さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

「無常といふこと」と「おしゃべりの世紀」

2022年01月10日 | 
 『無常といふこと』の末尾に収録されている対談の最後に、鶴見の「過剰コミュニケーション」と通ずる小林の言葉がある。引いてみる。

「江藤淳 
人と人が触れあえなければ、何も経験できないわけでしょう。文字を読んでいたって。そうすると文字というものはなんでしょう。

小林秀雄 
君はさわってくるということを言うが、ウィリアム・ジェームス流に言うと、さわるという感覚は、生物にいちばん基本的な感覚なのです。進化論的にはアミーバ以来のね。現代はこの感覚が文化の上で衰弱した時代と考えられないかね。さわるというのがいちばん沈黙した感覚なのです。ぼくが物を見るというのも、さわるように見るという意味なんです。現代はおしゃべりの世紀なんだ。だから、いったん黙ると、狂人のように行動するだけだ。 (昭和三十六年一月)」

 小林の「現代はおしゃべりの世紀なんだ」ということと、鶴見の「過剰コミュニケーション」とは響きあっている。この「おしゃべり」というのは、「物」を見ないための「おしゃべり」なのだ。

 では、「見る」というのは、どういう含意でここでは語られていたか。引いてみる。

「小林秀雄 
(前略)
ぼくは審美家ではない。ただ目が物を見るということを重んずるのですよ。リアリズム小説が、変わってくるのはよい。だけど、物が見えなくてはだめじゃないですか。永井荷風の思想を、どうこう批評するのはよろしい。だが、神楽坂なら神楽坂を慎重に見るという態度は、あの人の死とともに終わってしまった。それが重点なんだな。あの人は何をおいても、物をよく見る人であった。そこが大事なんだな。
 私小説が、だんだん変わったものになる。それはそれで少しもかまわぬことだし、当然なことでしょうが、そのために日常経験というものが紛失していいわけはないでしょう。文学から美が失なわれたといえば、美などどうでもいいと言うでしょう。
 実は美が誤解されたのです。誤解されっぱなしなのです。美なんか見ていない現実を見ている、などと言うのです。だが、現実の材質を見ない。現実の膚や土を見ない。絵付けを見ているのです。現実の土から、どんな男女が、造化の力によって作り出されているかを見ない。現実はある構成物として見えているのですよ。それを分解し構成する。その手つきを誇っているように思えてならない。
 ひと昔前の作家は、女が描けていいるとかいないとかよく言ったね。ああいう言葉は意味深長なものだ。もうそんなリアリズムは不要だ、ということでは済まぬものがあるのです。リアリズムという形式とは一応異なった内容があるからです。
 それは女をじかに見ているとか、経験しているという意味なのだ。目のたしかさを言うのです。言ってみれば、女にも焼き物のように、本物からにせ物に至る無数の段階がある。解釈などをまずいっさいすててこれにつきあってみて、はじめて見えてくる材質があるのです。それをつまえていなければ、文学なぞありようがないではないか。」

 ここで言われている「私小説」とか「文学」といった語をXとして、ここに別のことばを代入してみれば、小林の言葉の持っている含蓄と批評性が、はっきりしてくる。現在われわれの目にしている物のあれこれのニセモノ性にまで、この言葉は届いていると私は思う。

 コロナ下で、ある種の劇映画を流行らせるほどに退廃してしまった「おしゃべり/反おしゃべり」に対する鈍感な感覚(沈黙がまったく表現できてないのに、それをよろこんで受け入れるような感覚)を常態としてわれわれは生きているわけだから、これをまともな皮膚感覚のあるところにまで回復するのは容易なことではないと私は思う。

 ところで、ここで小林が「造化」という言葉を用いているところが、私には気になる。造化において、人間とそれ以外の物との間に上下関係はないのか。宋学に関して、私にはそういった点が気になる。