映画でも宗教でも、人類始まって以来のテーマ。
「愛と罪」
キリスト教では七つの大罪を設定しつつ、懺悔室(ゆるしの秘跡)を設けています。
厳しいルールを設定すると、どうしてもそのルールを守りきれずに、罪の意識を背負う。
贖罪を行う場所がないと自分を責めすぎてしまう。
今ではカウンセリングという手法もあるし、贖罪手法もいくつもありますが。
七つの大罪と言いつつ、基本は人間の根源的欲求とも重なるので、守り切ることそのものが難しい。
常に罪を犯しながら生きることになり、息苦しいことこの上ない。
自ら罪を認め許される儀式が懺悔。
うまいことバランスをとっていますよ。
性悪説と性善説という人の見方があって、それは解釈が状況に応じて変わるので、どっちが正しいというのは無いのです。
勉強不足で怠けた結果、事態が最悪の方向に向かうこともある。
事態が最悪な方向に向かわないと、怠けずに頑張る本当の意味がわからなかったり。
今、夏休みの宿題に頭を悩ませる子供も多いと思うけれど。
やるか、やらないかの選択は結局は自分自身にある。
やらない理由があればそれを貫き通すのも人生だと思うのですよ。
ただそれにはそれなりの困難もあるわけで。
すべての大人はアダルトチルドレンだと思う。
全ての困難や苦痛を乗り越えて大人になっているわけではないからね。
世の中の苦痛すべてを味わうには、社会は平和すぎるとも思うし、世の中が理想化されすぎて目の前に起きている困難が見えにくいというのもある。
かと言って戦争を味わうというのも極論で。
それでなくても自然災害や人為的災害は起こり続けるものなので。
最低限のルールはどこにでも転がっている当たり前の言葉。
人が人らしく生きられること。
「基本的人権の尊重」とか言ったりします。
まずは生きることが前提。
その上で、「文化的で健康に」生きる。
環境要因もあるけれど、自分自身で相当努力しないと、文化的で健康には生きられない。
あまりにも基本的すぎるので、つい忘れてしまう価値基準だと思うんです。
文化も健康も常に変化するし。
それでも基本は重要で、基本原理原則を守っていれば8〜9割はうまく行く。
残りが未開拓領域なので、そこは試行錯誤領域。
基本原理原則は、人類が培ってきた文化で理解できる。
それがあるにもかかわらず、目の前の運勢や占い的な因果関係があやふやなものに意思決定を求めるというのも人。
コツコツやっていくしかないんですけれど、一発逆転を欲しがったり。
野球の一発逆転は、きちんと練習してレギュラーに入ってないと、そもそも実行不可能なんですが。
人社会にはそういう矛盾がいっぱいあるので、「愛と罪」という概念そのものはなくならないのだろうと。
「愛があるから何でも許される」訳ではない点は抑えておきたいところ。