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さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 176-186

2017年05月14日 | 桂園一枝講義口訳
176 暁萩風
かぎりあれば覚なんとするあけがたのゆめの末ふく萩の上風
二三七 限りあれば覚(さめ)なんとする明(あけ)がたの夢のすゑふく萩のうはかぜ

□たとひ萩の風はふかずとも、さめなんとする也。たとへば花見に出でんとする時誘はれたるが如し。
○たとえ萩の上に風は吹かなくても、目が覚めそうになるのだ。たとえば花見に出ようとする時に誘われたようなものである。

※題の本意と日常の情緒を濃厚に重ね合わせて生きることが空想裡にできること、それが日本の歌人の生活である。

177 外に出でて住ける年の秋よめる
此の秋はふるさと人のおとづれに吹くとのみきくをぎの上かぜ
二三八 外に出てすみけるとしの秋よめる
この秋はふるさと人の音信(おとづれ)に吹(ふく)とのみきく荻のうは風

□木や町に出たることあり。岡崎の宅、ことの外荻多くあるなり。音信におとのせぬ荻をきくとなり。
○木屋町に出たことがある。岡崎の宅は、ことの外荻が多くある。音信におとのせぬ荻を吹く音を聞くというのである。

178 萩
さをじかの妻どふ野べの秋はぎは下葉のみこそいろづきにけれ
二三九 さをしかの妻どふ野辺の秋はぎは下葉より社(こそ)色付(いろづき)にけれ 文化十一年

□「古今」の序に「秋萩の下葉をながめ」とあり。下葉ははやくかれて行くなり。古人はことの外はかなきことに目をつけるなり。さをじかに照りあはすが此の歌なり。

○「古今(集)」の序にも「秋萩の下葉をながめ」とある。下葉は早く枯れて行くのである。古人は格別にはかないことに目をつけたものだ。さを鹿に照りあわせるのがこの歌である。

179
一夜にやたなばたつめのおりつらんけさしも萩の錦なるかな
二四〇 ひとよにやたなばたづ(ママ)めの織(おり)つらむけさしも萩の錦なる哉

□一朝みつけたるなり。驚きのあるもの也。花は漸を以て開くなれども、ことの外見事に思ふことあるなり。「一夜にや」棚機つめの神女の手故、一夜におるなり。「つくからに神やきりけん」の類なり。「しも(下線)」は強くなる。「けさ」、「あ」と云ふことなり。玄如法師は下巻の秀逸であらうと云ひたるなり。

○一朝(起きて)みつけたのである。驚きのあるものだ。花はだんだんに開くものであるけれども、ことの外みごとに思うことがある。「一夜にや」というのは、たなばたつめの神女の手だから、一晩で織るのである。「つくからに神やきりけん」の類だ。「しも(下線)」は強くなる。今朝、あっと思うことである。玄如法師は(この歌が「古今集」の)下巻の秀逸であろうと言ったものだ。

※「仁和のみかどのみこにおはしましける時に、御をばのやそぢの賀にしろかねをつゑにつくれりけるを見て、かの御をばにかはりてよみける 
ちはやぶる神やきりけむつくからにちとせの坂もこえぬべらなり」僧正へんぜう「古今集巻第六 賀歌」三四八。

180 高台寺の萩見にまかりて
古でらのたかき臺(うてな)のからにしきたちのこしけんあきはぎの花
二四一 ふるでらのたかきうてなの唐錦(から)にしきたちのこしけむ秋はぎの花 文政七年 初句 イニシヘの

□高台寺中々歌によまれぬ所なり。しかし、歌くさく高台らしき故ここに出せり。昔さかんなりし時のたち残りてあらんと云ふなり。
○高台寺は中々歌によまれない所である。しかし、(寺の名が)歌くさいし(漢詩にあるような)高台めいているのでここに出した。昔さかんであった時(の様子)がずっと残っているようだというのである。

※「臺」は「台」。

181 薄
紅のあさはの野辺のしのすすき穂に出でたれどいまだみだれず
二四二 紅の浅葉の野辺のしのすすきほに出でたれどいまだ乱れず 文化三年

□「紅」は「浅」の枕詞なり。「万(葉)」に「紅の戔香」とあるなり。紫はこきに云ふなり。「紫のこかたの海」とあり。此れ古人、調べのよき方に骨が折てあるなり。浅葉野、信州。
「しの」しなしなとしたることなり。風の吹くまでは乱れぬなり。
すすきのすつと出たる形なり。其の開かぬ内は紅の色のつよきものなり。たとへば紅梅の未開、紅の類なり。開かぬうちは紅深き也。古人「尾花色のめしを出しける」とあるは、小豆飯なり。

○「紅」は「浅」の枕詞である。「万葉集」に「紅の戔香」とある。紫は濃い色にいう。「紫のこかたの海」とある。これは古人が、調べのよい方に骨を折っているのである。浅葉野は、信州。
「しの」は、しなしなとしていることだ。風の吹くまでは乱れないのだ。
すすきのすっと出た形である。その開かない内は紅の色がつよいものである。たとえば紅梅の未だ開かないものが、紅である類だ。開かないうちは紅が深いのである。古人が「尾花色のめしを出しける」とあるのは、小豆飯のことである。

※「うつほ物語 菊の宴」。

182 
ふるさとの野中の道にやすらへば風にひれふるしののをすすき
二四三 故郷の野中の道にやすらへば風にひれふるしののをすすき 文化二年

□ひれ、古人女人の後にかけるものをひれと云ふなり。領巾と書くなり。男もかけたりと見ゆ。「ひれかくるともの男」とあり。礼服にかけるもの歟。さよ媛もひれを以て招くとあり。ひれふる山とあるなり。故郷にかへる人のさまなり。故郷はあれれば野となるなり。それ故野をつづけ(ママ)るなり。故郷の野辺見に行くと云ふなり。故郷は必ず野辺にあるやうになるは、此れ野となる縁あるなり。柳に燕の類なり。こちらより合せて云ふなり。

○「ひれ」、古人は女人の後にかけるものをひれと言った。「領巾」と書く。男もかけたものとみえる。「ひれかくるともの男」とある。礼服にかけるものか。さよ媛も「ひれを以て招く」とある。「ひれふる山」とある。故郷にかえる人の様子である。故郷は荒れれば野となる。それで「野」をつづけるのだ。故郷の野辺を見に行くと言う。故郷は必ず野辺にあるようになるのは、これは「野」となるゆかりがあるのである。柳に燕の類だ。こちら(故郷と言ったら野)を合わせて言うのである。

183
秋かぜにすゝきの糸をよらせつゝたがぬひいでし草のたもとぞ
二四九 秋かぜに薄(すゝき)の糸をよらせつゝたが縫出(ぬひいで)し草のたもとぞ

□よく聞えたり。
○よくわかる歌だ。

184 薄随風
一方になびきそろひて花すゝきかぜふく時ぞみだれざりける
二四五 ひとかたになびきそろひて花薄かぜふく時ぞみだれざりける 文化十五年

□風にみだるゝものを、みだれぬといふが趣向なり。
○風にみだれるものを、みだれないと言うのが趣向である。

※佳吟。

185 行路薄
たび人の袖とひとつになりにけりすゑの原野のしのゝをすゝき
二四六 旅人の袖とひとつになりにけり末の原野のしのゝをすゝき 文化十五年

□旅行人を見やりて居るのに、とうとうすゝきの袖と一緒にほのかになりたと也。「末の原」、名所なり。「万葉」に「梓弓末の原野」とあり。末が遥に、末のやうに聞ゆるなり。末の松山も遥にみゆるなり。

○旅行く人を見やりて居るのに、とうとうすすきの袖と一緒に姿がかすんで見えなくなっていったというのである。「末の原」、名所である。「万葉」に「梓弓末の原野」とある。「末」が、遥に、末のやうに聞えるのである。末の松山も遥にみえるのだ。

※「あづさゆみ-すゑのはらのに-とがりする-きみがゆづるの-たえむとおもへや」「万葉集」二六四六。「末の」のような歌語に言葉がもともと持っていたみずみずしいイメージを呼び起こそうとするここの解釈は、なかなかのもの。

186 薄似袖
おしなべて知るも知らぬもまねくこそ尾花がそでのこゝろなりけれ
二四七 おしなべて知るも知らぬも招く社(こそ)尾花が袖の心なりけれ 文化三年

□「袖ふる尾花が心なりけり」と云ふを、「尾花が袖の心」と云ふなり。松の木の間の心なりけり。皆心あるに見なすなり。尾花、「穂」花を云ふが「を」(傍線)に転じたるなりといふ説あり。「万(葉)」に「さをしかの入野のすゝき初尾花うち出て招く」。 

○「袖ふる尾花が心なりけり」と言うところを、「尾花が袖の心」と言うのである。「松の木の間の心なりけり」。皆心があるように見なすのである。「尾花」は、「穂」花を言うが「を」(傍線)に転じたものという説がある。「万葉集」に「さをしかの入野のすゝき初尾花うち出て招く」(という歌がある)。

※上三句に「うち出て招く」という四句めが続く歌はない。口をついて出たうろ覚えの歌だったので言いさしている。ここも景樹が「万葉集」を直接読む前に、先に「古今和歌六帖」の人麿などの歌を拾って覚えたのではないかという推論の根拠となるところである。

「さをしかの入ののすすき初尾花いつしか君にたまくらをせむ」「古今和歌六帖 すすき」三六九一。
「さをしかの-いりののすすき-はつをばな-いづれのときか-いもがてまかむ」「万葉集」二二八一「新編国歌大観」による。
「さをしかのいるののすすきはつをばないつしかいもがたまくらにせむ 人丸」「夫木和歌抄」四三二一。 


『桂園一枝講義』口訳 166-175

2017年05月14日 | 桂園一枝講義口訳
166 
かへるべき限りも知らずむさし野の旅ねおどろく秋の初かぜ
二二七 かへるべきかぎりも知らぬむさしのゝ旅ね驚く秋の初風 文化十五年

□江戸にてよみたるなり。日光宮より講釈を仰せ付けられたるを遁れんとて、伊勢まで用事ありといひて、「春早々江戸にかへりて」と申上げて、実ははづ(外)したりし。然るに尾張まで来て、前右府公の御病気が聞えたる故に京に皈りたり。此うた、其の秋のうたなり。秋までは、いつまでも江戸のつもりでありしなり。それ故「かへる」も「知ら」ぬなり。

○江戸で詠んだ。日光宮から講釈を仰せ付けられたのを遁れようとして、伊勢まで用事があると言って、春早々江戸にかえって(から)、と申上げて、実はさけたのだった。ところが尾張まで来て、前右府公の御病気(ということ)が聞えてきたので京に帰った。この歌は、その秋の歌である。秋までは、いつまでも江戸のつもりであったのだ。それだから、いつ帰るかも知らないのである。

※斎藤茂吉は小沢蘆庵への挽歌を例としてあげて、こういう類の景樹の歌を平凡だと評した。「旅ねおどろく」という句の背景が、この講義でわかるものの、確かに物足りないと言えば物足りない。江戸行は、景樹の直情径行ぶりと自負のほどがうかがわれておもしろいエピソードなのだが、ここでの江戸退去までの説明は、具合の悪いことは言っていないので割り引いて聞く必要がある。

七夕
167
雲がくれ逢ふとはすれど七夕のたびかさなれば名はたちぬなり
二二八 雲がくれ逢(あふ)とはすれど棚(たな)ばたのたびかさなれば名は立(たち)ぬめり

□くもにかくれて忍びに相逢形になすなり。すべて「雲がくれ」とは、空高くして見え難きことなり。「天雲がくれ田鶴なきわたる」とは、くもに隠れる事ではなきなり。雲井はるかに見えぬ所でなり。年に一夜とはいへど、度かさなる故に誰も知るやうになつた様子じや、となり。「めり」は、其様子じやといふ詞なり。

○雲に隠れて忍びに相逢う形になすのである。すべて「雲がくれ」とは、空高くして見え難いことである。「天雲がくれ田鶴なきわたる」とは、雲に隠れる事ではないのである。雲井はるかに見えない所で(という意味で)ある。年に一夜とはいうものの、度かさなるので誰もが知るようになった様子じゃ、というのである。「めり」はその様子じゃ、という意味の詞である。

※参考。「ふる郷はかへる雁とやながむらん天雲かくれいまぞなくなる」顕季「堀河百首」。
「田鶴なきわたる」は、「わかのうらに-しほみちくれば-かたをなみ-あしへをさして-たづなきわたる」山部赤人「万葉集」九二四の結句だろう。ここでの「天雲がくれ田鶴なきわたる」は、説明のため口をついて出た言い回しか。

※「七夕」にまつわる題詠を集って作ることは、歌人の年中行事だから、「桂園一枝」にも多数収録されている。現代のわれわれにはあまりおもしろくもないが、一夜の逢瀬を思い相聞歌を作って若返りの願いをこめるということもある。 

168 
七夕のくものころもはゆめもあらじふきなかへしそ秋の初風
二二九 七夕の雲の衣は夢もあらじ吹なかへしそ秋のはつかぜ

□此うた、こぎれいにいひたるなり。「雲の衣」は、かへしてねたとて、思ふ人を見るやうな衣でもなし。ゆめもありさうなこともなきなり。それ故に「ふきなかへしそ」となり。

○この歌は、こぎれいに言った。「雲の衣」は、(衣の裏表を)返して寝たとしても、思う人を見ることができるような衣でもない。決してありそうもないことである。それだから「吹き返さないでおくれ」というのである。

※ここでは自ら「こぎれい」と言う。七夕の歌は、宮廷や貴族の間では、年に一度儀礼的に制作したもので、和歌的な秩序の柱となるもの。このことは、今井優『古今風の起源と本質』などにわかりやすく説かれている。
 念のために言っておくと、二句から三句にかけての「雲の衣は-夢もあらじ」という語の斡旋を今に引き移してみるなら、これができる現代歌人はほとんどいないだろう。旧派の近世和歌からも真剣に学ぼうとしたのは、近代では窪田空穂およびその一部の弟子と玉城徹ぐらいなものである。かろうじて明治三十年代までは命脈を保っていた和歌の伝統を(学ぶことを)断ち切ったのは、子規や晶子ら新派歌人の系統の人々であるが、本人たちはそこから養分を汲み上げていた。いずれにせよ和歌と近代短歌は、基本的に別物であり、軽々に千数百年の伝統などと言わない方がいいし、子供たちにもそんな浮いたせりふを聞かせるべきではない。

169
小車のうしのあゆみの一年はめぐるおそしといかにまちけん
二三〇 小車(をぐるま)の牛のあゆみの一年(ひとゝせ)はめぐるおそしといかに待(まち)けむ

□牛の歩みのごとき一年は、となり。「小車の牛の歩みの一年」とは、「めぐる」までの序に云ふ也。
紅葉の橋、紅葉の枝を川にわたして渡るを云ふ。紅葉で大きなる橋を作りたるではなき也。
一寸したる川なり。又遠きにつき羽衣を以て飛だともあるなり。

○牛の歩みのような一年は、というのである。「小車の牛の歩みの一年」とは、「めぐる」までの序(詞)として言うのである。
「紅葉の橋」は、紅葉の枝を川にわたして渡ることを言う。紅葉で大きな橋を作ったのではない。
ちょっとした川だ。又遠いので羽衣でもって飛んだとも(別の書に)ある。

※後の二項、天の川から脱線した話題の筆記か。

170 七夕雨
晴れながらふりくる雨はたなばたの逢夜うれしきなみだなるらし
晴ながらふりくる雨はたなばたの逢夜(あふよ)うれしき涙なるらし

□実景なり。晴れながら一村雨なり。うれし泪のうたなり。
○実景である。晴れながら、さっと村雨が来ている。(やっと逢えたという)うれし泪の歌である。

171 七夕船
はるかなる年のわたりもかぎりあればこぎよせけりな天の川舟
二三二 はるかなる年のわたりも限りあれば漕(こぎ)よせけりな天の河舟

□つゑつき乃の字の話
○つゑつき乃の字の話。

※関連がわからないので、どなたか御教示を。

172 七夕後朝
一年をまたん別におとろへて花のかづらもしぼむけさ哉
二三三 一とせをまたむわかれに衰へて花のかづら(鬘)もしぼ(萎)むけさ哉

□天の五衰の一なり。かざしの花のしぼむなり。天人の花は常盤なれども、それも限あるなり。天人の眼の下より汗出づるも一つの衰なり。おとろへてくにやりしたることをいふなり。(小野)篁のうたに、ひる(※「な」の誤植)の別に衰へて、とあり。一時のおとろへをしかと知らするなり。後朝、古へ一つの語なり。後朝(ルビこうてう)の文といふこともあるなり。むすめの部屋に男が通ふなり。親もゆるすなり。男が通へるや否や、文をやるなり。是非此れ礼なり。古へのさまなり。別れてしまひたる所を後朝といふなり。さて後朝の文のこぬとあれば、女の家に大に嘆くことなり。「大和物語」に出たり。忠文の通ひたる女に故ありて後朝の文をやらざりしに尼となりたるに驚きたるふるごとなり。

○天人の五衰の一つである。かざしの花がしぼむのだ。天人の花は常盤(ときわ、永遠)であるけれども、それも限があるのだ。天人の眼の下より汗が出るのも一つの衰である。おとろえて、ぐんにゃりとなったことをいうのである。篁のうたに、「ひなの別に衰へて」、とある。一時におとろえたことをそれと知らせるのである。「後朝」は、昔の一つの語だ。後朝(ルビこうてう)の文ということもあるのだ。むすめの部屋に男が通うのだ。親もゆるすのである。男が通ったらすぐに、文をやるのである。かならず、これは礼儀である。昔の習慣である。別れてしまった所を「後朝」という。さて後朝の文が来ないとなると、女の家では大いに嘆くことである。「大和物語」に出ている。忠文が通った女に訳あって後朝の文をやらなかったところ尼となったのに驚いた昔の物語である。

※詞書「おきのくににながされて侍りける時によめる」「思ひきや-ひなのわかれに-おとろへて-あまのなはたき-いさりせむとは」たかむらの朝臣「古今集」九六一。

173 海辺七夕
たなばたのたむけ草とはからねどもみるめはあまの心ありけり
二三四 たなばたの手向草(たむけぐさ)とはからねどもみるめは海人(あま)の心あり鳧 享和三年

□長見る、又みる、ふさみるなどあり。七夕の日しもみるめを刈るなり。くさといふは元来物のまじりたる名なり。物とは見えぬ中に何ぞある時の詞なり。今草といふも色々まじりたるものをいふなり。手向草は手向物と云ふが如し。心ありけり、心ありげにみゆるを決定するなり。

○(「みる」は、)長見る、又みる、ふさみるなどの用例がある。七夕の日には特に「みるめ」を刈るのである。「くさ」というものは元来物がまじった名である。(それとはっきりした)物とは見えない中に何かある時の詞である。今「草」というのも色々とまじったものをいうのである。手向草は手向物と言うようなものだ。「心ありけり」は、心ありげにみえるのを決定(けつじょう、たしかなものと)するのである。

※「唐衣ひもゆふぐれになる時は返す返すぞ人はこひしき」読人しらず「古今集」五一五。
「みそぎする河のせ見ればから衣日もゆふぐれに浪ぞ立ちける」貫之「新古今」二八四。
「おのづからすずしくもあるか夏衣ひもゆふぐれの雨のなごりに」藤原清輔朝臣「新古今」二六四。 
    △このごろは暑いので、こういう歌もいいですね。

174 覉中七夕
ましらなく山下水にかげみればほし合のそらもそでぬらしけり
二三五 ましらなく山下水(やましたみづ)にかげみれば星合(ほしあひ)の空も袖ぬらしけり

□山下をいはんために「ましらなく」を出すなり。
都にありし時はいさましく星をまつるたらひにうつしなどしたるに、旅の様子をいふなり。「ましらなく」、悲しきもの故に山をいふに付て調度出すなり。

○「山下」を言わんがために「ましらなく」を出したのだ。
都にいた時はいさんで星をまつる盥に映しなどしていたが、(これは)旅の様子を言うのである。「ましらなく」(様子は)悲しいものだから山を言うのに付け合わせてちょうど出したのである。

175 憶牛女述懐
たなばたにこころをかして願はくはわが一年もながしと思はん
二三六 たなばたにこころをかして願はくはわが一とせも長しと思はむ

□たなばたは長く思はせらるるが、それに此方の心をかして此方も長く思ひしとなり。月日のはやくゆくをなげく男ありけりと物がたりに出たり。

○「たなばた」は長く思わせられるが、それに此方(こちら)の心をかして此方も(一年を)長いものと思いたいというのである。月日が早く過ぎ去ってしまうことを嘆く男がいた、と物語に出ている。

※「伊勢物語」九一段「むかし、月日のゆくをさへなげくおとこ」か。この一節がすっと口をついて出る景樹の古典の読み方が慕わしいと思う。それは詩美を感ずる端緒でもあろうし、また世の中のはかなさのようなものへの感度が、「伊勢」の作者ら古人と共鳴するところでもある。歌そのものはいたって平易で安らかで、現代人には物足りないかもしれないが、「たなばたにこころをかして」、という平淡な句に思いをこめるということの意味がここには説き明かされている。景樹のいう「古今」風を学ぶということの意義の一つはここにある。