ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

時間は有限

2018-05-29 22:29:27 | Assist
一日自分の好きなように自分を使えるわけです。

本来的には。

それでも時間は限られているし、身体も一つ。

コンピュータに何個もウィンドウを立ち上げても生産性は落ちるだけなので、5ウィンドウぐらいまでに抑えておきます。

データは引っ張ってきたいけれど、処理できるのは1タスクだけです。

マルチタスクでは質も処理速度も上がらないので。

同じような処理は一気に片付けるなどといったタスク分散はしますけれど。


結局のところ情報が足りなければ、それ以上の検討はできないし、作業は頭打ちになります。

大抵のことはネット検索でわかるけれども、本当に信用のおけるデータは公文書を検索しないとわからない。


本日わかったことは、少なくとも2010年には高齢社会から超高齢社会となっていたということ。

言葉の定義
高齢化社会:全人口に対する65歳以上が7%以上
高齢社会:全人口に対する65歳以上が14%以上
超高齢社会:全人口に対する65歳以上が21%以上


小さな子供に、
「夢と希望を持って生きろ!」
と言っても、お年寄りが、
「もう生きたくないよね」
と言っていたら全く説得力がない。

それは労働を支える私達にも言えることで。

みんないづれはお年寄りになるんですよ?

介護現場の人は知っている常識を、実データでまとめたら、そんな事実が浮かび上がってきたわけです。

これを悲観的未来と見るか、大きな需要が生まれると見るかは、人それぞれですが。

足りない時間は健康寿命を伸ばすことで確保できるともいえるわけです。
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親と子

2018-05-14 07:20:55 | Assist
昨日は母の日でした。

それを祝うことはいいことだと思います。

ただ、究極的な思考としては、父親である、母親である、あるいは子供であるという役割さえもなくていいんじゃないかと思うのです。

日本国憲法第11条には「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とあり、これによって福祉も存在しています。

出産が女性特有の生物的役割とはいえ、生まれた子供を女性だけが面倒を見続ける必要はないと思うのです。

これは別に育児放棄を推奨するものではありません。

かつてより子供は、親だけではなく地域社会が育てる共同の財産だったのです。

困ったことに現代社会が、隣人が誰だかわからない環境になりつつあり、地域に育児を任せられない状況になっています。

そうでない環境もあるのでしょうが。

結局、保育園や幼稚園、学校などといった教育システムがその役割を負うところになっていますが、その分保育士や教師への作業負荷が増大してしまい、人手不足や残業の増大といった労働環境の劣悪化を招く事態となります。

基本的人権どころではない労働環境になってしまっているのです。


当たり前のように、「親は子供を育てるべき」という概念があると思います。

しかし本来地域が子供の成育を担っていた社会においては、「放っておいても子供が育つ」は成立していたのです。

「親は子を育てるべき」という固定概念のみが残ってしまい、教育機関や育児施設に預けることだけが親の責務となってしまい、そこで行われる教育に過度に口出しする立場が成立してしまったのではないでしょうか。

「モンスターペアレンツ」と呼ばれるものです。


もうね、「親は子を育てなくてはいけない」という概念そのものを手放していいと思うんです。

育児放棄を積極的にしなさいということではなく。

子供は子供でちゃんと考えて育つんです。

親の価値観や思考の範疇では捉えきれないぐらい。

全く違う経験やモノの見方をしながら育つ。

だから多少の規格外行動は放っておけばいいんです。

間違えないと気づけないこともいっぱいあるのだから。


それは今確実に到来している高齢化社会、及びこれから来る高齢社会にも言えることです。

子供が親の面倒をすべて見る必要はない。

認知症になるとかなりのことを忘れてしまいます。

親だから一生懸命介護しているのに、ある日、
「あなた誰?」
と言われた日には、それはやってられなくなります。

そのために介護福祉サービスが構築されていますが、親に対して殺意を抱いたりするよりは、何日かでも介護福祉施設に預けて休むという、自分自身のケアも重要だと思います。

「レスパイトケア」と言って、家族が介護を休むのも重要な位置づけとされています。

「親だから子供に」〜「しなきゃいけない」
「子だから親に」〜「しなきゃいけない」
と思い込んだり、または周りからそう言われたりして当然だと思っているかもしれませんが、基本的人権の尊重はそれによって招かれる破局的状況を良しとしません。

「人として」を主語に考えて、身近な公的機関なら、地域の社会福祉協議会を活用するとか、公共の福祉に問題を預けてもいいと思います。


親は親になりきれないし、子は子になりきれない。
そう演じることはできても。

それでも子は親を信じる。

自分の信念を曲げずに生きるのが、遠回りで近道だろうとは思います。
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想像しうる未来

2018-04-25 09:29:33 | Assist
少し外出すれば、様々な介護関連施設やその送迎車を見かけます。

介護関連の資格教育を受けたためでもありますが。

介護職員はそれこそ売り手市場と言われるぐらい、需要があります。

売り手市場サービスは、供給より需要のほうが多いので、サービスの質よりもどれだけ多く供給できるかでビジネスとしては成り立ってしまいます。

多くの事業が参入する背景には、このような事情もあるでしょう。


とはいえ近い未来には「量より質」へと転換していくと考えられます。

今現在の65歳を超える高齢者がモバイル端末を持つことはあまり想定できませんが、現役世代では当たり前にスマホを持ち、SNSやラインによる情報共有を行っています。

近い将来、利用者が福祉施設の情報を共有する時代が来るでしょう。

旅館やホテルのランキングをつけるサイトのような、ランキングサイトも登場するでしょう。

作りましょうか?

そうなれば当然、質を重視した福祉施設選びが加速するはずです。

その先には福祉施設及び職員の淘汰も起こるでしょう。


そのような出来事は、日本においても製造業が経験している、産業淘汰の歴史と同様でもあります。


大事なことは、「どのようなサービスを提供するか?」という企業の理念であり、サービスにより社会にもたらす利益が何かを追求することだと個人的には考えています。
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ケアクラーク

2018-03-27 00:01:50 | Assist
介護事務資格試験(ケアクラーク)合格通知が届きました。

二三回受けて、微修正しながら合格すればいいやと思っていたので、一回で合格というのはちょっと拍子抜けです。

タダで受験できるわけではないので、お得ではありますが。


それはそれとして、他に知識を詰め込んでおく必要のある案件が数多くあるので、その扱いをどうするかが課題です。

居宅介護の場合、自分に合った福祉用品、例えばサイズのあった車いすを使うことができるけど、施設では予算の都合上、大きめの車いすを導入して、クッションなどで調整する事が多い。

一生涯自宅で暮らすことができればいいのですが、家をどう維持するかという課題もあり、なかなか難しい。


300歳生きるという目標に対して、解決しなければならない課題が山ほどあるということだけはわかったので、どうやって解決するかという具体的手段を考える時期かなと。

少なくとも現行法制度では相当難しいし、個人の貯蓄資産で解決できる問題でもない。

サービス付高齢者向け住宅は破綻しているし、少子化にも歯止めはかからない。


金をかけても夢は買えないという事実に気付かないといけないのだけど。

それに気づくには、危機感がないのだとも思う。

うーむ。
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基本の基本

2018-03-04 22:26:43 | Assist
4ヶ月介護の勉強をしていて、常に考えていたことがある。


お年寄りが笑えない世の中で、子供に夢と希望を持てと言えるか?

現役世代に子供を産んで育てろと言えるか?


全ては連続しているのですよ。

先々の見通しが真っ暗なのに、今だけ面白おかしく生きろと言ったって無理がある。

「これだから長生きするもんだねぇ」
ガッハッハと笑って死ねるなら本望だよねえ。

今の日本の現実はそうではない。

認知症を患い、
「ごめんなさい。頭おかしくて」
と卑屈になるお年寄りが標準です。


そんなクソつまらん社会を、政治なんかに頼らずに、技術で解決しようというのが、私の魂胆なわけで。


前に書いたように、子供だって欲しいものを得るために、泣き叫ぶだけでは仕方ないと気づく。

何かに努力した成果を見せて欲しいものを得るとか、じいさんばあさんにおねだりして欲しいものを得るとか考える。

65歳を超えた、それこそ百戦錬磨の人間が全く戦略なしに行動するとは思えないわけですよ。

認知症だからって、気に入らない人を困らせる方法は心得ているわけです。

同じように、気に入った相手を引き込む方法も心得ていることは推測できる。


こちらがコソコソ話した言葉ぐらいわかっている。

いつか一発逆転をするために気づいているけれど気づかないふりをする。


私だってそのくらいの駆け引きはする。
眠たい顔をしていたとしても。


私自身は常にヒエラルキーの逆転を考えているし、一般的に言われるヒエラルキーには疑問を感じている。

例えば社長と現場職。

肩書は社長が上になるが、現場でしっかりとした働きをしてくれる職員がいてこそ会社は成り立つ。

一度現場が職場放棄したり不正が明るみになれば、会社の信用は崩れる。

つまり社長と現場職に業務の違いはあっても、人間的優劣はない。
相互補完関係になる。


私が事業を始めるにあたって、現状では人を雇い入れる気はない。

大局を見て現状にあたる、広範な知識技術センスモラル全てが必要になるのだけど、それにふさわしい人材はそう簡単にはいない。

それに金儲けが目的ではなく、社会レベルの向上(GDPを数%上げるとかいう)や、社会のパラダイムシフト(社会底辺の向上といったほうがいい相手もいる)が目的なので。

相対的な金持ちより、そちらのほうが面白いと思うのですが?

この辺、理解できる方が少ないんですよ。残念なことに。
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