※ 以下の文章は、一度消したのだが、まあ読めなくもないので、復活させた。検索機能のために関係の無い読者の方が来てしまうということはある。それはお詫び申し上げる。
連休中の唯一の贅沢として、「一番搾り横浜づくり」を買ってくる。味がさわやかでうまいし、缶に配されているブルーの色彩が何とも言えずいい。ふだんは、遺伝子組み換えのコーンを原料として使っていない「金麦」を主に飲んでいる。味は当初は特にうまいとも思わなかったが、慣れた。こちらは生協のマークがついているので信用できると思う。
最近は、外食や売り弁当は何を食わされるかわかったものではないので、極力買わないことにしている。昼の弁当はめんどうでも自分で作って持っていく。忙しい時は、ご飯と納豆を持参するだけの時もある。
豚肉は、割高だけれども生協の「茶味豚」にかぎると思う。脂身のうまさがぜんぜん違う。私の場合は、添加物の多い肉や古い肉を食べると、手首が腫れてしまう。肉によって腱鞘炎が悪化してしまうので、わかりやすい。「きれいな」肉を食べている時は、重いものを持っても腱鞘炎にはならない。腸内菌が敏感なせいだろうと考えているが、医学研究者のためにこの事実を材料として提供しておきたい。
それで、久しぶりの身めぐりの本の話題である。連休中に捜しものをしたら、本どもががさがさと音をたてて崩れた。困ったもので、紐で縛って固定してしまうと、それらの本は塊として読まなくなる傾向がある。だから、読む態勢に本を置いておくためには、紐で縛らない方がいい。しかし、これはジレンマで、基本書が底の方に行ってしまっていて見つからないということになりがちである。ああ、辞典はどこだ。あの全集はどこだ…。
でも、本を探す前には、上に乗っている酒瓶と空き缶と郵便物の束をどけなければならない。掃除が先だ。すると、小さな蜘蛛どもが、いっさんに逃げてゆく。二匹のこいつらは雌雄なのか。ならばつぶしたりしないように、持ち上げたものをすぐに置かずに、連中が退避するまでの時間を確保してやろう。などと、悠長なことを言っていると日が暮れてしまうが、どうせ最後まで終わらないのが片付けというものだ。それで、身めぐりの本。
三好達治『路傍の秋』昭和三十三年刊、筑摩書房
『定本川端茅舎句集』昭和二十一年刊、養徳社
小泉苳三『明治大正歌書年表』昭和十年刊、十二年再販、立命館出版部
高安國世歌集『真実』昭和二十四年刊、関西アララギ会高槻発行所
『定本吉野秀雄全歌集 第一巻』昭和五十二年刊、彌生書房
平野萬里『晶子鑑賞』昭和二十四年初版、昭和五十四年復刊、三省堂
山埜井喜美枝『歩神』一九九九年刊、砂小屋書房
川崎勝信『松村英一の風景』平成十四年刊、ながらみ書房
クルシェネク、レートリヒ『グスタフ・マーラー』1981年刊、みすず書房
片山敏彦訳『リルケ詩集』昭和37年刊、43年第9版、みすず書房
滝田ゆう『泥鰌庵閑話傑作選』二〇一二年、ちくま文庫
駒田信二『獣妖の姦』昭和五十五年刊、現代企画室
駒田信二『対の思想 中国文学と日本文学』昭和四十四年刊、勁草書房
室生朝子『父室生犀星』昭和四十六年刊、毎日新聞社
佐多稲子『女茶碗』昭和五十四年刊、三月書房
永井龍男『花十日』昭和五十二年刊、講談社
永井龍男『雑談 衣食住』昭和四十八年刊、講談社
芝木好子『春の散歩』昭和六十一年刊、講談社
菊村到『雨に似ている』昭和三十四年刊、雪華社、装丁森芳雄
藤沢周平『日暮れ竹河岸』平成八年刊、九年第三刷、文藝春秋
黒田杏子『金子兜太養生訓』二〇〇五年刊、白水社
木島始『本の声を聴く』一九九五年刊、新潮社
足元と背中にある本の一部を書きだしてみた。たまたま持って来てあるものもあるし、先月購入したばかりのものもある。
連休中の唯一の贅沢として、「一番搾り横浜づくり」を買ってくる。味がさわやかでうまいし、缶に配されているブルーの色彩が何とも言えずいい。ふだんは、遺伝子組み換えのコーンを原料として使っていない「金麦」を主に飲んでいる。味は当初は特にうまいとも思わなかったが、慣れた。こちらは生協のマークがついているので信用できると思う。
最近は、外食や売り弁当は何を食わされるかわかったものではないので、極力買わないことにしている。昼の弁当はめんどうでも自分で作って持っていく。忙しい時は、ご飯と納豆を持参するだけの時もある。
豚肉は、割高だけれども生協の「茶味豚」にかぎると思う。脂身のうまさがぜんぜん違う。私の場合は、添加物の多い肉や古い肉を食べると、手首が腫れてしまう。肉によって腱鞘炎が悪化してしまうので、わかりやすい。「きれいな」肉を食べている時は、重いものを持っても腱鞘炎にはならない。腸内菌が敏感なせいだろうと考えているが、医学研究者のためにこの事実を材料として提供しておきたい。
それで、久しぶりの身めぐりの本の話題である。連休中に捜しものをしたら、本どもががさがさと音をたてて崩れた。困ったもので、紐で縛って固定してしまうと、それらの本は塊として読まなくなる傾向がある。だから、読む態勢に本を置いておくためには、紐で縛らない方がいい。しかし、これはジレンマで、基本書が底の方に行ってしまっていて見つからないということになりがちである。ああ、辞典はどこだ。あの全集はどこだ…。
でも、本を探す前には、上に乗っている酒瓶と空き缶と郵便物の束をどけなければならない。掃除が先だ。すると、小さな蜘蛛どもが、いっさんに逃げてゆく。二匹のこいつらは雌雄なのか。ならばつぶしたりしないように、持ち上げたものをすぐに置かずに、連中が退避するまでの時間を確保してやろう。などと、悠長なことを言っていると日が暮れてしまうが、どうせ最後まで終わらないのが片付けというものだ。それで、身めぐりの本。
三好達治『路傍の秋』昭和三十三年刊、筑摩書房
『定本川端茅舎句集』昭和二十一年刊、養徳社
小泉苳三『明治大正歌書年表』昭和十年刊、十二年再販、立命館出版部
高安國世歌集『真実』昭和二十四年刊、関西アララギ会高槻発行所
『定本吉野秀雄全歌集 第一巻』昭和五十二年刊、彌生書房
平野萬里『晶子鑑賞』昭和二十四年初版、昭和五十四年復刊、三省堂
山埜井喜美枝『歩神』一九九九年刊、砂小屋書房
川崎勝信『松村英一の風景』平成十四年刊、ながらみ書房
クルシェネク、レートリヒ『グスタフ・マーラー』1981年刊、みすず書房
片山敏彦訳『リルケ詩集』昭和37年刊、43年第9版、みすず書房
滝田ゆう『泥鰌庵閑話傑作選』二〇一二年、ちくま文庫
駒田信二『獣妖の姦』昭和五十五年刊、現代企画室
駒田信二『対の思想 中国文学と日本文学』昭和四十四年刊、勁草書房
室生朝子『父室生犀星』昭和四十六年刊、毎日新聞社
佐多稲子『女茶碗』昭和五十四年刊、三月書房
永井龍男『花十日』昭和五十二年刊、講談社
永井龍男『雑談 衣食住』昭和四十八年刊、講談社
芝木好子『春の散歩』昭和六十一年刊、講談社
菊村到『雨に似ている』昭和三十四年刊、雪華社、装丁森芳雄
藤沢周平『日暮れ竹河岸』平成八年刊、九年第三刷、文藝春秋
黒田杏子『金子兜太養生訓』二〇〇五年刊、白水社
木島始『本の声を聴く』一九九五年刊、新潮社
足元と背中にある本の一部を書きだしてみた。たまたま持って来てあるものもあるし、先月購入したばかりのものもある。