落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第114話 四万温泉へ

2015-02-15 12:45:29 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
第110話につづく

おちょぼ 第114話 四万温泉へ




 「父さん。大作を借りるわよ。そのかわり、今日は私が手伝います」


 突然姿を見せた陽子に、父の徳治が驚きの表情を見せる。
時刻はまだ、朝の7時を過ぎたばかりだ。
手が荒れるという理由で美容師の陽子は、採れたての野菜に触れたがらない。
野菜の水分に含まれている大量の灰汁が、指先を黒く荒らすからだ。
いったいどういう風の吹き回しだと、徳治が目を丸くして陽子を見つめる。


 「あっ、お母さん。あたしったら、車の中に忘れ物をしてきちゃった。
 悪いけど、取ってきてくれるかしら?
 今日に限って、街道の入り口のほうに停めてあるんだけど」



 ああ、いいよと、ためらいも見せず母の育代が立ち上がる。
車の中に佳つ乃(かつの)とサラが乗っていることを知らない母は、頭から
姉さん被りを外しパタパタとズボンの埃を叩きながら、街道を
ゆっくりと歩いて行く。


 「大作も、部屋に戻って着替えてきて。
 行く先は、四万温泉よ。
 大事な友人だから、くれぐれも粗相のないように送って頂戴な」



 「四万温泉?・・・ずいぶん辺鄙な場所だなぁ。
 吾妻(あがつま)の山奥に有る、湯治専門のひなびた温泉じゃねえか。
 群馬といえば、定番は草津か伊香保、水上温泉あたりだろう。
 わざわざ鄙びた温泉地を指名するとは、変った客だ。
 それよりも姉ちゃん。朝採りの野菜なんかに素手で触ったら、
 自慢の白い指が野菜の灰汁(あく)で、真っ黒けに荒れちまうぜ。」


 「馬鹿。私の指先よりも、もっと大切なものも有るのよ、この世には。
 いいから 行けば分かります。さっさと支度して来てちょうだい。
 いつまでも待たせると、待っているお客さまに失礼です」


 陽子に促されて、渋々と似顔絵師が立ち上がる。
「いきなり来て、四万温泉までお客さんを送れと言うのは意味が分からねぇ・・・
なにが有るっていうんだ、吾妻(あがつま)の鄙びた四万温泉に?」
「いいから、行けばわかることです。あとできっと、あんたはわたしに
心の底から感謝することになるでしょう。
うふふ。そういうわけですから、早く支度をしてきてちょうだいな」
チェッ、いつだって強引なんだから姉ちゃんは、とぶつぶつ言いながら、
似顔絵師が、作業場から立ち去っていく。


 「なんだか朝から、ずいぶん機嫌が良さそうだな、今日のお前は。
 どうした。夕べ、何かいいことでも有ったのか?」


 「うん。最高の一夜を過ごしたわ。
 私だけじゃありません。父さんにもきっといいことが、そのうち起こります。
 でもね、今はそれ以上のことは言えないわ。
 毎年のことだけど、今年も多いわねぇ、親戚へ送る野菜の数が」



 「そういうな。一年にたった一度だけ、俺が本家の役目を果たすんだ。
 今年も一年。無事に終わりましたと言う気持ちを込めて、親戚中に野菜を送る。
 こうして野菜を送り出すと俺の長い一年が、ようやく終わることになる」

 「うふふ。良く言うわ。
 例年なら、野菜を送り出したあと、さっさと鉄砲を担いで山へ飛んでいくのに、
 今年は行けないなんて残念ですねぇ。
 でも仕方がないですねぇ、病み上がりの療養中の身体では」


 「大作も戻って来たし、今年は久しぶりに炬燵で水入らずの正月を過ごすさ。
 お前も来るんだろう、孫の真理を連れて」


 「どうしょうかな・・・
 いまさら実家へ戻ってきて、家族と3が日を過ごすのも芸がないけどなぁ。
 かといって、私を誘ってくれる男も結局、今年も出来なかったし・・・」


 「なんだ、出来なかったのか、あたらしい男は?。
 ということは、車に乗っている友達と言うのは、男じゃなくて女の友達なのか?、」



 「うふふ。それ以上は、ノーコメントです!」今は白状できませんと陽子が立ち上がる。
とりあえずお客様を見送って来ますと、陽子が作業場を後にしていく。


 「可笑しいなぁ・・・俺に何かを隠しているだろう、お前たちは。
 女どもときたら何を考えているんだか、油断が出来んからなぁ。
 まったくもって秘密が多すぎる。
 今度は何だ。何を隠しているんだ、この俺に」


 「良い感していますねぇ、お父さん。そうよ。
 女は、とかく秘密が多いのよ。
 でもね。悪いことばかりじゃありません、たまには良い秘密も有ります。
 今は明かせませんが、明日か明後日か、そう遠くない先にたぶん、
 きっと良いことが起こると思います、お父さんにも」

 ホントか、と渋い顔を見せて、父の徳治がふたたび野菜の選別作業に戻っていく。


 

第115話につづく

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