案内「顔」松本清張著

2022-08-07 06:30:00 | 読書案内

読書案内「顔」松本清張著

 (ブックデーター:新潮文庫初期ミステリー傑作集収録2022.8刊 「殺意」「反射」「市長死す」「張り込み」「声」「共犯者」「顔」「なぜ星図が開いていたか」を収録)
 清張ほど同一の小説が異なる出版社から刊行されている作家も少ない。
たとえば今回取り上げる「顔」は、わたしの蔵書の中に本書を含めて4冊ある。

 傑作短編集5「張り込み」収録(新潮文庫)      1957年刊 
 日本推理作家協会賞受賞作全集9「顔」 (双葉文庫) 1995年刊
    顔・白い闇 (角川文庫)               2003年刊
    初期ミステリー傑作集なぜ「星図」が開いていたか   2022年刊
                                                (新潮文庫) 松本清張歿後30年記念出版

  ミステリーの世界では、「清張以前と以後」という言葉に象徴されるように、
  清張以前は、本格ミステリーとしてトリックを重視するミステリーが主体であ
  った。
  清張は事件または出来事を、従来の探偵小説や推理小説の堅固な「密室」から、
  より広く複雑な「社会」へと連れ出した。
  従来の推理小説が謎解きを重視していたのに対し清張は殺人に至る動機を重視し、
  日常の中で生活する人々の生活を描くことに視点を置いた。
  「社会派推理小説」といわれるゆえんだ。

  一見穏やかな日常から時折立ち上がる『なぜだろう、なぜだろう』という疑問を入
  口に、人と社会と国家の暗く危うい秘密と、それを隠蔽する様々な力を少しずつ暴
  露し、告発し続けた。(文芸評論家・高橋敏夫)

  「点と線」「眼の壁」「ゼロの焦点」「黒い画集」「霧の旗」「球形の荒野」「砂の器」など、私は
  リアルタイムで清張作品を読み漁り、そして、今でも時々読み返してみる。
  蛇足ですが、新婚旅行は金沢・能登半島を選びました。
  「ゼロの焦点」の舞台となった地を巡る旅をした、少し変わった新婚旅行でした。

「顔」
  成功と名声への階段は、同時に破滅へと彼を導く階段だった。
  この相反するテーマが面白く、多くの読者や映画人に好まれたのだろう。
  日常のチョットしたしぐさが、伏線となって思わぬ破滅を招くことになる。

        ある劇団員に、映画会社からオファーがきた。
   映画に出演し、名前が売れれば俳優への道が開け、確かな地位を気付くことができる。
   何度目かのオファーを経験するうちに、彼の隠れた魅力は、監督によって引き出され、
   彼はスターへの階段を上りはじめる。
   だが、名前が売れるにつれて、彼は不安と破滅への恐れを味わうことになる。
   いったい彼が抱えている「不安と破滅」の原因は何なのだろう。
   彼の日記にはその心境を次のように書かれていた。

   ぼくは幸運と破滅に近づいているようだ。
   ぼくの場合は、たいへんな仕合せが、絶望の上に揺れている。
   ……小さな疵から化膿して病菌が侵攻するように、ぼくを苦しめた。

   ぼくの幸運が、あんな下らぬ女を殺したことで滅茶苦茶になることへの恐れが、
   俳優として「顔」が売れれば、人気のバロメーターが上がると同時に、
   破滅へのバロメーターも上がってくることに、
   彼はたった一人の目撃者を消してしまおうと、ある行動に出る。
   忌まわしい愛人殺しの過去を消すための行動が、
   彼を奈落の底に落としてしまう陥穽(かんせい)になろうとは……

   破滅への扉は、不幸にも彼の主演した映画に現れていた。
   
   映画は彼の顔をスクリーン一杯に大写しにする。
     窓をじっと見ている彼の横顔。
     煙草の煙がうすく舞って、彼の眼に滲みる。
     彼は眼を細めて眉根に皺を寄せる。
     その表情。顔!
   彼が最も得意とする「顔」の表情。
   この映画の観客の中に、9年前に目撃者となった男がいた。
   男に9年前の記憶がよみがえってきた。

      「名声と破滅」の対比が面白く、主人公の心の焦りをよく表現している。
      また、潜在光景など、過去に見た景色が既視感の中からよみがえる過程が、
      事件解決の糸口になることなど、当時としては斬新なキーワードとして
      用いられている。
      
   
(読書案内№185)      (2022.8.6記)

   

 

 

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