私は以前、作者の第二歌集『木に縁りて魚を求めよ』を一種のあこがれを持って見上げるような気持で読んでいたことがある。あれからずいぶん時間がたった。作者を取り巻く社会的な環境が大きく変わって、今度の歌集では、作中主体のイメージを、京洛の文学的な古跡をさすらう孤独な文学青年から、一か月に五〇をこえる「源氏物語」などの古典文学についての講座を担当して東奔西走する人気講師へと取り換えなくてはならない。けれども、うたげのなかの孤心を語るところでは、以前と変わりのない作者独自の現実に対する切り口のようなものがあり、それは徹底して修辞的なものであるのだ。つまり、言葉によって、とりわけ修辞のキレを通してそれは出て来るものなので、そこのところの癖のようなものを見せる時に、あまり韜晦しなくなったところが、今度の歌集では大きく変わった点かもしれない。たとえば、
沈黙のなかに棲みつく黒い犬を見ながら話す、いや話さうとする
これは、自分の話を聞きながらだまっている聴衆を前にしてとまどい、自分の言葉が受け入れられているのかどうかを測っている時の緊張感を言ったものだ。
五月、自分をあなどつてはいけない五月、自分がどれほど恐ろしいかを
真剣な口調だけれども、ここにはかすかなユーモアが滲んでいて、最後まで押していくつもりはない。自分にだけ言っているのではなくて、より強く自らに言ってはいるけれども、他人にも言っている。そのことと文体とはたぶんかかわりがあって、作者は自他ともに認める塚本邦雄の弟子だが、この歌集の軽妙洒脱なポップな文体はむしろ岡井隆を連想させる。
岡井隆の方法は、今度の「短歌往来」一月号の江田浩司の評論の言葉をかりて言うなら「他者」の視線を織り込んだ短歌の文体の創出という点に特徴がある。林和清などは、今の若手のそういう文体の走りのようなところがある。その意味で現代の若い作者たちの再読に値する作者と言えよう。
ゆるいアイスに匙挿しながらあの人も死んでよかつたなどと言ふ口唇
※「口唇」に「くち」と振り仮名。
歌人ていふ厭なくくりだこんなにも君と俺ではちがふぢやないか
二首ともユーモラスな歌。こういう歌が多くなったところが、現在の作者の余裕と言えば言えるし、また短歌そのものに対してそれだけ醒めた見方をしているのだとも言える。
塚本邦夫はサル年だつたといふ話題 鯉の甘煮の骨吐きながら
呼子鳥とは猿の啼く声だつたかな変はらぬ繖山の稜線
※「繖山」に「きぬがさやま」と振り仮名。
この歌にもユーモアが漂っている。なかなか高級な、事情を知っているほど面白みの増すとぼけた表情をみせている歌である。今日はここまで。
沈黙のなかに棲みつく黒い犬を見ながら話す、いや話さうとする
これは、自分の話を聞きながらだまっている聴衆を前にしてとまどい、自分の言葉が受け入れられているのかどうかを測っている時の緊張感を言ったものだ。
五月、自分をあなどつてはいけない五月、自分がどれほど恐ろしいかを
真剣な口調だけれども、ここにはかすかなユーモアが滲んでいて、最後まで押していくつもりはない。自分にだけ言っているのではなくて、より強く自らに言ってはいるけれども、他人にも言っている。そのことと文体とはたぶんかかわりがあって、作者は自他ともに認める塚本邦雄の弟子だが、この歌集の軽妙洒脱なポップな文体はむしろ岡井隆を連想させる。
岡井隆の方法は、今度の「短歌往来」一月号の江田浩司の評論の言葉をかりて言うなら「他者」の視線を織り込んだ短歌の文体の創出という点に特徴がある。林和清などは、今の若手のそういう文体の走りのようなところがある。その意味で現代の若い作者たちの再読に値する作者と言えよう。
ゆるいアイスに匙挿しながらあの人も死んでよかつたなどと言ふ口唇
※「口唇」に「くち」と振り仮名。
歌人ていふ厭なくくりだこんなにも君と俺ではちがふぢやないか
二首ともユーモラスな歌。こういう歌が多くなったところが、現在の作者の余裕と言えば言えるし、また短歌そのものに対してそれだけ醒めた見方をしているのだとも言える。
塚本邦夫はサル年だつたといふ話題 鯉の甘煮の骨吐きながら
呼子鳥とは猿の啼く声だつたかな変はらぬ繖山の稜線
※「繖山」に「きぬがさやま」と振り仮名。
この歌にもユーモアが漂っている。なかなか高級な、事情を知っているほど面白みの増すとぼけた表情をみせている歌である。今日はここまで。
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