さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

考える時間を与えないでおいて「考える能力」を問うことについて

2022年01月17日 | 大学入試改革
※消してあったが復活する。

 今度の大学共通テストの「国語」の問題について、大方の講評は、解くための時間数が不足がちであるということだ。短時間のうちに大量の字数の文章を読み、そうして速い速度で問題を解かなくてはならない。問われるのは、事務作業の精密さと正確さであって、着想力や構想力や創造力ではない。まして「考える」〈能力〉など問うべくもない。さらに、こういうことの苦手な一部の天才系のひとたちをみすみす排除する出題形式であると言える。

※追記 「数学Ⅰ」の難問化が話題になっているが、予備校の先生は「現代文」などもしっかり勉強しよう、というアドバイスを発信しているけれども、これも要するに、こういうことの苦手な一部の天才系のひとたちをみすみす排除する出題形式であると言える。

 さらに、複数の資料、複数の文章という問題の外見も、それが「複数」であるということの必要性があまり感じられなかった。引っ込みがつかなくなったので、仕方なくアリバイ的にやっているようにしか見えなかった。フィクションの対話形式は、端的に言うならば、偽りの例文だから、それが規範的な重みづけを伴って流通してしまうと、日本語それ自体の劣化を招くことに結びついてしまう。

 社会とか社会性というものについて、それが人為的に操作可能であるという考え方、そういう傲慢な思い上りが、あの偽りの対話形式の背後にはある。それは自分より年下の、仮定された年少者の独創性とか才質とか、そういったものの軽視が先立って存在するから、平気でああいった悪文が書けるのだ。

 神奈川県の高校入試の国語の問題など、文科省の意向を忖度した奴隷根性見え見えの酷い会話体の問題が公表されている。あれは読んでみると実に不愉快で気持が悪いものである。しかもあの対話形式の文章には署名がない。リテラシー教育を言うなら、署名や書名、出典の記載がない記事はまず疑ってかかれというのが本道ではないか。