私はこの本をあらゆる分野の表現者のための手引き書として読むのである。
本人はいいと思っていても、よそから見たらぜんぜんだめである、というようなことは、表現の世界ではしばしばあることで、それを防ぐためには、謙虚なこころがけをもって、専心他者と関り続けるほかに手立てはない。
とは言いながら、人間というのは弱いもので、自分が高く評価されたり、ほめられたりする場に固着しがちなところがあり、武道ではこれを「居つき」と言うそうだが、要するに「居ついたら」終わりなのが、表現の世界というものなのだが、一定の型がある方が何かと便利ではあるし、型を唱えられる程度に熟達すれば、その道の権威として通用するのが世間というものだから、自分の権威を守る方に走ってしまうのが、凡庸な人間の常である。だから、本音でものを言う人は、しばしば世間的には「異端」となる。
礼儀作法にしてもそうで、礼は固定しているから礼である、と人は思いがちなのだけれども、本当にそうだろうかと考えてみると、時には「無礼」な方が礼にかなっているということもある。孔子が現代日本の就職斡旋のための礼儀作法講座をみたら天を仰ぐのではないか。
…というようなことを、いろいろと考えさせられる本が、甲野善紀と小池弘人の対話集『武術と医術 人を活かすメソッド』(集英社新書2013年)である。
表現というものは、ふだんから対面の場で本音をぶつけあっていないと、自家中毒に陥ってしまう。このことを私はネット好きの人には常に言って来た。この本では、負の「縮退」に陥らずに「創発」してゆくには何が必要か、というようなことが話し合われている。ネットで高得点のものをずらっと並べてみせたらせんぜんおもしろくなかった、というようなことも時には起こり得るわけだから、<道具>も「場」も、過信は禁物だ。それは武道で禁物の「居つく」ことになってしまうということなのである。
本人はいいと思っていても、よそから見たらぜんぜんだめである、というようなことは、表現の世界ではしばしばあることで、それを防ぐためには、謙虚なこころがけをもって、専心他者と関り続けるほかに手立てはない。
とは言いながら、人間というのは弱いもので、自分が高く評価されたり、ほめられたりする場に固着しがちなところがあり、武道ではこれを「居つき」と言うそうだが、要するに「居ついたら」終わりなのが、表現の世界というものなのだが、一定の型がある方が何かと便利ではあるし、型を唱えられる程度に熟達すれば、その道の権威として通用するのが世間というものだから、自分の権威を守る方に走ってしまうのが、凡庸な人間の常である。だから、本音でものを言う人は、しばしば世間的には「異端」となる。
礼儀作法にしてもそうで、礼は固定しているから礼である、と人は思いがちなのだけれども、本当にそうだろうかと考えてみると、時には「無礼」な方が礼にかなっているということもある。孔子が現代日本の就職斡旋のための礼儀作法講座をみたら天を仰ぐのではないか。
…というようなことを、いろいろと考えさせられる本が、甲野善紀と小池弘人の対話集『武術と医術 人を活かすメソッド』(集英社新書2013年)である。
表現というものは、ふだんから対面の場で本音をぶつけあっていないと、自家中毒に陥ってしまう。このことを私はネット好きの人には常に言って来た。この本では、負の「縮退」に陥らずに「創発」してゆくには何が必要か、というようなことが話し合われている。ネットで高得点のものをずらっと並べてみせたらせんぜんおもしろくなかった、というようなことも時には起こり得るわけだから、<道具>も「場」も、過信は禁物だ。それは武道で禁物の「居つく」ことになってしまうということなのである。