さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

散読備忘記 付随して平塚美術館の展示について

2022年05月08日 | 本 美術
 私はなんとなく文章を書き続けるということが好きな人間なので、読むということも好きだけれども、書いているときの方がさらに調子がいい。近年は、何を読んでもおもしろいので、気分に任せて本を衝動買いする。そういう本について何か書けば、おもしろいのかもしれないが、世の中にはコメントがあふれているし、私にできることは、自分の比較的得意な分野について書くこと以外ないのではないかと思ったりもするのだが、だいたい誰が読んでいるかもわからないものを書くのは、弔砲。  ※「弔」の字を後日訂正しました。

というタイトルの詩集が嶋岡晨にあったな。朔太郎にも大砲を撃つ詩があったけれども、あれはだいぶ性的なニュアンスの漂うものだった。

私は1977年頃、高校生時分に林武の展覧会を見に行って衝撃を受けた人間である。だから、近代洋画や戦後美術への好みは死ぬまで捨てられない。今やっている平塚美術館の最新の展示が、「削る絵、ひっかく絵」というのもので、所蔵の井上三綱と鳥海青児の作品を中心にした展示だった。井上三綱は村上春樹の「騎士団長殺し」に出て来る画家のモデルなのだそうである。この展示には、近いうちにもう一度行きたいと思っているのだが、諸方で話題になった山内若菜さんの絵が二点、南の壁一面に並べて良いコンディションで展示してあった。原発事故で殺処分された動物たちへの思いを表現してきた作者の「刻の川 揺」を見に行こうと思ったのは、「図書」の三月号に紹介されていた作者の文章を読んだからである。

図書館から林芙美子の全集を借りて来て読み始めた。『風琴と魚の街』はそのむかし旺文社文庫で読んだことがあるが、今度読んでみると、記憶している部分は皆無に近かった。近代文学館の復刻本で『放浪記』を読んで、林芙美子の作品を読んでみたくなったのである。今日は全集第三巻の冒頭の「稲妻」を読んでみると、古着屋を営んでいる小商人の生態の描き方などは、本人が子どもの頃から苦労しているだけあってうまいものである。こういう日本の小説には、世界に通用する普遍性があると私は思うものだ。

それで、「本の雑誌」という月刊誌があって、買いたいと思うけれども小遣いの都合からなかなか買えないのを、ときどき古書でみつけて買ったりするというようなことがあり、最近そのバックナンバー(去年の十月号)の中に見つけておもしろかった文章が、老眼で本がよみにくくなってきたので、Siriに『三体』を読んでもらったら、ほぼ「脳トレ」に近い事態が発生して面白かった代わりに、不思議な疲れ方をしたという ミミ中野 さんの体験エッセイだった。私はスマホでSiriに何か言われても拒否し続けている人間なので、こういう目にあうことはないのだが、機械に好きな本を朗読してもらって、それを聞きながら眠れる、というのは、高齢化社会向きのサービスだな。ミミ中野さんが試した時点でのSiriでは、それはだめだったとして、十年もしたらもっと性能が向上して、こういう体験はできなくなるかもしれない。

ちなみに私が最近やってみたいのは、自分で詩などを朗読してウェブにあげるというものだが、どうなんだろうね。寺山のビデオ・レターみたいなやつ。ユーチューブの方が早いか。けれども、「自撮り」という言葉が、私は嫌いで仕方がない。また朔太郎にもどって、彼らが自涜(これは略字
で「じとく」の「とく」)と呼んでいたものに近いことを公衆の面前でブロガーと呼ばれる人達がやっている。中には差別と「逆張り」で自分を売っている人もいるという。この「逆張り」というのも、しかし、いやな言葉だなあ。 
     ※後半の二つの段落は、6月18日に編集し直して、追記しました。

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