さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

坂井修一『青眼白眼』

2017年06月02日 | 現代短歌 文学 文化
坂井修一の今度の歌集をめくってみてまず思ったのは、鏡の歌が多いということだ。つまり、自画像の歌が多い。しかもその多くが、苦々しい思いをにれがみつつ、しかめ面のユーモアを発散している。

 学問が好きで好きでたまらない人が、どうしてこの国では、こんなに不幸せな気分を、あちこちの場面で味あわなくてはならないのだろうか。鏡に映った自分の姿をみながら、やっと我に返り、かつまた自己憐憫にとらわれたりもしてしまうなんて、斯界の先導者だった人が、こんなに苦いなんて!

 大学にいるのは憂くてクソ面白くもなくて、でも学問は好きだから学問の話をしたいのに、ちっとも学問を楽しんでいない「学生」やら「院生」やらと毎日顔を突き合わせていなければならないなんて!

 この憂さは大学に限ったことではなく、小・中・高の現場の教員でも同様なのだ。この十年から十五年の間に加速度がついた教育現場の管理強化と、官僚の質の劣化が、おぞましい車の両輪となって、自由な精神の活動する場を余すことなく踏みつぶして来た結果、坂井修一のいたく憂鬱な歌々が出来(しゅったい)することになったのである。

 その昔、近藤芳美は、「未来」の中野の歌会で、「歌人は炭鉱で有毒ガスが発生したことをいち早く知らせるカナリヤのような存在であれ」と、しばしば語っていた。同じ中野サンプラザで「かりん」の歌会も開かれていて、一階の掲示板でそれを知る事が幾度もあった。もしかしたらあの頃、坂井さんと私は同じビルの中ですれ違っていたのかもしれない。

 今度の歌集では、決して声高にではなく、歌人坂井修一が危機を告げるカナリヤとして、われわれに危惧の共有を呼び掛けているのである。大学人坂井修一が「弱ったなあ、まずいことになっていきそうだなあ」というぼやきを、自ら諧謔をもって対象化しつつ、含羞をこめた世間へのメッセージとしてユーモラスに発信しているのである。

 たとえて言うと、「英語の話せる猿になるよりも、海に浮かんでいる亀でありたい」というような歌を、坂井修一教授が作るほかないような「学問の府」って、いったい何だ。それを統制している官庁って何だ。特に文科省のエリートのみなさんのおかげで、現場はひどいこと(役人が次々と指示を出して権力欲を満足できる不自由な場所)になっているのだ。…などと、坂井修一の歌のことを語りつつ日頃の鬱憤を晴らしている私は、この本に関するかぎり冷静な読者ではないかもしれない。

  まだ歌を一首も引いていなかった。
 
  ほほえみて大波小波こぎゆかむ用なき身とはむかし貴人   坂井修一

  ※「貴人」に「あてびと」と振り仮名。

 これは眼の隅に「用なき身」をいれながらも、「貴人」にならずにがんばるしかないのだという、一見するとやさしい調べの歌を装いつつ、実はけっこう厳しいことを述べている歌なのだ。私はこれを自己励起の作品として読む。権力よりも風雅の道の方が強い? のかどうかはわからないけれども、歌を作り続けるかぎり、常にビッグ・イシューに直面するほかはないのだと、歌人<坂井修一>はのべている。故に「大波小波」にさらされる。

※文章は、7月2日に細部を推敲して読みやすくした。