短歌の良し悪しというのは見た瞬間にわかるもので、理屈はいらないのである。今度の岩尾さんの歌集は、見た瞬間にこれは良い、と思ったのである。
この歌集では端的に言うと、全般的に作品が淡い。その「淡い」思いをすんなりと柔らかな言葉にのせて軽々と闊達に表現している。これは、やってみればわかるが、とてもむずかしいことなのである。森鷗外の「舞姫」に「掌上の舞」を為すほどの身軽な少女という表現があったが、岩尾さんの歌もたとえて言うならそのような軽さを持っている。
踊り場にとろんと見える須磨の海ここが一番あかるいところ
何がどうということではなくて、読んだ瞬間に私には須磨の海がみえる。作者の開放されたこころの景色が伝わる。「とろんと」という言葉が季節感や海の表情を豊かにつかんで放さない感じがする。
忘却のましろき雲のわきあがる空よりおりてくる歩道橋
初句に「忘却の」というのはいささか乱暴ではないかと思いきや、結句で大技をみせてくれる。スケールの大きい絵になったから、初句に「忘却の」という額縁があってもいいのだ。同じ一連のひとつ前の歌。
「中国名詩選」の中ほど都を離れゆく友とながめるみどりの雨よ
よく教科書に載っている王維の「渭城の朝雨軽塵を浥し」という詩だ。素人くさい歌になりそうなところを、「友とながめるみどりの雨よ」と言ったとたんに不思議なほどにみずみずしい感じが喚起される。それは「みどりの雨よ」という受け方で詩の中身が自分の感覚として定着されているからである。
ありがとうこんなに遠くに連れてきて冷たい水を飲ませてくれて
すっと水を飲むようにこういう歌を読まされるのだが、これも、そう簡単にできる歌ではない。
筆先が紙にひらいてゆくように思いを声にすればよかった
水替えてやれば寄りきて水を飲む猫やわらかに呼吸している
同じページの歌を二首引いたが、一首目は作者の作歌法と書道との相同的な感じが伝わっておもしろい。二首目の猫をとらえる言葉の自在で自然な使い方に、ああこんなふうに猫が詠めたらいいと思う人は多いだろう。
この家の隅々までを知りつくしぷつんと掃除機うごかずなりぬ
特別なことを言っているわけではないのだけれとも、使われなくなった掃除機にも、気持が通っていて哀感がこもる。
帯の背に第二歌集とある。一冊めの歌集がすぐにはみつからないので、東郷氏のホームページの抄出をいま見た。一冊目では修辞への意識が表立っていた作者だと思うが、今度の歌集ではそのとんがったところをあえて殺して「淡く」しているところに、作者の歌境の深まりがある。たぶん最初の歌集では定型や周囲の歌人たちに対して、いい意味でも悪い意味でも身構えていたのだろう。これはそのこわばりが取れて、本来の作者の持ち味が出て来た作品集なのだ。
この歌集では端的に言うと、全般的に作品が淡い。その「淡い」思いをすんなりと柔らかな言葉にのせて軽々と闊達に表現している。これは、やってみればわかるが、とてもむずかしいことなのである。森鷗外の「舞姫」に「掌上の舞」を為すほどの身軽な少女という表現があったが、岩尾さんの歌もたとえて言うならそのような軽さを持っている。
踊り場にとろんと見える須磨の海ここが一番あかるいところ
何がどうということではなくて、読んだ瞬間に私には須磨の海がみえる。作者の開放されたこころの景色が伝わる。「とろんと」という言葉が季節感や海の表情を豊かにつかんで放さない感じがする。
忘却のましろき雲のわきあがる空よりおりてくる歩道橋
初句に「忘却の」というのはいささか乱暴ではないかと思いきや、結句で大技をみせてくれる。スケールの大きい絵になったから、初句に「忘却の」という額縁があってもいいのだ。同じ一連のひとつ前の歌。
「中国名詩選」の中ほど都を離れゆく友とながめるみどりの雨よ
よく教科書に載っている王維の「渭城の朝雨軽塵を浥し」という詩だ。素人くさい歌になりそうなところを、「友とながめるみどりの雨よ」と言ったとたんに不思議なほどにみずみずしい感じが喚起される。それは「みどりの雨よ」という受け方で詩の中身が自分の感覚として定着されているからである。
ありがとうこんなに遠くに連れてきて冷たい水を飲ませてくれて
すっと水を飲むようにこういう歌を読まされるのだが、これも、そう簡単にできる歌ではない。
筆先が紙にひらいてゆくように思いを声にすればよかった
水替えてやれば寄りきて水を飲む猫やわらかに呼吸している
同じページの歌を二首引いたが、一首目は作者の作歌法と書道との相同的な感じが伝わっておもしろい。二首目の猫をとらえる言葉の自在で自然な使い方に、ああこんなふうに猫が詠めたらいいと思う人は多いだろう。
この家の隅々までを知りつくしぷつんと掃除機うごかずなりぬ
特別なことを言っているわけではないのだけれとも、使われなくなった掃除機にも、気持が通っていて哀感がこもる。
帯の背に第二歌集とある。一冊めの歌集がすぐにはみつからないので、東郷氏のホームページの抄出をいま見た。一冊目では修辞への意識が表立っていた作者だと思うが、今度の歌集ではそのとんがったところをあえて殺して「淡く」しているところに、作者の歌境の深まりがある。たぶん最初の歌集では定型や周囲の歌人たちに対して、いい意味でも悪い意味でも身構えていたのだろう。これはそのこわばりが取れて、本来の作者の持ち味が出て来た作品集なのだ。