さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 212-223

2017年06月11日 | 桂園一枝講義口訳
212
野に山にかなしき鳥のこゑすなりかり人いまやたかはなちけん
四二五 野に山に悲しき鳥の声すなり狩人(かりびと)いまや鷹放(はな)ちけむ 文化四年

□鷹の羽風を聞くや否や、鳥の声は常の声をえ出さぬなり。さらばよ「かなしきこゑ」が聞ゆるなり。鳥の声を思ひやるうたなり。
○鷹の羽風を聞くや否や、鳥の声は常の声を出すことができない状態になるのである。そうであるから、「かなしき声」が聞えるのであるよ。鳥の声を思いやる歌である。

213 雨中鷹狩
すらせたるはつかり衣のとほ山もしぐれの雨にいろづきにけり
四二六 すらせたる初かり衣(ぎぬ)の遠山もしぐれの雨に色付(いろづき)にけり 享和元年

□「かりぎぬ」、露あるは、しぼるなり。遠山すり、白に青にて小き遠山を書くなり。「はつかりぎぬ」、「かりぎぬ」に初とは言はれぬなり。はじめての狩にかけてきるなり。衣はふるくても初狩にきる時は、初狩り衣なり。しかしながら、「すらせたる」の初五にて衣も新らしきこと知るべし。山を見れば紅葉もあり、かり衣遠山も色付たりとなり。

○「かりぎぬ」は、露があるのは、しぼるのである。「遠山すり」は、白地に青で小さい遠山を書いたものだ。「はつかりぎぬ」は、「かりぎぬ」に「初」とは(通常は)言われないのである。はじめての狩に掛けて着るのである。衣は古くても、初狩に着る時は「初狩り衣」である。しかしながら、「すらせたる」の初五から衣も新らしいことがわかるだろう。山を見れば紅葉もあり、「かり衣」の「遠山」も色付いたというのである。

※旺文社『古語辞典』「しぼる」引例に「とがむなよ忍びにしぼる手もたゆみ今日あらはるる袖のしづくを」「源氏物語」藤裏葉。

214 炭竈
比えのねに初ゆきふれり今よりや小野の炭がまたきまさるらん
四二七 比えの根に初雪ふれり今よりや小野の炭がまたき増(まさ)るらむ 文化十五年

□都より思ひやるなり。雪を見るよりして炭がまを思ひやるなり。
○都から思いやっているのである。雪を見たところから炭がまを思いやるのである。

215 閑居埋火
底ぬるき火桶ばかりを友としてくらす老ともなりにけるかな
四二八 底ぬるき火桶ばかりを友としてくらす老ともなりにけるかな 文化十四年

□此の歌を草津の某妻のきい子が云、近辺の百姓が聞きて大に感心したり。且又百姓が云ふに、「底ぬるき」と云ふことがないと、何でもなき歌なるべし、と云ひたるよし。一向歌など知らぬ人の所望と見えたり。

○この歌を草津の某の妻のきい子が言うには、近辺の百姓が(これを)聞いて大いに感心した。そうしてまた(その)百姓が、「底ぬるき」という語がないと何でもない普通の歌になってしまうだろう、と言ったということだ。まったく歌など知らない人の所望と見えた。

※「所望」とあるのは、色紙のことだろう。景樹の重要な生計の手段のひとつ。

216 炉辺閑談
埋火のにほふあたりはのどかにてむかしがたりも春めきにけり
四二九 うづみ火のにほふあたりは長閑(のどか)にて昔がたりも春めきにけり 文化十三年

□「にほふあたりはのどかにて」、凡調なり。
○「にほふあたりはのどかにて」が、凡調である。

217 題知らず
埋火のほかにこゝろはなけれどもむかへば見ゆる白鳥のやま
四三〇 うづみ火の外(ほか)に心はなけれどもむかへば見ゆるしら鳥の山 文化十二年

□ 一寸聞えぬ歌なり。これは、後に「事にふれ云々」の歌、一向打まかせなり。此の歌など歌の本根(ほんこん)はこゝなりと云ふ意味なり。「事にふれて」の歌は、中芝居なり。本集中、「題知らず」などは、姿も詞も大芝居なる也。此の譯をみるべし。此れは、一月楼にありし時よみたり。白鳥山はきらゝの山也。白く見えたるはげ山なり。火にあたると、山がいつでもみゆるなり。心ざす所は火なるに、白鳥山が見えるなり。故に「むかふ」。

○ちょっとわかりにくい歌だ。この後に(ある)「事にふれ折にふれたる」の歌は、まったく「打まかせ」でできたものである。(それに対して)この歌など、歌の根本はここだという意味(の歌)である。「事にふれて」の歌は中芝居だ。本集中、「題知らず」などは姿も詞も大芝居であるのだ。この譯(深いわけ)を知る必要がある。これは一月楼にいた時に詠んだ。白鳥山はきららの山である。白く見えているはげ山である。火に当たると、山がいつでも見えるのである。故に「むかふ」(と言った)。

※一月楼は景樹の居所の雅名。この歌は、比叡山の山景を詠んで桂園の神髄を示したものとして称揚されてきた。
※岩波の旧古典文学大系本の『近世和歌集』の頭注で「桂園一枝講義」本文の一部をみて、いま一つわからなかったというのがこの現代語訳をてがけたきっかけである。その時は「姿も詞も大芝居なる也」の「大芝居」という言葉が、ずいぶん奇異に感じられたのだった。これは童蒙の意識をもって子息や無学な弟子にもわかりいいように、平易な比喩を用いて説明したものである。また、景樹自身が「題知らず」の歌を重視していたということが、これからわかる。

218 神楽
はふり子がとる榊葉に月よみのみかげもしろしふけぬ此の夜は
四三一 はふり子がとる榊葉(さかきば)に月よみのみかげも白し更(ふけ)ぬ此(この)夜は 享和元年

□「はふり子」、今の「はふり」なり。神主禰宜なり。
神楽の歌は、いやしくならぬ様上品によむべし。
月よみは、月と云ふ事なり。今云へば一の神の名の様になる也。月と云ふことなり。「榊葉」、うら葉は常盤なるもの故に白きなり。
「ふけぬ此夜」は、更けた此夜と云ふことではなきなり。更けたわい、此夜は、と二つに切りて見るべし。

○「はふり子」は、今の「はふり」だ。神主・禰宜(のこと)である。
神楽の歌は、いやしくならない様に上品に詠まなければならない。
月よみは、月という事である。今言うと一の神(ツクヨミノミコト)の名の様になるのである。月ということである。「榊葉」、(その)うら葉は恒常のものであるから白いのである。
「ふけぬ此夜」は、「更けた今夜」ということではないのだ。更けたわい、今夜は、と二つに切って見るとよい。

219 五節舞姫
天つ袖かへし玉ひし大君のをとめのすがた今も見えつゝ
四三二 天津(あまつ)袖かへしたまひし大君のをとめの姿いまも見えつゝ 文化十年

□ 此の五節舞姫、聖武天皇吉野にて始めて遊されしが濫觴なり。五節は、五曲の名なり。曲の名なり。「左伝」にあり。畢竟は節をうつの舞なり。元来五節の始めは舒明天皇の時に礼楽なくしては天下治らずとて、楽を制し、礼を制するなり。礼は百官事を取るなり。楽は舒明天皇御舞あらせられたる也。舒明は女帝なり。尤も舒明の太子時分なり。舒明天皇の御袖をかへし舞はせられしなり。

○この五節舞姫は、聖武天皇が吉野で始めてとり行われたのが濫觴である。五節は、五曲の名である。曲の名だ。「左伝」にある。畢竟は節を打ってする舞である。元来五節の始めは、舒明天皇の時に礼楽なくしては天下治らずとして、楽を制定し、礼を制定したものである。礼は百官が事務を取ることだ。楽は舒明天皇が舞わせられたものである。舒明天皇は女帝である。もっとも舒明の太子(即位する前)の時分である。舒明天皇が御袖をかえして舞わせられたのである。

220 
雲の上はゆきをめぐらす冬ながらそのふる袖は花の香ぞする
四三三 雲の上は雪をめぐ(廻)らす冬ながらそ(其)のふ(振)る袖は花の香ぞする 文化六年

□「雲の上は」、新嘗祭の庭の面は、雪をめぐらす冬なり。尤も舞の名に廻雪の舞あるなり。それをかけて云ふ。「花の香ぞする」、天人の姿花やかなるを云ふ。麗香四方に薫ずるの類なり。
「雪をめぐらす」、降らすなり。

○「雲の上は」、新嘗祭の庭の面は、雪をめぐらす冬である。もっとも舞の名に「廻雪の舞」がある。それを掛けて言う。「花の香ぞする」は、天人の姿の花やかなことを言う。麗香四方に薫ずる、の類である。
「雪をめぐらす」は、降らせるのである。

221 豊明節会
豊年のとよのあかりのまひの袖おもへば民をなづるなりけり
四三四 とよ年の豊のあかりの舞の袖おもへば民をなづるなりけり 文化十四年

□なほらひ、殿の節会なり。新嘗祭の翌日なり。夜明けて新嘗祭すむなり。すみたる御祝の節会なり。うちとけたる姿なり。此の時も舞があるなり。うちとけたる舞なり。
豊明といふことは、御酒宴といふ事なり。豊は大なるなり。たいまつをたきたて大酒宴あるなり。それが明なるなり。それ故豊明といふは、酒宴の名なり。

○「なほらひ」は、殿(しんがり)の節会である。新嘗祭の翌日である。夜が明けて新嘗祭がすむ。祭のすんだ御祝の節会である。うちとけた姿である。この時も舞があるのだ。うちとけた舞である。
「豊明」(とよのあかり)ということは、御酒宴という事である。豊は大きいことだ。たいまつをたいて大酒宴があるのだ。それが明るいのである。それで豊明というのは、酒宴の名なのである。

222 題知らず
鐘の音はきこえずながらももしきのにひなめまつりよはふけぬめり
四三五 鐘の音は聞えずながら百式(ももしき)の新(にひ)なめ祭夜は更(ふけ)ぬめり

□ここらは、詞を書けばおもしろきこと也。されども、かずならぬものが御所に出づるなどのことをいふは、反ておもしろからぬなり。
初は、大納言殿の御供にて出づべきにえ出でざりし時の歌なり。後のは、御供してつめて居たりし年の歌なり。尤も後の歌の方が前簾のうたなり。

○このあたりは、詞書を書けばおもしろいことである。けれども、数ならぬ(地下の)者が御所に出た時のことなどを言うのは、かえっておもしろからぬことだ。
最初の方の歌は、大納言殿の御供として出るはずのところが出なかった時の歌である。後の方の歌は、御供をして詰めて居た年の歌である。もっとも後の歌の方が前簾の歌である。

223
宮人のひかげのかづら長き夜もあけぬとみゆるくもの上かな
四三六 宮人の日影のかづら長き夜も明(あけ)ぬと見ゆる雲のうへかな 文化六年

□長閑なる夜でありしなり。五十年も以前なり。
○長閑なる夜であった。五十年も以前である。

岩尾淳子『岸』

2017年06月10日 | 現代短歌
短歌の良し悪しというのは見た瞬間にわかるもので、理屈はいらないのである。今度の岩尾さんの歌集は、見た瞬間にこれは良い、と思ったのである。

 この歌集では端的に言うと、全般的に作品が淡い。その「淡い」思いをすんなりと柔らかな言葉にのせて軽々と闊達に表現している。これは、やってみればわかるが、とてもむずかしいことなのである。森鷗外の「舞姫」に「掌上の舞」を為すほどの身軽な少女という表現があったが、岩尾さんの歌もたとえて言うならそのような軽さを持っている。

  踊り場にとろんと見える須磨の海ここが一番あかるいところ

何がどうということではなくて、読んだ瞬間に私には須磨の海がみえる。作者の開放されたこころの景色が伝わる。「とろんと」という言葉が季節感や海の表情を豊かにつかんで放さない感じがする。

忘却のましろき雲のわきあがる空よりおりてくる歩道橋

 初句に「忘却の」というのはいささか乱暴ではないかと思いきや、結句で大技をみせてくれる。スケールの大きい絵になったから、初句に「忘却の」という額縁があってもいいのだ。同じ一連のひとつ前の歌。

「中国名詩選」の中ほど都を離れゆく友とながめるみどりの雨よ

よく教科書に載っている王維の「渭城の朝雨軽塵を浥し」という詩だ。素人くさい歌になりそうなところを、「友とながめるみどりの雨よ」と言ったとたんに不思議なほどにみずみずしい感じが喚起される。それは「みどりの雨よ」という受け方で詩の中身が自分の感覚として定着されているからである。

ありがとうこんなに遠くに連れてきて冷たい水を飲ませてくれて

すっと水を飲むようにこういう歌を読まされるのだが、これも、そう簡単にできる歌ではない。

筆先が紙にひらいてゆくように思いを声にすればよかった

  水替えてやれば寄りきて水を飲む猫やわらかに呼吸している

  同じページの歌を二首引いたが、一首目は作者の作歌法と書道との相同的な感じが伝わっておもしろい。二首目の猫をとらえる言葉の自在で自然な使い方に、ああこんなふうに猫が詠めたらいいと思う人は多いだろう。

   この家の隅々までを知りつくしぷつんと掃除機うごかずなりぬ

 特別なことを言っているわけではないのだけれとも、使われなくなった掃除機にも、気持が通っていて哀感がこもる。

 帯の背に第二歌集とある。一冊めの歌集がすぐにはみつからないので、東郷氏のホームページの抄出をいま見た。一冊目では修辞への意識が表立っていた作者だと思うが、今度の歌集ではそのとんがったところをあえて殺して「淡く」しているところに、作者の歌境の深まりがある。たぶん最初の歌集では定型や周囲の歌人たちに対して、いい意味でも悪い意味でも身構えていたのだろう。これはそのこわばりが取れて、本来の作者の持ち味が出て来た作品集なのだ。

菊村到『雨に似ている』

2017年06月04日 | 現代小説
大波のようなコンステレーションの続き。今日はすごい。始めの方のニ十ページほどを読んでから、読みさしにしてあった菊村到の小説『雨に似ている』(昭和三十四年九月雪華社刊)を読み始める。これも主人公の戦場帰りの兄が自死するというストーリーだ。その兄が夢を語る場面がある。

「…ああ、おれは死んだんだな、このおれは死体なんだな、とおもつたらなんともいえない悲哀をおぼえたね。ほんとうに悲しいんだ。それから気がついてみると、ひじように匂うんだ。あの匂いが…(略)。気がついたら、ぼくはふたたび生きているんだ。やつぱりフイリピンの山の中だつた。ぼくはスペイン人のカソリツクの学校にいるんだ。そこは尼さんばかりのところで、男はだれもはいれない。ところが、ぼくだけは連隊長の通訳をやつていたから、とくべつに出入りを許されていた。いや、これは夢じやない。これはほんとうのことなんだ。ぼくは、この学校で日本語を教えたりしていた。戦場ぐらしでぼくにとつていちばん平和なころだつたな。ぼくは『海ゆかば』を英訳して聞かせたりした。どんなふうにほんやくしたのか、いまではすつかり忘れちまつたけどね。」

 菊村到の小説は、成瀬映画の「おとうと」だったか、あれとまちがいなく共鳴している。今でも舞台化できそうな小説である。それに、いまここに書き写していて思ったのだが、この夢語り全体が、シェークスピアの舞台のせりふのような美しさと韻文的な響きを持っている。声に出して読んでみるといいだろう。

 それにしても、前の日に秋谷豊の詩について書いたために引っ張られてここまで来ている。ついでに書いておくと、「文學界」2017年6月号の高澤秀次「夏目漱石から小津安二郎へ」という評論は、最近読んだ文学関係の評論の中ではもっともおもしろいものの一つだった。私は年をとるにつれて『それから』の代助という主人公がどんどん嫌いになって来ていたのだが、この評論の論じ方では、その不快さをまったく思い起こさせなかったので舌を巻いたのである。

「舟」30号。「毎日新聞」6月3日「名作の現場」。「短歌現代」1981年5月号。

2017年06月04日 | 日記
今日は一日家にいたので、ものを書くのに疲れたら何となくねそべっては手元に積んである本や雑誌をぱらぱらめくったりしている。中公文庫の吉田秀和『響きと鏡』というエッセイ集を何ページか読み、舟の会の「舟」30号をみる。後記の訃報欄をみると、「浮島」と名乗る歌人が三十二歳で夭折している。ああ、またここに一人若い人の命が消えた。遺作「水底弔歌」をみると、これは自分で自分に別れを告げている歌のように見える。ためらいを覚えるのだが、やっぱり引いてみることにする。ペンネーム浮島。歌は技術的に完璧である。惜しい才能だ。

 ごめんなさい私がいたらラジオからは雨音だけしか 聞こえない
 
 ある夜に彼女はしろい砂糖菓子に自分がなれないことに気付いた

 一冊の本になりたい図書室で光をさけて眠っていたい

 たくさんの娘らが並ぶ霧の海 真珠になれない、ごめんかあさん

 白い白いハチドリたちが降りつもる 海底にまるで雪みたいに

 おびただしいガラスの小瓶 あの人は天使をつかまえようとしていた


 私の知人の早坂類さんの詩に少し似ている。

前日の「毎日新聞」の「名作の現場」は梅崎春生の『幻化』について島田雅彦が書いていて、これは阿蘇の火口を二人連れの男のうちの一人が一周するのを、もう一人の似た者同士の男が望遠鏡でのぞきながら声援を送るという話だった。島田は書く。

「戦争は終戦とともにきれいさつぱり終わるのではなく、戦後も心的外傷との戦いは継続する。それを含めての戦争文学なのである。『幻化』が書かれた一九六五年は東京オリンピックの翌年であるが、元兵士の意識は依然として生死の微妙な境目に立っている。心が弱った者に阿蘇の火口ほど危険な場所はないが、二人は死に誘惑されるか、活力を補充して生還するか、際どい賭けをしている。実は私たちの誰もが一歩間違えると、戦争や狂気に押しやられる日常を過ごしており、阿蘇の火口に立つ二人と同じ立場にいるのである。」

 次に積み上げてある手元の雑書の山の中から何気なく一冊抜き出して読み始めたのが「短歌現代」1981年5月号である。特集「北原白秋『桐の花』の研究と背表紙にあるので買っておいた本だが、はじめから順にめくっていったら30ページと31ページに見開きで「松村英一追悼」として右のページに三浦武、左のページに御供平佶の文章が載っているではないか。そうして32ページに「松村英一の秀歌100」として千代国一の選が載っている。さっき御供平佶の歌について書いたばかりである。小半時のうちにこの一冊に手が伸びる、ということ自体が偶然とは言え、なかなかできすぎている。

 御供は、松村英一に「短歌は態度の文芸であると言われた。生活を大切にすることと、何事にも深く徹することを厳しく命じられた。」とある。「短歌は悲哀の文芸だと語りつづけた松村英一先生」ともある。

「書斎人の先生の知識欲は深く、三面記事的な事柄の多い鉄道公安の僕の日常を「ほうほう」と身を乗り出して聞かれ「その話書いとけ」と言われた。画商で店番をされた少年期に見た、袂の底を叩き袖口から飛び出す蝦蟇口を摑む掏摸の話を「今じゃこんな職人はおらんよ」と楽しそうに語られた。多くの悲惨に耐えた哀しみを忘れたかの眼差しであった。」と書いてもいる。短文ながら要を得ていて、かつ楽しい。

 ついでに右ページの三浦武の文章も紹介しておく。

「先生の話によると、六人の幼い子供を次々に亡くした虚無感から生きる気力を失い、投身をすべく奥様と二人で錦ヶ浦の崖の上に一日佇んでいたとのことであった。奥様のひとことで思いとどまったとのことで、終日見下ろしていたその日の冬の海の印象は今でも鮮明に覚えているといい、「歌が、国民文学があったのも死ねなかった原因の一つだよ」と感無量の言葉を継いでくださった。」

そんなつもりはなくて書きはじめたのだが、こんな文章になってしまった。
 


『御供平佶歌集全四冊』

2017年06月04日 | 現代短歌 文学 文化
 私は父が旧国鉄の職員だったので、御供氏の作品は何やらなつかしい気がするのである。その父が亡くなったあと弔問に訪れた同僚や後輩の方々とはじめて会って印象的だったことは、私が日頃接している青少年や、文学系統の人々とはまったく異なった、技術畑の実務家たちの持つ雰囲気の明るさであった。ああ、こういう人たちと毎日一緒にすごしていたら父は楽しかっただろうな、と私は思った。あとは昭和二年生まれの父に接して常日頃感じていたことは、規律の感覚が身体化されている者の持つすがすがしさと、善悪のけじめがはっきりしていることである。だって自分がルールを外れたことをしたら事故になってしまうのだから、自分が責任を果たさなかったら人が迷惑するのだから、だらしないことはしない。不肖の息子は、二言目には「だらしがない」と叱られていたのを今思い出した。

御供氏の歌を読んでいると、昭和十九年生れの氏と私の父とではだいぶ年が違うのだが、やっぱりどこかで父の後姿を思い出してしまう。

 何と言っても、鉄道公安員としての仕事に従事していた時の歌がおもしろい。これは現場のリアリズム、職業人のリアリズムである。抑制された過不足のない言葉の運用で、きびきびと一瞬の出来事を捉えてゆく。まさに言葉はこうして用いるのだ、というような随所に行き渡った描写の冴えが、読む者を飽きさせない。

 ぴりぴりとわが青ざむる顔をすぎ彼の視線は鞄に坐る  『車站』

 バッグ割る指の見えし瞬間の充実の感替ふる何がある  

※「ゆび」に「えんこ」と振り仮名。「えんこ」は隠語である。

 次々と連続する行為を写しているから、結句にしばしば動詞が来る。それが囲碁の石を盤面にぱちんぱちんと打ちつけるような、言葉の活気を呼び込んでくるから読む方も夢中になって読む。むろん、こういう歌ばかりではない。特に妻や子供を歌った作品には佳品があるが、職場の歌には戦後という時代の空気が感じられるものが多くあり、今では忘れられつつある事件の背景を作者にはぜひ散文として書き残しておいてもらいたいと思う。不思議なほどに短歌は、その現場の雰囲気をまるごとつかんでいるために、得難い歴史の証言ともなっているのである。左右の政治的立場は、後から読む者にはあまり関係がない。現場にぶつかり合っていた者からすれば、同じ危機を共有している緊迫した場がそこにあったということだろう。短歌のリアリズムは、そこでは非政治的である。

 保護靴のなかにしびれて足があり六時間半立ちしわが足 『河岸段丘』

 かれがれて押すなの声はとどかぬか足よりずるずるすべり始めつ

 事件のなかで目に見えるものを歌うのは、比較的たやすい。でも、事件の中で自分の足元を歌うのは簡単なようでいて、実はむずかしい。この肉体の存亡の上に言葉が載っているのだということを、御供平佶の歌は常に踏まえている。この武人のような覚悟がどこで生まれたのかは、私にはわからない。三浦武による『冬の稲妻』の解説文にある若い頃からの「国民文学」での修養も関係があるのかもしれない。

 超越を心に重く年の過ぐ美学のくだり超えよわがうた 『車站』

 こういう歌をわれわれは、もっと懼れるべきだ。

『桂園一枝講義』口訳 201-211

2017年06月03日 | 桂園一枝講義口訳
201 雪中厭人
朝夕にまてばこぬ人なかなかにゆきにや跡をつけんとすらん
四一四 朝夕(あさゆふ)に待てば来ぬ人中々に雪にやあとをつけむとすらむ 文政五年

□本人の情をおすときは、朝夕まつ人がこぬとよいが、といふ事は、なきことなれども、そこが歌なり。どうぞこぬとよいが、といふが、即ちやはり気にかかりて来てほしい場があるなり。たとへば、うまき物を煮たる時、たれそれがきてしたゝかくうであらう、などいふは、来てしたゝか食へばよいかといふ事なり。常の情にあることなり。

○本人の気持を推測する時は、朝夕待つ人が来なければよいが、などという事は、無いことであるけれども、そこが歌なのだ。どうぞ来ぬとよいが、と言う(ところ)が、つまりやはり気にかかって来てほしいという場面があるのである。たとえば、うまい物を煮た時、誰それが来てしたたか食うであろう、などというのは、来てくれてしたたかに食えばよいがという事である。(世の)常の情にあることだ。

202 
ふりはへて誰はとふともわがやどの雪にはいまだあとなしといへ
四一五 ふりはへて誰(たれ)はとふともわが宿の雪にはいまだ跡なしといへ 享和二年

□むざとふみこみてはくれな、となり。
○むやみに踏み込んではくれるな、というのである。 

203 雪似花
梅の花ちるにまがひてふる時はゆきさへにほふこゝちこそすれ
四一六 梅花ちるにまがひてふる時は雪さへにほふ心地こそすれ 文政九年

□実景でよみたる歌なり。
○実景で詠んだ歌である。

204 山雪
かきくらしふる大空にちかければ山にはゆきぞまづつもりける
四一七 かきくらし降(ふる)おほ空にちかければ山には雪ぞまづ積りける 

□せのたかき人に雨の早くふるの雑談の類なり。
○背の高い人に雨が早く降る、という雑談の類である。

205 遠山雪
みやこより雲居に見ゆる葛城のたかねさやかにつもるゆきかな
四一八 みやこより雲井に見ゆるかつらぎの高根さやかにつもる雪かな 享和元年 五句目 雪降リニケリ

□姿にてよみおろしたるうたなり。
古歌に「都より雲の八重たつ横川の」といふあり。少し聞きにくきなり。

○姿で詠みおろした歌である。
古歌に「都より雲の八重たつ横川の」というのがある。(あれは)少し聞きにくい歌である。

※「みやこより雲の八重たつおく山の横川の水はすみよかるらむ」天暦御歌「新古今和歌集」一七一八。

206 河雪
夜もさむし瀬の音も高しみよし野の大河のへにゆきぞふるらし
四一九 夜も寒し瀬の音(と)も高しみよしのゝ大河の辺に雪ぞふるらし

□趣向よりも姿を旨とす。今夜は寒し。瀬の音も高く聞ゆるよしのの辺に住人の言ふ体なり。たとへばふるさとあたりでよむべし。
山に雪が深くつもれば水がつとますなり。
「降雪はかつぞけぬらし足曳の山の滝津瀬音まさるらし」、雪どけではなきなり。雪がふる時は水がますは、直に雪が消ゆるかしらぬと、うたがひてよむなり。

○趣向よりも姿を旨としている。今夜は寒い。瀬の音も高く聞える吉野の辺に住む人が言う体である。たとえばふるさとあたりで詠むものだろう。 
山に雪が深くつもれば水がつっと増すのである。 
(たとえば)「降雪はかつぞけぬらし足曳の山の滝津瀬音まさるらし」、(これは)雪どけではないのである。雪がふる時は水が増すのは、すぐに雪が(溶けて)消えるからだろうかと、疑って詠むのである。

※「ふる雪はかつぞけぬらしあとひきの山のたきつせおとまさるらし」読人しらず「古今集」三一九。二〇五番とともに、「姿」ということを言っている。万葉調の歌だから、これも享和年中の歌であろう。景樹の作風の変遷については黒岩一郎の著書に詳しい。

207 山家雪
白ゆきのつもるにつけて山ざとはふかくなりゆく年をしるかな
四二〇 白雪の積るにつけて山ざとはふかくなりゆく年をしるかな 文化三年

□此の通りにして、別にときかたなし。此の歌、元来「山家雪」の題ではなかつた。
○この通り(の歌)であって、別に解きかたはない。この歌は、元来「山家雪」の題ではなかった。

208 松雪深
はらへばやかへりて雪のつもるらんさらばとよわる軒の松風
四二一 はら(拂)へばやかへりてゆきの積るらむさらばとよわる軒の松かぜ 文政七年

□秋山が難じたるは聞きにくい故なり。はらへどもはらへどもつもりかかる雪ゆゑ、はらはずにおくがよきか、と。松の心なり。
松にはゆきがよくつもるなり。きゆるもおそきなり。葉がこまい故なり。さらば拂ふまいとよわると聞なしたるなり。

○秋山が(『大ぬさ』で)難じたわけは意味がとりにくいからである。払っても払っても積もりかかる雪なので、払わずにおく方がよいか、と。(そう尋ねられた)松の心である。
松には雪がよく積もる。消えるのも遅い。葉が細かいからだ。それならばと払わない(ままにしておこうという)のでは困ると(松が言ったように)聞きなしたのである。

209 旅山雪深
おぎそ山大ゆきふれりあらくまのこもるうつほにやどやからまし
四二二 おぎそ山おほ雪ふれりあら熊のこもるうつぼに宿やからまし 文化二年

□此の歌、一句一句あらあらしくよみ出たり。
「おぎそ山」、木そ山の事也。「万葉」に「於木曾」とあり。されば「大きそ」なるべし。「小きそ」も歌の上ならではあるやうなり。「大くら」を「おくら」の池、「大荒」を「おあらき」の類なるべし。
「大雪ふれり」、「万葉」二の巻に「此の里に大雪ふれり」とあり。あまりよろしからぬ詞なり。されども、つり合すれば所によりてかけ合ふなり。「あらくま」は、ただ熊なり。「うつほ」、中のうつろの所をさす。木にも石にもある也。

○この歌は、一句一句あらあらしく詠み出している。
「おぎそ山」、木曽山の事である。「万葉」に「於木曾」とあり。されば「大きそ」であるだろう。「小きそ」も歌の上ならばあるようだ。「大くら」を「おぐら」の池、「大荒」を「おあらき」と言う類だろう。
「大雪ふれり」、「万葉」二の巻に「此の里に大雪ふれり」とある。あまりよくない歌句である。けれども、(語と語を上手に)つり合わせれば所によって(配合のバランスが)合うのである。「あらくま」は、ただの熊のことだ。「うつほ」は、中がうつろの所をさす。木にも石にもある。

※こういう歌は、武士にも貴族にも人気があっただろう。二句目で「万葉集」の天武天皇の歌「わが里に大雪ふれり大原のふりにし郷にふらまくは後」を踏まえて、下句に「あら熊」などという鄙の材料を持って来る。実にうまい。こういう取り合わせの修辞法についても、黒岩一郎の本にはきちんとした分析がある。「此の里に大雪ふれり」の言い間違いは、講義の口調をそのまま残したもので、逆にこの講義がよけいな校訂を加えていないものであることを証するものである。

210 加茂の臨時の祭久しく絶えたるを、ことし再興ありけるに其の日しも雪のふりければ、かの西行の「うらがへすをみの衣」とよめりし事を遥に思ひ出でゝ

〇加茂の臨時の祭が久しく絶えていたのを、今年再興することがあった時に、その日も雪が降ったので、かの西行が「うらがへすをみの衣」と詠んだ事を遥に思い出して。

いにしへの竹のうら葉にふりしゆきふたたびかへる世にこそありけれ
四二三 いにしへの竹のうら葉に降(ふり)し雪ふたたびかへる世に社(こそ)有(あり)けれ 文化十一年

□臨時祭は、光孝帝の時分ありしが、近頃まで絶えてありしなり。「古への竹のうら葉」、小忌衣のもやうに竹の丸などあるなり。夫にふりたる土御門院迄は大内裏なり。
西行のうたに「うらがへすをみの衣に似たる哉竹のうら(ママ)はにふれる白ゆき」。西行の竹は呉竹なり。竹䑓)の古へをよまれたるなり。今又其の時の様に又雪ふる故、再びかへるとつかふなり。
因に此の時赤尾可官、「空蝉の人こそ知らね我が大君神の願や聞こしめしけん」。

○臨時祭は、光孝帝の時分あったが、近頃まで絶えていたのである。「古への竹のうら葉」は、小忌衣の模様に竹の丸などがあるものだ。それに(雪が)降った土御門院迄は大内裏である。
西行のうたに「うらがへすをみの衣に似たる哉竹のうらばにふれる白ゆき」(がある)。西行の竹は呉竹である。竹台のいにしえを詠まれたのである。今又その時の様に又雪が降るので「再び返る」と使ったのである。
ちなみにこの時の赤尾可官(の歌は)、「空蝉の人こそ知らね我が大君神の願や聞こしめしけん」。

※弥冨による底本では「小忌衣のもやうに竹の丸などあるなり夫にふりたる」に左傍点がある。
※「うらがへすをみのころもと見ゆるかなたけのうれはにふれるしらゆき」「山歌集」五三六。
※竹䑓 清涼殿の東庭にある呉竹・河竹を植えた台。石灰壇の前あたりに河竹の台、仁寿殿の西北に呉竹の台があった。(岩波古語辞典による)

211 鷹狩
ましらふのたか引きすゑて武士のかりにと出づる冬はきにけり
四二四 真白斑(ましらふ)の鷹ひきすゑてもののふの狩にと出(いづ)る冬は来にけり 文化六年

□昌言曰、大人わかきときのうたなり。此の集の成(る)三十年以前大人自ら言ふ。若し集にでもせば、此れは入れたきなりと申されたる由を清樹聞き覚え居たり。集なりし時清樹が「とうとう御入れなされたり」と申したりしに、大人は以前申されたる事は不覚となり。おもしろきことなり。
「真白斑」、白に黒き「ふ」あるなり。引きすゑ綱ある処、何となくにほふなり。又引れ出る意、語勢にあらはるるなり。ここの歌の調、武士のけしき。可考、後に「かり衣の遠山すり」とは大に勢(ひ)が違ふなり。

○昌言の言うには、「大人が若い時の歌である。この集の成る三十年以前に大人自らそう言った。もし集にでもする時は、これは入れたいと申された由を清樹が聞き覚えて居た。集ができた時清樹が「とうとう御入れなさった」と申し上げたところ、大人は以前申された事はおぼえていないということであった。おもしろいことである。
「真白斑」は、白に黒い「ふ」があるのだ。引き据え綱のある処が、何となくにおう(イメージできる)のである。また、引かれて出るという意味が、語勢にあらわれているのである。ここの歌の調は、武士の景色(を伝えるものである)。可考が後に「かり衣の遠山すり」を言ったのとは、大きく勢いが違うのである。

※「昌言曰」以下の前半部分は、弟子の昌言の言葉。「真白斑白に黒きふあるなり」以下が景樹の言だろう。この歌、景樹の万葉調の作品中では著名なもの。

秋谷豊の詩「背嚢」を読む

2017年06月03日 | 現代詩 戦後の詩

背嚢  秋谷 豊   『降誕祭前夜』(昭和三十七年十一月 地球社刊)より

おれのなかには夜がいつぱいだ
けれど おれを重くするのは夜ではない

おれが見知らぬ兵隊の背中で
ゆらゆらとねむりながら
波の上をわたつてきたのは夜の間だ
鉛のように
それが原野へつづいているなら
おれもそこへ行こう?
戦争はおれを熱い薬盒にする
唾液に
飢え
渇き
倒れていつただれかれの顔を
おれは逆光の中にまざまざと見るが
それはなんという大きな落日だつたろう

おれはれおれの中の夜を圧し殺す
けれど おれを暗くするのは夜ではない

兵隊が死ぬまで支えていたのは
銃であつた
兵隊は銃のために死ぬ
銃ににぶくほりつけてある
紋章のために死ぬ
兵隊は固いぺトンでつくられたもの
夜を夜と考えることのできぬ
沈黙のぺトンだ

おれと夜の間を長い長い軍列が流れてゆく
そいつは煉獄のはてから来た
だが おれを撃ち苦しめるものを
おれはキリストのように
背負うことはできないのだ 

 この詩の作者は、戦争からの帰還者である。
「あとがき」には、
「ぼくは自分の底に流れている戦争の体験を、いまも消し去ることができないでいる。戦争はわれわれにとって過ぎ去った暗黒の時間ではない。今日の崩壊しつつある人間性の危機は、ここから「神」が狂っていった二十年前のあの渦の中に再びわれわれをまきこもうとする。」
とある。

 詩の全体は、五つの連に分れている。タイトルが「背嚢」となっているから、「おれのなかには夜がいつぱいだ」という言葉を読んだ時に、読者は背嚢を語り手としてまずこの詩を読み始める。けれども、この重たい言葉の響きからただちに感じることは、「背嚢」である「おれ」が、まちがいなく作者自身の実感を担ったものだということだ。
 ここに二行目の「けれど おれを重くするのは夜ではない」という詩句が重ねられる時、では何が「おれ」を重くするのだろうか?という問いを読者は抱え持つことになる。そうして以下の詩句を続けて読む時に、その答は与えられるのか。

 二連目前半。「おれが見知らぬ兵隊の背中で/ゆらゆらとねむりながら/
波の上をわたつてきたのは夜の間だ/鉛のように/それが原野へつづいているなら/おれもそこへ行こう?」

 潜水艦の攻撃や空襲を避けて、輸送船はなるたけ夜間に移動するということがあるだろう。そうして夜のうちに「原野」のある南方の戦線のどこかに兵隊とともに上陸した。ここには作者自身のそうした暗闇の記憶が書かれている。この詩の「それが原野へつづいているなら」の「それ」とは、背嚢の中にある「夜」のことだろう。鉛のような夜。ハンス・ヘニー・ヤーンの小説に『鉛の夜』というタイトルがあった。鉛のような夜は、戦争の時代のわかりやすい比喩である。「おれもそこへ行こう?」と疑問のかたちになっているのは、行って原野の夜に溶け込むことなどできはしないからだ。

 二連目後半。「戦争はおれを熱い薬盒にする/唾液に/飢え/渇き/倒れていつただれかれの顔を/おれは逆光の中にまざまざと見るが/それはなんという大きな落日だつたろう」

 南方戦線では、戦死者の大半が餓死であった。飢えと渇きの中で倒れて行った兵隊たちを、「背嚢」は見ていた。生還した兵士である「私」の背中で。戦場において、「背嚢」は熱い「薬盒」となった。
「大きな落日」というのは、戦争の敗北、敗走の現実そのもののことでもあるだろうし、また実際に赤々とした夕陽を目にもしたのであろう。
 一連目の「けれど おれを重くするのは夜ではない」という句の「重くするもの」の当体は、飢えと渇きにさいなまれた戦争体験の総体ということになるだろう。また、そうは言っても「重くするもの」のすべてをここで説明し尽くしているわけではないのだ。それが「あとがき」で作者がこの詩集において「神」を問題にしていると書いた理由ともつながって来るのだろう。

 三連目。「おれはれおれの中の夜を圧し殺す/けれど おれを暗くするのは夜ではない」。
ここに来て、「背嚢」は自分の中の「夜」を押し殺してしまった。それなのに、相変わらず「おれ」は「暗く」されている。そうして「おれを重くするのは夜ではない」という冒頭の一連の言葉も生きている。さらに、「おれを暗くするのは夜ではない」という句が付け加わった。

 四連目。「兵隊が死ぬまで支えていたのは/銃であつた/兵隊は銃のために死ぬ/銃ににぶくほりつけてある/紋章のために死ぬ/兵隊は固いぺトンでつくられたもの/夜を夜と考えることのできぬ/沈黙のぺトンだ」

 ここでは「背嚢」がものを感じたり、考えたりすることができるのであって、兵隊にはそれが許されていない。兵隊は「固いぺトン(「べトン」はフランス語でコンクリートのこと)」であり、銃のために、銃に彫り付けられている菊の紋章のために(天皇と大日本帝国のために)死ぬのだ。兵隊には「夜を夜と考えること」が許されていない。夜とは何か。戦争の現実を支えるまっくらな塊のようなもの。戦争そのもの。


 五連目。「おれと夜の間を長い長い軍列が流れてゆく/そいつは煉獄のはてから来た/だが おれを撃ち苦しめるものを/おれはキリストのように/背負うことはできないのだ」

ここでも「背嚢」は、外側にある「夜」と自身を一体化しない。「おれと夜の間」には、「長い長い軍列」が「流れてゆく」のだ。それは地獄、ダンテが描いたような「煉獄のはて」からやって来た。圧倒的に強固な戦争という「軍列」が隔てるために、「おれ」は「おれ」自身であり、「おれ」の荷物でもある「背嚢」を、仮に言ってみるなら<罪>というものを、「夜」そのものに預けてしまうことはできない。しかしながら、その背負いきれないものをキリストのように「背負う」ことも、またできないのだ。

「おれ」は「おれを撃ち苦しめるものを」背負うことも、周囲の「夜」に一体化させることもできないまま、「撃」たれ、「苦し」んでいる。銃弾に撃ち抜かれた背嚢。背負いきれない思いだけが、ここに厳然として残り、「おれのなかには夜がいつぱいだ/けれど おれを重くするのは夜ではない」という根源的なアイロニーだけが、かろうじてよじれる言葉としてここに投げ出され続けるのだ。

坂井修一『青眼白眼』

2017年06月02日 | 現代短歌 文学 文化
坂井修一の今度の歌集をめくってみてまず思ったのは、鏡の歌が多いということだ。つまり、自画像の歌が多い。しかもその多くが、苦々しい思いをにれがみつつ、しかめ面のユーモアを発散している。

 学問が好きで好きでたまらない人が、どうしてこの国では、こんなに不幸せな気分を、あちこちの場面で味あわなくてはならないのだろうか。鏡に映った自分の姿をみながら、やっと我に返り、かつまた自己憐憫にとらわれたりもしてしまうなんて、斯界の先導者だった人が、こんなに苦いなんて!

 大学にいるのは憂くてクソ面白くもなくて、でも学問は好きだから学問の話をしたいのに、ちっとも学問を楽しんでいない「学生」やら「院生」やらと毎日顔を突き合わせていなければならないなんて!

 この憂さは大学に限ったことではなく、小・中・高の現場の教員でも同様なのだ。この十年から十五年の間に加速度がついた教育現場の管理強化と、官僚の質の劣化が、おぞましい車の両輪となって、自由な精神の活動する場を余すことなく踏みつぶして来た結果、坂井修一のいたく憂鬱な歌々が出来(しゅったい)することになったのである。

 その昔、近藤芳美は、「未来」の中野の歌会で、「歌人は炭鉱で有毒ガスが発生したことをいち早く知らせるカナリヤのような存在であれ」と、しばしば語っていた。同じ中野サンプラザで「かりん」の歌会も開かれていて、一階の掲示板でそれを知る事が幾度もあった。もしかしたらあの頃、坂井さんと私は同じビルの中ですれ違っていたのかもしれない。

 今度の歌集では、決して声高にではなく、歌人坂井修一が危機を告げるカナリヤとして、われわれに危惧の共有を呼び掛けているのである。大学人坂井修一が「弱ったなあ、まずいことになっていきそうだなあ」というぼやきを、自ら諧謔をもって対象化しつつ、含羞をこめた世間へのメッセージとしてユーモラスに発信しているのである。

 たとえて言うと、「英語の話せる猿になるよりも、海に浮かんでいる亀でありたい」というような歌を、坂井修一教授が作るほかないような「学問の府」って、いったい何だ。それを統制している官庁って何だ。特に文科省のエリートのみなさんのおかげで、現場はひどいこと(役人が次々と指示を出して権力欲を満足できる不自由な場所)になっているのだ。…などと、坂井修一の歌のことを語りつつ日頃の鬱憤を晴らしている私は、この本に関するかぎり冷静な読者ではないかもしれない。

  まだ歌を一首も引いていなかった。
 
  ほほえみて大波小波こぎゆかむ用なき身とはむかし貴人   坂井修一

  ※「貴人」に「あてびと」と振り仮名。

 これは眼の隅に「用なき身」をいれながらも、「貴人」にならずにがんばるしかないのだという、一見するとやさしい調べの歌を装いつつ、実はけっこう厳しいことを述べている歌なのだ。私はこれを自己励起の作品として読む。権力よりも風雅の道の方が強い? のかどうかはわからないけれども、歌を作り続けるかぎり、常にビッグ・イシューに直面するほかはないのだと、歌人<坂井修一>はのべている。故に「大波小波」にさらされる。

※文章は、7月2日に細部を推敲して読みやすくした。