212
野に山にかなしき鳥のこゑすなりかり人いまやたかはなちけん
四二五 野に山に悲しき鳥の声すなり狩人(かりびと)いまや鷹放(はな)ちけむ 文化四年
□鷹の羽風を聞くや否や、鳥の声は常の声をえ出さぬなり。さらばよ「かなしきこゑ」が聞ゆるなり。鳥の声を思ひやるうたなり。
○鷹の羽風を聞くや否や、鳥の声は常の声を出すことができない状態になるのである。そうであるから、「かなしき声」が聞えるのであるよ。鳥の声を思いやる歌である。
213 雨中鷹狩
すらせたるはつかり衣のとほ山もしぐれの雨にいろづきにけり
四二六 すらせたる初かり衣(ぎぬ)の遠山もしぐれの雨に色付(いろづき)にけり 享和元年
□「かりぎぬ」、露あるは、しぼるなり。遠山すり、白に青にて小き遠山を書くなり。「はつかりぎぬ」、「かりぎぬ」に初とは言はれぬなり。はじめての狩にかけてきるなり。衣はふるくても初狩にきる時は、初狩り衣なり。しかしながら、「すらせたる」の初五にて衣も新らしきこと知るべし。山を見れば紅葉もあり、かり衣遠山も色付たりとなり。
○「かりぎぬ」は、露があるのは、しぼるのである。「遠山すり」は、白地に青で小さい遠山を書いたものだ。「はつかりぎぬ」は、「かりぎぬ」に「初」とは(通常は)言われないのである。はじめての狩に掛けて着るのである。衣は古くても、初狩に着る時は「初狩り衣」である。しかしながら、「すらせたる」の初五から衣も新らしいことがわかるだろう。山を見れば紅葉もあり、「かり衣」の「遠山」も色付いたというのである。
※旺文社『古語辞典』「しぼる」引例に「とがむなよ忍びにしぼる手もたゆみ今日あらはるる袖のしづくを」「源氏物語」藤裏葉。
214 炭竈
比えのねに初ゆきふれり今よりや小野の炭がまたきまさるらん
四二七 比えの根に初雪ふれり今よりや小野の炭がまたき増(まさ)るらむ 文化十五年
□都より思ひやるなり。雪を見るよりして炭がまを思ひやるなり。
○都から思いやっているのである。雪を見たところから炭がまを思いやるのである。
215 閑居埋火
底ぬるき火桶ばかりを友としてくらす老ともなりにけるかな
四二八 底ぬるき火桶ばかりを友としてくらす老ともなりにけるかな 文化十四年
□此の歌を草津の某妻のきい子が云、近辺の百姓が聞きて大に感心したり。且又百姓が云ふに、「底ぬるき」と云ふことがないと、何でもなき歌なるべし、と云ひたるよし。一向歌など知らぬ人の所望と見えたり。
○この歌を草津の某の妻のきい子が言うには、近辺の百姓が(これを)聞いて大いに感心した。そうしてまた(その)百姓が、「底ぬるき」という語がないと何でもない普通の歌になってしまうだろう、と言ったということだ。まったく歌など知らない人の所望と見えた。
※「所望」とあるのは、色紙のことだろう。景樹の重要な生計の手段のひとつ。
216 炉辺閑談
埋火のにほふあたりはのどかにてむかしがたりも春めきにけり
四二九 うづみ火のにほふあたりは長閑(のどか)にて昔がたりも春めきにけり 文化十三年
□「にほふあたりはのどかにて」、凡調なり。
○「にほふあたりはのどかにて」が、凡調である。
217 題知らず
埋火のほかにこゝろはなけれどもむかへば見ゆる白鳥のやま
四三〇 うづみ火の外(ほか)に心はなけれどもむかへば見ゆるしら鳥の山 文化十二年
□ 一寸聞えぬ歌なり。これは、後に「事にふれ云々」の歌、一向打まかせなり。此の歌など歌の本根(ほんこん)はこゝなりと云ふ意味なり。「事にふれて」の歌は、中芝居なり。本集中、「題知らず」などは、姿も詞も大芝居なる也。此の譯をみるべし。此れは、一月楼にありし時よみたり。白鳥山はきらゝの山也。白く見えたるはげ山なり。火にあたると、山がいつでもみゆるなり。心ざす所は火なるに、白鳥山が見えるなり。故に「むかふ」。
○ちょっとわかりにくい歌だ。この後に(ある)「事にふれ折にふれたる」の歌は、まったく「打まかせ」でできたものである。(それに対して)この歌など、歌の根本はここだという意味(の歌)である。「事にふれて」の歌は中芝居だ。本集中、「題知らず」などは姿も詞も大芝居であるのだ。この譯(深いわけ)を知る必要がある。これは一月楼にいた時に詠んだ。白鳥山はきららの山である。白く見えているはげ山である。火に当たると、山がいつでも見えるのである。故に「むかふ」(と言った)。
※一月楼は景樹の居所の雅名。この歌は、比叡山の山景を詠んで桂園の神髄を示したものとして称揚されてきた。
※岩波の旧古典文学大系本の『近世和歌集』の頭注で「桂園一枝講義」本文の一部をみて、いま一つわからなかったというのがこの現代語訳をてがけたきっかけである。その時は「姿も詞も大芝居なる也」の「大芝居」という言葉が、ずいぶん奇異に感じられたのだった。これは童蒙の意識をもって子息や無学な弟子にもわかりいいように、平易な比喩を用いて説明したものである。また、景樹自身が「題知らず」の歌を重視していたということが、これからわかる。
218 神楽
はふり子がとる榊葉に月よみのみかげもしろしふけぬ此の夜は
四三一 はふり子がとる榊葉(さかきば)に月よみのみかげも白し更(ふけ)ぬ此(この)夜は 享和元年
□「はふり子」、今の「はふり」なり。神主禰宜なり。
神楽の歌は、いやしくならぬ様上品によむべし。
月よみは、月と云ふ事なり。今云へば一の神の名の様になる也。月と云ふことなり。「榊葉」、うら葉は常盤なるもの故に白きなり。
「ふけぬ此夜」は、更けた此夜と云ふことではなきなり。更けたわい、此夜は、と二つに切りて見るべし。
○「はふり子」は、今の「はふり」だ。神主・禰宜(のこと)である。
神楽の歌は、いやしくならない様に上品に詠まなければならない。
月よみは、月という事である。今言うと一の神(ツクヨミノミコト)の名の様になるのである。月ということである。「榊葉」、(その)うら葉は恒常のものであるから白いのである。
「ふけぬ此夜」は、「更けた今夜」ということではないのだ。更けたわい、今夜は、と二つに切って見るとよい。
219 五節舞姫
天つ袖かへし玉ひし大君のをとめのすがた今も見えつゝ
四三二 天津(あまつ)袖かへしたまひし大君のをとめの姿いまも見えつゝ 文化十年
□ 此の五節舞姫、聖武天皇吉野にて始めて遊されしが濫觴なり。五節は、五曲の名なり。曲の名なり。「左伝」にあり。畢竟は節をうつの舞なり。元来五節の始めは舒明天皇の時に礼楽なくしては天下治らずとて、楽を制し、礼を制するなり。礼は百官事を取るなり。楽は舒明天皇御舞あらせられたる也。舒明は女帝なり。尤も舒明の太子時分なり。舒明天皇の御袖をかへし舞はせられしなり。
○この五節舞姫は、聖武天皇が吉野で始めてとり行われたのが濫觴である。五節は、五曲の名である。曲の名だ。「左伝」にある。畢竟は節を打ってする舞である。元来五節の始めは、舒明天皇の時に礼楽なくしては天下治らずとして、楽を制定し、礼を制定したものである。礼は百官が事務を取ることだ。楽は舒明天皇が舞わせられたものである。舒明天皇は女帝である。もっとも舒明の太子(即位する前)の時分である。舒明天皇が御袖をかえして舞わせられたのである。
220
雲の上はゆきをめぐらす冬ながらそのふる袖は花の香ぞする
四三三 雲の上は雪をめぐ(廻)らす冬ながらそ(其)のふ(振)る袖は花の香ぞする 文化六年
□「雲の上は」、新嘗祭の庭の面は、雪をめぐらす冬なり。尤も舞の名に廻雪の舞あるなり。それをかけて云ふ。「花の香ぞする」、天人の姿花やかなるを云ふ。麗香四方に薫ずるの類なり。
「雪をめぐらす」、降らすなり。
○「雲の上は」、新嘗祭の庭の面は、雪をめぐらす冬である。もっとも舞の名に「廻雪の舞」がある。それを掛けて言う。「花の香ぞする」は、天人の姿の花やかなことを言う。麗香四方に薫ずる、の類である。
「雪をめぐらす」は、降らせるのである。
221 豊明節会
豊年のとよのあかりのまひの袖おもへば民をなづるなりけり
四三四 とよ年の豊のあかりの舞の袖おもへば民をなづるなりけり 文化十四年
□なほらひ、殿の節会なり。新嘗祭の翌日なり。夜明けて新嘗祭すむなり。すみたる御祝の節会なり。うちとけたる姿なり。此の時も舞があるなり。うちとけたる舞なり。
豊明といふことは、御酒宴といふ事なり。豊は大なるなり。たいまつをたきたて大酒宴あるなり。それが明なるなり。それ故豊明といふは、酒宴の名なり。
○「なほらひ」は、殿(しんがり)の節会である。新嘗祭の翌日である。夜が明けて新嘗祭がすむ。祭のすんだ御祝の節会である。うちとけた姿である。この時も舞があるのだ。うちとけた舞である。
「豊明」(とよのあかり)ということは、御酒宴という事である。豊は大きいことだ。たいまつをたいて大酒宴があるのだ。それが明るいのである。それで豊明というのは、酒宴の名なのである。
222 題知らず
鐘の音はきこえずながらももしきのにひなめまつりよはふけぬめり
四三五 鐘の音は聞えずながら百式(ももしき)の新(にひ)なめ祭夜は更(ふけ)ぬめり
□ここらは、詞を書けばおもしろきこと也。されども、かずならぬものが御所に出づるなどのことをいふは、反ておもしろからぬなり。
初は、大納言殿の御供にて出づべきにえ出でざりし時の歌なり。後のは、御供してつめて居たりし年の歌なり。尤も後の歌の方が前簾のうたなり。
○このあたりは、詞書を書けばおもしろいことである。けれども、数ならぬ(地下の)者が御所に出た時のことなどを言うのは、かえっておもしろからぬことだ。
最初の方の歌は、大納言殿の御供として出るはずのところが出なかった時の歌である。後の方の歌は、御供をして詰めて居た年の歌である。もっとも後の歌の方が前簾の歌である。
223
宮人のひかげのかづら長き夜もあけぬとみゆるくもの上かな
四三六 宮人の日影のかづら長き夜も明(あけ)ぬと見ゆる雲のうへかな 文化六年
□長閑なる夜でありしなり。五十年も以前なり。
○長閑なる夜であった。五十年も以前である。
野に山にかなしき鳥のこゑすなりかり人いまやたかはなちけん
四二五 野に山に悲しき鳥の声すなり狩人(かりびと)いまや鷹放(はな)ちけむ 文化四年
□鷹の羽風を聞くや否や、鳥の声は常の声をえ出さぬなり。さらばよ「かなしきこゑ」が聞ゆるなり。鳥の声を思ひやるうたなり。
○鷹の羽風を聞くや否や、鳥の声は常の声を出すことができない状態になるのである。そうであるから、「かなしき声」が聞えるのであるよ。鳥の声を思いやる歌である。
213 雨中鷹狩
すらせたるはつかり衣のとほ山もしぐれの雨にいろづきにけり
四二六 すらせたる初かり衣(ぎぬ)の遠山もしぐれの雨に色付(いろづき)にけり 享和元年
□「かりぎぬ」、露あるは、しぼるなり。遠山すり、白に青にて小き遠山を書くなり。「はつかりぎぬ」、「かりぎぬ」に初とは言はれぬなり。はじめての狩にかけてきるなり。衣はふるくても初狩にきる時は、初狩り衣なり。しかしながら、「すらせたる」の初五にて衣も新らしきこと知るべし。山を見れば紅葉もあり、かり衣遠山も色付たりとなり。
○「かりぎぬ」は、露があるのは、しぼるのである。「遠山すり」は、白地に青で小さい遠山を書いたものだ。「はつかりぎぬ」は、「かりぎぬ」に「初」とは(通常は)言われないのである。はじめての狩に掛けて着るのである。衣は古くても、初狩に着る時は「初狩り衣」である。しかしながら、「すらせたる」の初五から衣も新らしいことがわかるだろう。山を見れば紅葉もあり、「かり衣」の「遠山」も色付いたというのである。
※旺文社『古語辞典』「しぼる」引例に「とがむなよ忍びにしぼる手もたゆみ今日あらはるる袖のしづくを」「源氏物語」藤裏葉。
214 炭竈
比えのねに初ゆきふれり今よりや小野の炭がまたきまさるらん
四二七 比えの根に初雪ふれり今よりや小野の炭がまたき増(まさ)るらむ 文化十五年
□都より思ひやるなり。雪を見るよりして炭がまを思ひやるなり。
○都から思いやっているのである。雪を見たところから炭がまを思いやるのである。
215 閑居埋火
底ぬるき火桶ばかりを友としてくらす老ともなりにけるかな
四二八 底ぬるき火桶ばかりを友としてくらす老ともなりにけるかな 文化十四年
□此の歌を草津の某妻のきい子が云、近辺の百姓が聞きて大に感心したり。且又百姓が云ふに、「底ぬるき」と云ふことがないと、何でもなき歌なるべし、と云ひたるよし。一向歌など知らぬ人の所望と見えたり。
○この歌を草津の某の妻のきい子が言うには、近辺の百姓が(これを)聞いて大いに感心した。そうしてまた(その)百姓が、「底ぬるき」という語がないと何でもない普通の歌になってしまうだろう、と言ったということだ。まったく歌など知らない人の所望と見えた。
※「所望」とあるのは、色紙のことだろう。景樹の重要な生計の手段のひとつ。
216 炉辺閑談
埋火のにほふあたりはのどかにてむかしがたりも春めきにけり
四二九 うづみ火のにほふあたりは長閑(のどか)にて昔がたりも春めきにけり 文化十三年
□「にほふあたりはのどかにて」、凡調なり。
○「にほふあたりはのどかにて」が、凡調である。
217 題知らず
埋火のほかにこゝろはなけれどもむかへば見ゆる白鳥のやま
四三〇 うづみ火の外(ほか)に心はなけれどもむかへば見ゆるしら鳥の山 文化十二年
□ 一寸聞えぬ歌なり。これは、後に「事にふれ云々」の歌、一向打まかせなり。此の歌など歌の本根(ほんこん)はこゝなりと云ふ意味なり。「事にふれて」の歌は、中芝居なり。本集中、「題知らず」などは、姿も詞も大芝居なる也。此の譯をみるべし。此れは、一月楼にありし時よみたり。白鳥山はきらゝの山也。白く見えたるはげ山なり。火にあたると、山がいつでもみゆるなり。心ざす所は火なるに、白鳥山が見えるなり。故に「むかふ」。
○ちょっとわかりにくい歌だ。この後に(ある)「事にふれ折にふれたる」の歌は、まったく「打まかせ」でできたものである。(それに対して)この歌など、歌の根本はここだという意味(の歌)である。「事にふれて」の歌は中芝居だ。本集中、「題知らず」などは姿も詞も大芝居であるのだ。この譯(深いわけ)を知る必要がある。これは一月楼にいた時に詠んだ。白鳥山はきららの山である。白く見えているはげ山である。火に当たると、山がいつでも見えるのである。故に「むかふ」(と言った)。
※一月楼は景樹の居所の雅名。この歌は、比叡山の山景を詠んで桂園の神髄を示したものとして称揚されてきた。
※岩波の旧古典文学大系本の『近世和歌集』の頭注で「桂園一枝講義」本文の一部をみて、いま一つわからなかったというのがこの現代語訳をてがけたきっかけである。その時は「姿も詞も大芝居なる也」の「大芝居」という言葉が、ずいぶん奇異に感じられたのだった。これは童蒙の意識をもって子息や無学な弟子にもわかりいいように、平易な比喩を用いて説明したものである。また、景樹自身が「題知らず」の歌を重視していたということが、これからわかる。
218 神楽
はふり子がとる榊葉に月よみのみかげもしろしふけぬ此の夜は
四三一 はふり子がとる榊葉(さかきば)に月よみのみかげも白し更(ふけ)ぬ此(この)夜は 享和元年
□「はふり子」、今の「はふり」なり。神主禰宜なり。
神楽の歌は、いやしくならぬ様上品によむべし。
月よみは、月と云ふ事なり。今云へば一の神の名の様になる也。月と云ふことなり。「榊葉」、うら葉は常盤なるもの故に白きなり。
「ふけぬ此夜」は、更けた此夜と云ふことではなきなり。更けたわい、此夜は、と二つに切りて見るべし。
○「はふり子」は、今の「はふり」だ。神主・禰宜(のこと)である。
神楽の歌は、いやしくならない様に上品に詠まなければならない。
月よみは、月という事である。今言うと一の神(ツクヨミノミコト)の名の様になるのである。月ということである。「榊葉」、(その)うら葉は恒常のものであるから白いのである。
「ふけぬ此夜」は、「更けた今夜」ということではないのだ。更けたわい、今夜は、と二つに切って見るとよい。
219 五節舞姫
天つ袖かへし玉ひし大君のをとめのすがた今も見えつゝ
四三二 天津(あまつ)袖かへしたまひし大君のをとめの姿いまも見えつゝ 文化十年
□ 此の五節舞姫、聖武天皇吉野にて始めて遊されしが濫觴なり。五節は、五曲の名なり。曲の名なり。「左伝」にあり。畢竟は節をうつの舞なり。元来五節の始めは舒明天皇の時に礼楽なくしては天下治らずとて、楽を制し、礼を制するなり。礼は百官事を取るなり。楽は舒明天皇御舞あらせられたる也。舒明は女帝なり。尤も舒明の太子時分なり。舒明天皇の御袖をかへし舞はせられしなり。
○この五節舞姫は、聖武天皇が吉野で始めてとり行われたのが濫觴である。五節は、五曲の名である。曲の名だ。「左伝」にある。畢竟は節を打ってする舞である。元来五節の始めは、舒明天皇の時に礼楽なくしては天下治らずとして、楽を制定し、礼を制定したものである。礼は百官が事務を取ることだ。楽は舒明天皇が舞わせられたものである。舒明天皇は女帝である。もっとも舒明の太子(即位する前)の時分である。舒明天皇が御袖をかえして舞わせられたのである。
220
雲の上はゆきをめぐらす冬ながらそのふる袖は花の香ぞする
四三三 雲の上は雪をめぐ(廻)らす冬ながらそ(其)のふ(振)る袖は花の香ぞする 文化六年
□「雲の上は」、新嘗祭の庭の面は、雪をめぐらす冬なり。尤も舞の名に廻雪の舞あるなり。それをかけて云ふ。「花の香ぞする」、天人の姿花やかなるを云ふ。麗香四方に薫ずるの類なり。
「雪をめぐらす」、降らすなり。
○「雲の上は」、新嘗祭の庭の面は、雪をめぐらす冬である。もっとも舞の名に「廻雪の舞」がある。それを掛けて言う。「花の香ぞする」は、天人の姿の花やかなことを言う。麗香四方に薫ずる、の類である。
「雪をめぐらす」は、降らせるのである。
221 豊明節会
豊年のとよのあかりのまひの袖おもへば民をなづるなりけり
四三四 とよ年の豊のあかりの舞の袖おもへば民をなづるなりけり 文化十四年
□なほらひ、殿の節会なり。新嘗祭の翌日なり。夜明けて新嘗祭すむなり。すみたる御祝の節会なり。うちとけたる姿なり。此の時も舞があるなり。うちとけたる舞なり。
豊明といふことは、御酒宴といふ事なり。豊は大なるなり。たいまつをたきたて大酒宴あるなり。それが明なるなり。それ故豊明といふは、酒宴の名なり。
○「なほらひ」は、殿(しんがり)の節会である。新嘗祭の翌日である。夜が明けて新嘗祭がすむ。祭のすんだ御祝の節会である。うちとけた姿である。この時も舞があるのだ。うちとけた舞である。
「豊明」(とよのあかり)ということは、御酒宴という事である。豊は大きいことだ。たいまつをたいて大酒宴があるのだ。それが明るいのである。それで豊明というのは、酒宴の名なのである。
222 題知らず
鐘の音はきこえずながらももしきのにひなめまつりよはふけぬめり
四三五 鐘の音は聞えずながら百式(ももしき)の新(にひ)なめ祭夜は更(ふけ)ぬめり
□ここらは、詞を書けばおもしろきこと也。されども、かずならぬものが御所に出づるなどのことをいふは、反ておもしろからぬなり。
初は、大納言殿の御供にて出づべきにえ出でざりし時の歌なり。後のは、御供してつめて居たりし年の歌なり。尤も後の歌の方が前簾のうたなり。
○このあたりは、詞書を書けばおもしろいことである。けれども、数ならぬ(地下の)者が御所に出た時のことなどを言うのは、かえっておもしろからぬことだ。
最初の方の歌は、大納言殿の御供として出るはずのところが出なかった時の歌である。後の方の歌は、御供をして詰めて居た年の歌である。もっとも後の歌の方が前簾の歌である。
223
宮人のひかげのかづら長き夜もあけぬとみゆるくもの上かな
四三六 宮人の日影のかづら長き夜も明(あけ)ぬと見ゆる雲のうへかな 文化六年
□長閑なる夜でありしなり。五十年も以前なり。
○長閑なる夜であった。五十年も以前である。