さいかち亭雑記

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朔太郎の「老年と人生」

2017年03月17日 | 
萩原朔太郎の『猫町 他十七篇』というのが岩波文庫に入っていて、そのなかに「老年と人生」という随筆が収録されている。詩人は若い頃を回顧して、次のようなことを書いている。

「僕の過去を顧みても、若い時の記憶の中に、真に楽しかったことと思ったことは殆どない。学生時代には不断の試験地獄に苦しめられ、慢性的の神経衰弱にかかっていたし、親父には絶えず怒られて叱責され、親戚の年上者からは監督され、教師には鞭撻され、精神的にも行動的にも、自由というものが全く許されてなかった。何よりも苦しいことは、性慾ばかりが旺盛になって、明けても暮れても、セクスの観念以外に何物も考えられないほど、烈しい情火に反転悶々することだった。(略)その上僕の時代の学生や若者は、疑似恋愛をするような女友達もなく、良家の娘と口を利くようなチャンスは殆どなかった。」

 戦前の若者の置かれていた場所というのは、ここに書かれているようなものだったので、特に男女関係にかかわる場面での彼我の格差は歴然たるものだったわけだから、戦後に生れ育った人間は、口が腐っても戦前が懐かしいなどと言えるようなものではない。特に女性の権利の低さは無慚としか言いようのないものだった。さらに、軍隊のなかに放り込まれた下級兵士が受けた言後に絶する暴力は、教育勅語のなかの「汝臣民」という言葉の意味を痛烈に反問させる性質のものだった。

 話を朔太郎の文章に戻そうと思ったが、例によって結論の早い朔太郎節だから、書く前に話の接ぎ穂をなくしてしまっているのだが、すでに書き出してしまったので続けて引いてみる。

「五十歳なんて年は、昔は考えるだけでも恐ろしく、身の毛がよだつほど厭らしかった。」

 現代の五十歳と戦前の五十歳では、年齢についての感覚が異なる。現代人が老いても若々しく見えるようになったのは、栄養や労働に関する環境がよくなったせいである。昔の農民は日々激しい労働にあけくれたために五十歳ぐらいになると働き疲れて死んでしまったのである。武士や町人階級の者も、下の身分の者はほぼ慢性的に栄養失調だったから、いかに健康によい和食の生活を送っていたとしても蛋白質の摂取量が絶対的に不足していただろうから、長生はむずかしかったのだ。

 話は飛躍するが、思想や哲学、それから美術や「芸術」作品をその背景となっていたものから切り離して、それだけ取り出して読んだり鑑賞したりすることは、けっして無意味ではないし、第一それ以外のことはなかなかできるものではないが、そこのところをまるで考えないで何か言ったりしたりしてみても、あまり意味がないかもしれない。近現代の社会に関することでは、「思想」や「作品」をその発生現場にまで戻して、現在と比較しながら吟味することには、批評的な意味があるし、これが欠落していると、どうしても滑稽に見えることになる。

 そこのところをわかるように提示してみせるのが、ものを読んだり考えたりする者の責務だろう。思想と宗教の違いはそこにある。そうしてその宗教にしても、ただお経をとなえたり有難い言葉を暗誦したりするような単純なものではなくて、深い緻密な思考と両立できるものだということを、高田博厚や森有正のように西欧、特にフランスの芸術・思想にあこがれた昭和の知識人たちは真剣に受けとめていたと思うのだが、へたに先進国意識に染まってしまった現代の日本人には、自分の日常的な思考の範疇から外れるものへの懼(おそ)れが不足している。朔太郎の詩にあるような、「フランスに行きたし」と思っても、あまりにも遠い「フランス」は、理念的な憧憬が託された場所だった。それぐらいに、戦前は自由がない社会だった。

 朔太郎の散文を読むと、すでに滅んだ「芸術家」意識にぶつかってほほえましいのであるが、朔太郎は市民という者がスノッブであることへの恥じらいを取り戻させてくれるところがあるので、そこは今でも十分読める。朔太郎を青臭くて読めないと言った日夏耿之介のような貴族主義の立場もあるが、そういう人は別に読まなければいい。そもそも朔太郎は詩人なのだから、やはり詩の方を先に読むべきだ。

ついでに思い出したので書いておくと、藤沢駅の南口二階舗道に設置されている高田博厚の彫刻の頬のところに黒い汚れがついていて、いつもみるたびに痛ましい思いがしてならない。これは何とかならないものだろうか。

付記。藤沢駅北口にも高田博厚の彫刻があったのだが、改装工事が終わったら、何と撤去されてしまっていた。どこに行ったのだろう? (2020年.4月記)

 


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