懸案だった父親の行先も決まり、「出る!」と言わせないために、せっせと通って、お菓子や飲み物を持っていく。あれない、これないとは言わせない。24時間面倒見てくれて、三食出て、冬は暖かく、夏は涼しく過ごせるなんていいじゃないか。面倒見てくれてる方たちも勝手知ったるもので、親父をアゲるアゲる。かつて高校の教師をしていたもんだから、「先生!先生!」と呼ばれて悦に入ってる。当初は部屋にも自由に入ることができたのだが、またぞろ世の中はコロナが流行ったり、下火になったりと忙しい。施設にも入れたり、入れなかったり。それでもとにかく心安いというのはこういうことだと痛感した。
いろんなことが落ち着いたと思った2021年の1月、働いてるところへばあさんの携帯から電話がかかってきた。そういや病院に行くとか何とか言ってたような。かかりつけの医者に行って血液検査をしたところ、異常があるのででっかい病院に行ったほうがいいといわれたようだ。その結果、もっと詳しく検査をしないとならないから、入院しなさいと。でも自分は絶対にしたくない。入院するくらいなら死んだほうがいい。家にぼけたじいさん(自分の配偶者)がいるから、自分は絶対に入院なんかできないと言い張り、看護師を困らせてると。そこで家の人に電話して事情を話してどうすべきかまず聞いてみっぺ、ということで私に来た。ぼけた、ぼけた、言い張るが、私らから見たらさっぱりぼけてなんぞいない。そりゃ年相応ではあるが、あなたよりはよっぽど話が通じる。そんなわけわかんないことで、病院を困らせたりはしないはず。
とにかくじいさんのことが心配なら、まず自分の体をきちんと診てもらって、ちゃんと治してもらうのが先決じゃないか、じいさんのことは心配しなくていいから、ちゃんと診てもらえ、とどうにか電話口で説得する。それでもぐちゃぐちゃ言い張る。たぶん自分でも入院しなきゃなんないのはわかっているが、自分に自信があって、どこかでそんなことをしなきゃならない状況にあらがっていたいという気持ちだったように思う。諦めがついたようで、入院することになった。1週間ほどいて、いろんな可能性を言われたのがまず内科。遠まわしで様々な可能性をねちねちと説明。胆嚢が詰まって胆汁がうまく出なくて肝機能に障害が出て、肝臓の値が妙なことになっていると。その可能性として何かが詰まっている、炎症起こしている、あと何言われたっけ?あんまり言われて忘れた。そして最後の最後にがんの可能性もあります、と。それも要領を得ない説明で、もにゃもにゃ。あーーイライラする。(怒っちゃいけない)
入院して様々な検査をした結果、今度は外科に行く。外科の先生、開口一番「がんです!」いやーーはっきり、すっきり。「このままでは1年で死にます。手術しますか?どうしますか?」って。いきなりの究極の選択を突き付けられたばあさん。それは悩むわ。一世一代の決意をしたばあさんは手術を選択。手術をしたから完治というわけではなく、もちろん転移や切った後のリスクその他もありますよと。がんは1か所だけど、そこを中心に消化器系のいろんな臓器を切除して、腹の中を新しく構築するみたいな超面倒くさい手術らしい。医者は自信満々に「この手術は6時間くらいかかるんですが、私は4時間で終わらせますよ」と。いろんなところを切ると聞いたばあさんは、自分のがんはいろんなところにあると刷り込んでしまった。思い込みの強い人で、一度頭に刷り込むと、もうダメ。いくらそれが違うと言っても受け入れない。「あなたの病気はこの部分にあるがんで、そのせいで回りのここを切るんだよ」と言って、そん時は「んだが」といっても、少し経つと、「あちこちさがんあるんだど」となってしまう。ボイスチェンジャーついてんだよな。この性質でどんだけ苦労し、どんだけ間違いがあったか。ここで思い出すのはやめる。
2月になって入院、手術となり、80才にしちゃ褒められるくらいに頑張ったと思う。回復も早く、ここにも不滅の人がいた。痛い、痛いと言いつつも、とにかく前向きにご飯を食べて頑張らんなね、と。見舞いを持ってきてくれた人には「おれ(彼女は自分のことをこういう)、病気んね(じゃない)!」と見舞いを突き返すということまでしちゃう。それはさすがに相手に対して失礼じゃないかと思うけど、彼女の辞書に素直とか、謙虚という文字はない。さすがに本調子とは言わないが、ちょこちょこ畑仕事をしたり、じいさんと壮絶なケンカを相変わらずしている。
いろんなことが落ち着いたと思った2021年の1月、働いてるところへばあさんの携帯から電話がかかってきた。そういや病院に行くとか何とか言ってたような。かかりつけの医者に行って血液検査をしたところ、異常があるのででっかい病院に行ったほうがいいといわれたようだ。その結果、もっと詳しく検査をしないとならないから、入院しなさいと。でも自分は絶対にしたくない。入院するくらいなら死んだほうがいい。家にぼけたじいさん(自分の配偶者)がいるから、自分は絶対に入院なんかできないと言い張り、看護師を困らせてると。そこで家の人に電話して事情を話してどうすべきかまず聞いてみっぺ、ということで私に来た。ぼけた、ぼけた、言い張るが、私らから見たらさっぱりぼけてなんぞいない。そりゃ年相応ではあるが、あなたよりはよっぽど話が通じる。そんなわけわかんないことで、病院を困らせたりはしないはず。
とにかくじいさんのことが心配なら、まず自分の体をきちんと診てもらって、ちゃんと治してもらうのが先決じゃないか、じいさんのことは心配しなくていいから、ちゃんと診てもらえ、とどうにか電話口で説得する。それでもぐちゃぐちゃ言い張る。たぶん自分でも入院しなきゃなんないのはわかっているが、自分に自信があって、どこかでそんなことをしなきゃならない状況にあらがっていたいという気持ちだったように思う。諦めがついたようで、入院することになった。1週間ほどいて、いろんな可能性を言われたのがまず内科。遠まわしで様々な可能性をねちねちと説明。胆嚢が詰まって胆汁がうまく出なくて肝機能に障害が出て、肝臓の値が妙なことになっていると。その可能性として何かが詰まっている、炎症起こしている、あと何言われたっけ?あんまり言われて忘れた。そして最後の最後にがんの可能性もあります、と。それも要領を得ない説明で、もにゃもにゃ。あーーイライラする。(怒っちゃいけない)
入院して様々な検査をした結果、今度は外科に行く。外科の先生、開口一番「がんです!」いやーーはっきり、すっきり。「このままでは1年で死にます。手術しますか?どうしますか?」って。いきなりの究極の選択を突き付けられたばあさん。それは悩むわ。一世一代の決意をしたばあさんは手術を選択。手術をしたから完治というわけではなく、もちろん転移や切った後のリスクその他もありますよと。がんは1か所だけど、そこを中心に消化器系のいろんな臓器を切除して、腹の中を新しく構築するみたいな超面倒くさい手術らしい。医者は自信満々に「この手術は6時間くらいかかるんですが、私は4時間で終わらせますよ」と。いろんなところを切ると聞いたばあさんは、自分のがんはいろんなところにあると刷り込んでしまった。思い込みの強い人で、一度頭に刷り込むと、もうダメ。いくらそれが違うと言っても受け入れない。「あなたの病気はこの部分にあるがんで、そのせいで回りのここを切るんだよ」と言って、そん時は「んだが」といっても、少し経つと、「あちこちさがんあるんだど」となってしまう。ボイスチェンジャーついてんだよな。この性質でどんだけ苦労し、どんだけ間違いがあったか。ここで思い出すのはやめる。
2月になって入院、手術となり、80才にしちゃ褒められるくらいに頑張ったと思う。回復も早く、ここにも不滅の人がいた。痛い、痛いと言いつつも、とにかく前向きにご飯を食べて頑張らんなね、と。見舞いを持ってきてくれた人には「おれ(彼女は自分のことをこういう)、病気んね(じゃない)!」と見舞いを突き返すということまでしちゃう。それはさすがに相手に対して失礼じゃないかと思うけど、彼女の辞書に素直とか、謙虚という文字はない。さすがに本調子とは言わないが、ちょこちょこ畑仕事をしたり、じいさんと壮絶なケンカを相変わらずしている。
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