往還という言葉があるが、私はすでにして還路にさしかかっている。だから、むかし読んだ本をほじくりかえしてみると、ずっと自分を規定して来た言葉がみつかったりする。今日はその一つを書いてみることにする。
「だいたい小学校の時からさらされている試験制度という問題があって、小学校、中学校で九年あるわけよね。その後、高校を足すと十二年で、大学を加えると十六年。今、現役で大学に入る人が二十九%(1985年当時)というんだから、その間に一年か二年浪人の期間を足すと合計十八年ぐらい試験にさらされているということになる。日本の試験というのは、選択肢が与えられていて、どれが正しいかという問題で、正しい答というのは教師が持っているということになっているわけだ。これは嘘なんだけどね、本当は。しかしそれに合わせて答の番号を書いて採点してもらうわけだから、したがってこれは、自分で考えるということとあまり関係ないわけだ。それも、早く、早くというわけで、これもまたオーバー・コミュニケーションの一種だね。幼稚園、小学校から大学の終りまで、二十年近くもオーバー・コミュニケーションの中にいるんだからね。その中である種の人間ができてしまう。
この試験制度はいやだからといって、試験から抜け出す道がない。抜けだす道はあるわけだけど、それで出世する人というのは、歌手だとか、スポーツ選手でね。これはものすごく大変な仕方で玉を打ち返さなきゃいけないから、これは試験以上のオーバー・コミュニケーションの勝利者なんだ。そうすると、オーバー・コミュニケーションと対立する道というのは、この世で沈んでいく他に、ちょっと道がないみたいね。それは今の小さなメディアの問題とも結びつくんだけれども、それが今の状況、つまり、考えるためには世の中の底に沈む方法が残されているんだけれども、その他はむずかしいなあということね。」
対談集『思想の舞台』119ページの鶴見俊輔の言葉
ここで「この世で沈んでいく」ということは、肯定的に語られているのであって、試験を受けない子供たちは、鶴見の言う「オーバー・コミュニケーション」から降りてしまっているわけだから、その分「ある種の人間」とは別の人間として生きてゆくための道をつけていると言えないことはないわけである。そこで物事を考えようとすると、「世の中の底に沈む方法が残されている」と鶴見が発言しているのは、ドロップ・アウトを生き方のひとつの方法として打ち出しているということである。それは単に降りてしまっただけのことだから、何らやましいことはない。何一つ悪いことをしているわけでもない。
そうすると、ここから「オーバーコミュニケーション」以外の生き方を模索することが始められることになる。スマホにしろパソコンにしろ、究極的な「オーバーコミュニケーション」の道具なのであり、今度大学共通テストの科目に「情報」が加えられることになったが、時代の必然として、いまの「オーバーコミュニケーション」社会を維持するためには、「加速機械」を正しく有効に使えるようにすることが正しい行き方なのである。
この社会は、「オーバーコミュニケーション」についていけない人たちを置き去りにしてこれまでずっと進んで来た。身体的・精神的に病気や障碍を抱えている人たちから見るときわめて理不尽にみえる、この日本社会の持っている酷薄さ、残酷さと暴力性、差別と排除の力、そういうものに抗うためにも、鶴見の言葉は読み返されていいのではないかと私は考える。
「だいたい小学校の時からさらされている試験制度という問題があって、小学校、中学校で九年あるわけよね。その後、高校を足すと十二年で、大学を加えると十六年。今、現役で大学に入る人が二十九%(1985年当時)というんだから、その間に一年か二年浪人の期間を足すと合計十八年ぐらい試験にさらされているということになる。日本の試験というのは、選択肢が与えられていて、どれが正しいかという問題で、正しい答というのは教師が持っているということになっているわけだ。これは嘘なんだけどね、本当は。しかしそれに合わせて答の番号を書いて採点してもらうわけだから、したがってこれは、自分で考えるということとあまり関係ないわけだ。それも、早く、早くというわけで、これもまたオーバー・コミュニケーションの一種だね。幼稚園、小学校から大学の終りまで、二十年近くもオーバー・コミュニケーションの中にいるんだからね。その中である種の人間ができてしまう。
この試験制度はいやだからといって、試験から抜け出す道がない。抜けだす道はあるわけだけど、それで出世する人というのは、歌手だとか、スポーツ選手でね。これはものすごく大変な仕方で玉を打ち返さなきゃいけないから、これは試験以上のオーバー・コミュニケーションの勝利者なんだ。そうすると、オーバー・コミュニケーションと対立する道というのは、この世で沈んでいく他に、ちょっと道がないみたいね。それは今の小さなメディアの問題とも結びつくんだけれども、それが今の状況、つまり、考えるためには世の中の底に沈む方法が残されているんだけれども、その他はむずかしいなあということね。」
対談集『思想の舞台』119ページの鶴見俊輔の言葉
ここで「この世で沈んでいく」ということは、肯定的に語られているのであって、試験を受けない子供たちは、鶴見の言う「オーバー・コミュニケーション」から降りてしまっているわけだから、その分「ある種の人間」とは別の人間として生きてゆくための道をつけていると言えないことはないわけである。そこで物事を考えようとすると、「世の中の底に沈む方法が残されている」と鶴見が発言しているのは、ドロップ・アウトを生き方のひとつの方法として打ち出しているということである。それは単に降りてしまっただけのことだから、何らやましいことはない。何一つ悪いことをしているわけでもない。
そうすると、ここから「オーバーコミュニケーション」以外の生き方を模索することが始められることになる。スマホにしろパソコンにしろ、究極的な「オーバーコミュニケーション」の道具なのであり、今度大学共通テストの科目に「情報」が加えられることになったが、時代の必然として、いまの「オーバーコミュニケーション」社会を維持するためには、「加速機械」を正しく有効に使えるようにすることが正しい行き方なのである。
この社会は、「オーバーコミュニケーション」についていけない人たちを置き去りにしてこれまでずっと進んで来た。身体的・精神的に病気や障碍を抱えている人たちから見るときわめて理不尽にみえる、この日本社会の持っている酷薄さ、残酷さと暴力性、差別と排除の力、そういうものに抗うためにも、鶴見の言葉は読み返されていいのではないかと私は考える。