さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

恩田陸 「モーツァルトの上澄み」と「オグネ」

2017年01月23日 | 日記
 恩田陸さんが直木賞を受賞した。この人ぐらい豊富なイメージ記憶を駆使して物語を書ける人は稀である。たしか無類の短歌好きでもあったはずだ。
何か恩田さんにふれたものがないかと、探してみた。以下は「美志」3号(2012.3)の「雑感」全文。

1・聞こえてくる声
 古書を引っ繰り返してめくっていると、時々思わぬ美しい文言を見いだして驚くことがある。加藤楸邨の『奥の細道吟行・上』(昭和四九年二月刊)より。

 「…ひそかに思いかえしてみると、その歩きまわった中学生の頃のいろいろの印象の中に、ずっと私の中を伏流のように流れつづけている思いがあったように思う。一つは、はるかな遠くから一本のまがりくねった細い径が私の足許につづいているという思いである。(略)もう一つは、その頃の印象の中で暗い闇の中から、かならずといってよいくらいゆらめくようにきらきらするものが目に見えてくるということである。これは今でも古美術を見たり、古硯を見たり、書画を見たりするとき、かならず私の中に起ってくる心のうごきであって、目を細めたり、息を深くしたり、何かの障礙を乗り越えたりしないと、何も見えてこないという性癖のようなものがある。」

 人は、自分が青春の頃に培った生の感覚、美についての感受性のようなものを、手放さないで生きてゆくものなのだ、と言っているようにも思えるし、また、中学生の頃に感じた幽遠な寂しさと、何物か、遠い無限なものとのつながりの感じを体の中に残していて、その感覚を蘇らせるために古美術などに接することを必要とするのだと言っているようでもある。

 これと同じような心の動きについて、もっとわかりやすく書いている文章を見つけた。恩田陸の小説で、『六月の夜と昼のあわいに』(二〇〇九年)所収の「恋はみずいろ」という短編だ。
 語り手が幼い頃から、美しいものや、心をひかれものに接すると、かならずある声が聞こえて来たのだった。それを語り手は、「あの人の声」と呼んでいた。

 「モーツァルトの上澄み。
 東京駅で演奏を聴いた瞬間から、私はそのことについて考えていました。
 明快なメロディが高い天井をさざなみのように駆け抜けた時、私は確かにあの人の声を聞いたのですから。」

 老境に入って故郷に戻った語り手が、山里と田園の地を歩いていると、しばらく聞こえなかったその声が、再び聞こえて来るのである。
 私は知人と恩田陸のことを話題にしたことがない。たぶん主な読者たちと私とでは、世代がずれているのだ。つづけてこの小説には次のような一節がある。

 「オグネというのは、東北の平野にある屋敷林のことをそう称しています。」

 「稲穂の海は多島海です。黄金色の波に沢山のオグネが浮かんでいます。」

「教科書で西脇順三郎の詩を読んだ時、私はこのひともオグネの浮かぶ海に立ったことがあるに違いないと思いました。」

 オグネのように陽が当たり、風のそよぐ場所。人生においても、さまざまな移動や、旅のさなかにおいても、われわれはそれに出会う。それは、移ろいやすいわれわれの経験の核のようなものとして、われわれの注意と関心のまととなり、時には哀惜の対象ともなるものだ。
 それらはいつも超越的なものである必要はない。生の感覚の愉楽と結びつきながら、すぐには見えたり聞こえたりしないけれども、同時に案外なつかしくて近しいものなのだ。そうしたもの、「あの人の声」について語る能力を、われわれは取り戻さなくてはならない。それが、詩歌の仕事であったはずである。

  あくがるる心は野べのいとゆふのつなぎもとめぬ花にみだれて 
                      三条西実隆『雪玉集』

 2・後期の西脇順三郎

 このごろ西脇順三郎という名前は、ある種の詩歌人の間でひそかに符牒のように流通している。何年か前に、全歌集を出した岡井隆のために催された会で、パネラーをしていた穂村弘が、西脇順三郎の名を口にするのを聞いたことがあるし、岡井隆自身も頻繁に西脇の名を口にしている。

 私なりに整理してみると、大岡信に代表される戦後詩人の幾人かが、中期以降の西脇詩を厳しく否定したことが、長い間西脇詩の評価をにぶらせて来た。でも西脇の愛読者は、そんなことを気にしないで、中期以降の作品を愛読して来た。その評価の高まりと、新編の岩波文庫詩集に中期以降の作品が多く収録されていることは関係があるかもしれない。

 何年か前に、私は西脇の詩について歌誌「未来」に連載した「読みへの通路」というエッセイに書いたことがある。私はそこで近年著作集の第一巻が出た言語学の奥田靖雄の論文を利用して、西脇詩における説明の「のだ文」の使用と、「私性」の関係について書いた。その後同じテーマで西脇詩の研究者が、著書にまとめたものを発見したので、ここに取り上げることにしたい。

芋生裕信著『西脇順三郎の研究』(新典社二〇〇〇年刊)から紹介してみよう。
 「例えば、『近代の寓話』以降の西脇詩の文体を決定づけている大きな要素に、「だ」「のだ」を伴った文末表現があるが、この「だ」「のだ」体が、(改作詩集)『あむばるわりあ』の中ですでに試用されているからである。」(同書一五一ページ)

 この「だ」「のだ」表現は、「(昭和)二六年に至って「僕はようやく詩の方法がわかってきたような気がする…これをどんどん進めていこう」と作者自身が語ったと言われるように、文末表現として定着することになる。」(同書一五三ページ)

 同書によれば、西脇は『近代の寓話』では、十一行に一回のペースでこの「だ」「のだ」表現を用いている。それ以後の詩集では十行から二十行に一回のペースを保って行く。
 次に私が以前書いた文章を引用したい。
 
岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を例にとる。「私」を主語として「~のだ」で結ぶ典型的な〈解説〉文は、著名な第一詩集『ambarvaliaあむばるわりあ』(昭和八年刊)にほとんど出て来ない。ひとつ引用してみよう。
  ※   ※
     雨
 南風は柔い女神をもたらした。
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、
 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
 潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
 この静かな柔い女神の行列が
 私の舌をぬらした。

 この詩集の特徴は、右のような詩にあるということになっている。文末が「~た」からなる〈描写〉文の詩である。高校でまず教わるのが、冒頭の次の詩である。

    天気
 (覆された宝石)のやうな朝
 何人か戸口にて誰かとさゝやく
 それは神の生誕の日。

 これは、若い人に詩についての先入見を与えるという意味では、なかなか影響が大きい詩なのだ。しかし、これを模範として詩を作るのは難しい。
本格的に西欧語を習得した作者が、客観的な〈描写〉文を基本として詩を構成することは、自然ななりゆきである。この詩集には、難解な「失楽園」など、後年の作者の萌芽が見える詩が収められているのだが、そこに出てくる主語の「おれ」は、戦後の述懐の話法(おのれ語り)をもって書かれた詩と地続きである。

それとて、後年の仮名のタイトルの『あむばるわりあ』(昭和二二年刊)の改作では、作者は「おれ」を取り去ってしまったかたちで整理したりしているから、この詩人にとっても、語りの主体のありようは、大きな課題だったことがわかる。しかし、その詩人が、第二詩集『旅人かへらず』を経て、『近代の寓話』以降、「私」を主語とした「~のだ」を多用する詩境に移って行った、ということのなかに、私は日本語の生理のようなものについての作者の自覚の深まりがあると思う。

    無常
 バルコニーの手すりによりかかる
 この悲しい歴史
 水仙の咲くこの目黒の山
 笹やぶの生えた赤土のくずれ。
 この真白い斜塔から眺めるのだ
 枯れ果てた庭園の芝生のプールの中に
 蓮華のような夕陽が濡れている。
 (略)
 饗宴は開かれ諸々の夫人の間に
 はさまれて博士たちは恋人のように
 しやがんで何事かしやべつていた。
 (略)
 やがてもうろうとなり
 女神の苦痛がやつて来たジッと
 していると吐きそうになる
 酒を呪う。
 (略)
 客はもう大方去つていた。
 とりのこされた今宵の運命と
 かすかにをどるとは
 無常を感ずるのだ
 いちはつのような女と
 (以下略)

 五行目の「この真白い斜塔から眺める」主体が、作者・「私」であることを読者は疑わないだろう。その結びは「~のだ」である。酒の女神と踊ることに「無常を感ずるのだ」という私語りとしてせり出してくるのが、日本語の〈解説〉文なのである。」
   ※   ※

 ここで、もう少し芋生裕信の「のだ」についての説明を引いてみよう。

 「「のだ」の語りかけは、作者から読者への一方的なものではなく、表現主体の中に話し手と聞き手の関係があり、その関係全体を読者が受け止めるという構造で理解すべきではないだろうか。」(略)対話の関係として生きて動く詩人の内面が「のだ」によって露わになるということは、文法論で説明される「二重判断」に関わっていると考えられる。」

 「「『のだ』はいわゆる文相当の表現に付いてそれを素材化」(鈴木英夫)すると言われる。このことを敷延すれば、第一次判断の主体を旧主体として素材化して、新主体が現れ、そこに自己素材化による自己更新的な動性をとらえることができる。」 これ続けて著者は、昭和三十年前後に連詩をやっている知人に対して、西脇が「自分が一人でやっていることを、君達は二人でやっている。」と語ったという証言を紹介している。

 私は、この考え方を岡井隆の連作の解釈などにも応用できるのではないかと思う。つまり岡井の短歌は、一首一首が「のだ」文のような形で成立している詩の型式であると言うことができるだろう。つまり、短歌の連作を自己内対話の展開する動的なものとしてとらえるわけである。むろんその場合には、対話を促す積極的な詩的な契機が、作者自身によって模索され、とらえられているものでなければならないということは言えるのだけれども。

 3・永田耕衣の俳句について

 朝日文庫の「現代俳句の世界」全十六巻が出そろったのは、昭和六十年。これは若いころ本屋に注文して全部そろえた覚えがあるが、書架のあちこちに散ってしまっていて、それを私は時々掘り出す。カバー挿画は、宇佐美圭司で、シャボン玉のような球体のなかを歩く人の形が、簡潔にスケッチされている。一時代のスタイルを作った絵柄だから、見覚えのある人が多いのではないだろうか。第十三巻は、永田耕衣、秋元不死男、平畑静塔の選集である。いま目に入ったのは、

 生涯を独活まで来たる思いかな  
               ※「独活」に「うど」と振り仮名。

 昭和五三年作 永田耕衣『殺祖』より

 年譜を見ると耕衣七十八歳の時の句。独活は、禅で言う大愚だろう。これは語感から受ける感じが強い句だ。でも、独活を食べる時には、土の持っているみずみずしい力を季節からそのままいただくような気がする。一句の含みとして、作者には老いても独活のような質朴ないのちがある、ということなのか。独活の収穫は、テレビで見たことがあるが、地下の穴蔵のようなところにもぐってするのである。この句そのものは、冷えていて、熱くない。〈生涯〉は、ここでは認識としてあるのだろう。だから、独活に比せられるものは、別に生涯である必要はないとも言える。書いてみてわかったが、あまり好きになれない句だ。有名な

 近海に鯛睦み居る涅槃像

にしても、右に私が指摘したような冷えたところがある。エロティックだが、つまり生の根源に触れていながら、同時に生に向かう正のエネルギーを滅却している。この句が共感を呼ぶとしたら、人は(生きているものは)必ず老いるという事実があるからだ。そのかなしみに触れるように、鯛はお互いの体を寄せ合っている。そこだけ周囲の水があたたかい。この句は涅槃会を連想して、春の季感を先に受け取って読むと印象がやわらぐけれども、ここでは句に内在する観念の刃の方に注意をむけてみた。

 死螢に照らしをかける螢かな  
墓の意のままに動きて墓参人
   昭和三〇年
 母の忌に亡父讃めらる梅の花       ※「讃」に「ほ」と振り仮名。
               昭和三一年  

 われわれの生というもののなかで、死は常に一定の地歩を占めている。それを作者は句のかたちにして突き出してみせる。ただ、死と死者のたしかな実在感は、もっとあたたかくうたうこともできるはずだ。でもこの作者はそうしない。

 老人やみみず両断されともに跳ね
          昭和三五年『悪霊』

こんな残忍な句は、そうあるものではない。年譜を見ると六〇歳の時の句である。この詩精神は若々しいとも言える。どうしてこんな句を作るのか。少し謎解きをしたくなって来た。

 白桃やニヒリズム即ヒュウマニズム
         昭和四七年『冷位』

 こういう哲学に突き当たるのか、と思う。まさか、サルトルではなかろうと思う。これが俳句でなかったら、「ニヒリズム即ヒュウマニズム」ということは、あり得ない。両者は別物である。その程度には、思想というのは厳密なものである。でなければ、ただの感傷的な思想にすぎない。何なら「白桃やテロリズム即ヒュウマニズム 」とでも言い換えてみたらわかる。絶対矛盾だ。もう少しまともな解はないのか。ヒュウマニズム批判とすると、「白桃やニヒリズム即アメリカ式ヒュウマニズム」というようなことになるが、これだと随分浅く感じられる。この場合は、ベトナム戦争、最近ではイラク戦争をしたアメリカ批判だ。

 しかし、やはりこの句は、作者の作句上の覚悟を語るものなのだろう。詩型の生理というのは、それを長年続けていると、体に染み入って来る。俳句が生きているのか、本人が生きているのか、区別がつかなくなってくる。そういうところで作者はこの白桃の句を吐き出したのだろう。根底にニヒリズムがあって、そこでようやく成立するヒュウマニズム。そのような俳句、俳句的認識。先程から私が指摘している、なまなましい生の現実を言葉でつかみながら、同時に冷えているという作者の特徴は、これに由来するのだ。

 ここで作者の散文集『陸沈絛絛』を取り出してみる。私は同じ著者の『名句入門』を以前愛読したことがあるので、いつか読もうと思って買って持っていた。めくってみると、禅と俳句の詩法に関するとてつもないことがたくさん書いてあって、かえってこちらが落ち着いて作品に向き合うことを邪魔する。私は自分の頭を動かしたいので、永田耕衣の作品をよりよく理解するために、いまここで『陸沈絛絛』の自注の文章などを引く必要はないだろうとは思ったのだが、一カ所だけ、やはり引いておきたいと思う。禅へ傾斜する精神的な傾向は、この人の初期からのものだが、それを加速したのが、特高警察による新興俳句弾圧と戦争だったというのである。

 「さて話は私が「鶴」同人に推された昭和十五年十月直後頃のことに戻る。某日をきつかけに小野蕪子から「仮面を脱ぎ給へ」「弾圧の手が伸びている、庇護すべきや否や」といつた苛酷な文面のハガキが、二日置き位に数回にわたつて舞ひ込んできた。全く突如とした悪魔的なわけの分からぬ文面であつた。小心者の私は事の容易ならぬ状態に戦慄し、何が何だか分らぬまま「ヒゴタノム」の電報を打つた。時恰も新興俳句陣の面々が次々と検挙された十五年二月から十六年二月に至る期間の後期に当つてゐた。」
 「私は昭和十六年四月以降ぷつりと俳句をやめてしまつた。然し、何のイワレで好きな俳句を止めなければならぬのかといふ反問が直ぐ湧いてきた。」それで十二月には復活したが、「強制さるる感のままに戦争への迎合的態度を、半ば保身の術と心得て露呈しないわけにはゆかなかつた。一方私は益々禅に凝り、人間存在の根源に触れようと努力した。それは権力への屈従感に自ら反抗し、自主性を挽回するの心理操作に大いに役立つた。」
  
 この人は戦争中の自分について、自分の弱さと妥協した面について、それから弾圧された経験と、それでも抵抗しようと試みた部分について、正直に語っている。こういう人物は、ほとんど稀であり、たとえば平野謙の戦時中の履歴隠しなどとくらべたら、本当にさわやかである。これは山中恒が言っていたが、児童文学者の浜田裕介などは、戦後古書店を虱潰しに回って、戦時中に自分が戦意高揚のために書いた著書の隠滅につとめたそうだ。

 4・河野愛子の歌について

 細川布久子著『わたしの開高健』という本を書店で手にとって、あとがきを見ると、「旅立ちの時が近づいている。」という言葉が目に飛び込んで来て、ああ、これは買わないといけない本だ、と思ったのだった。著者は、開高健担当の編集者の一人だった。その本がおしまいに近づいて、東京からフランスの著者に作家の訃報を知らせる電話が届く。そこのくだりに、河野愛子の歌が一首差し挟まれていたのを見て、私ははっとしたのだった。

  ししむらゆ沁みいづる如き悲しみを黙りて人に見せをりにけり  河野愛子
 
 この「人」が誰なのか、なくなった人は作者とどういう関係にあった人なのか、この一首からだけではわからない。

私は斎藤茂吉の

「オリーヴのあぶらの如き悲しみを彼の使徒もつねに持ちてゐたりや」

という歌をなぜかここで連想する。河野は「アララギ」育ちで、むろんこの歌を熟知していた。本歌と思って読んでいいのではないかと思う。「ししむらゆ沁みいづる如き悲しみ」という句からは、皮膚に流れる汗のように、じわじわと体に湧いて来る「あぶら」のイメージが、私には喚起される。皮膚の表面を流れるあぶらである。悲しみのあまり身をよじり、体のなかの「あぶら」が皮膚にしぼり出されて来る。この連想には、生々しく触覚的な感じが伴っていて、それは「ししむらゆ沁みいづる如き」という言葉の持っている喚起力と不可分ではない。茂吉にあっては想念の飛翔であったものが、女性の現実の肉体の位置に引き戻されているところに、河野の歌の衝撃はある。

 そうして、河野の最後まで残ってしまう自意識というものが、下句には感じられる。子細に見ていると、「黙りて人に見せをりにけり」の「黙りて」が、少し気になって来る。「人」は誰なのか。もしかしたら夫ではないか、と私は疑う。この歌の失われた人は、男だろうか、女だろうか。もしや作者がひそかに思いを寄せていた異性ではないか、と疑う。もとの歌集のどこにこの歌があったかを、私はすでに忘れている。 最近、鈴木竹志が『孤独なる歌人』という評論集を出して、その中で河野愛子に多くのページを割いていたのを思い出して、取り出してみる。右の歌は引かれていないが、次の歌が引かれていた。

  みづからの脂に燃ゆる魚ひとつ寂しさや或ひは柩のなかも

 かなり直接的な歌で、思い切ったところのある歌だ。これは、焼かれるのが自分の肉体である、ということを押さえて読む必要がある。河野愛子は、時に残酷な観察もよくするリアリズムの徒でもあった。そう言えば正岡子規には、「死後」という随筆があった。あの文章では、棺桶の上に土がかぶせられて重いだろうし、苦しくていかん、というような口調に漫文の要素があった。この歌には、そういうユーモアはない。しかし、右の歌の存在からも河野がいかに「脂」にこだわっていたかは、理解できるのである。

 次に中川佐和子の『河野愛子論』を取り出してみる。花の歌をとりあげた章では、「死というのは、河野愛子にとって一貫した主題であって(略)本質的に、死と結びつく花の把握もかなり固有な視点である。」と書かれている。まったくその通りで、そこに河野の癖のようなものがあったと言えるし、今だから言えることだが、それはまた河野の歌の世界の狭さでもあったかもしれない。「河野」は「アララギ」のあとは近藤芳美の「未来」に活動の中心を移した人で、初期「未来」の歌人は、生真面目なピューリタン的な人々という印象が私にはある。河野はいつも真剣で悲劇的である。いま渡辺良さんが遺歌集に取り組んでいるが、金井秋彦のことが、私はずっと気になっている。彼も同じような雰囲気を持っている歌人だ。

 5・雑記
〇 『折り折りの人』Ⅰ、Ⅱ(昭和四二年朝日新聞社)。Ⅰ巻に土屋文明の人物をめぐる回想記が入っている。永井龍男の中原中也回想の小文もある。中川一政が岸田劉生のことを書いた文章もいい。

〇 飯島耕一・加藤郁乎共著『江戸俳諧にしひがし』(二〇〇二年みすず書房)。この本は秀句がたくさん引かれていて目移りがしてしまう。買ってから十年も放ってあったが、いい本だ。二人して、我らは芭蕉ではなくて其角を推す、というのである。

  から鮭の口はむすばぬをならひかな   加舎白雄

〇 ふだん微温的な作品が多い近世和歌を読んでいると、比較して「七部集」の味わいが実に鮮烈に感じられたりするのだが、この縁で岩波新書の堀切直人著『芭蕉の門人たち』も読み出したが、読みやすく有益な本だった。

  くろみ立沖の時雨や幾所   丈艸

 先日は岩波文庫の『七部集』の後半を切り離して持ち歩いた。これは、おしまいの方を見ていて目にとまった句。

〇続けて柴田宵曲著『蕉門の人々』(岩波文庫)を毎日の通勤電車のなかの楽しみとしたが、これは名著。一粒食べて百倍おいしいキャラメルのような本。

  重なるや雪のある山たヾの山      加生

  石も木も眼に光るあつさかな      去来

  山がらは花見もどりかまくらもと  丈艸

〇 依田仁美著『正十七角形な長城のわたくし』(二〇一〇年北冬舎)。同歌集『異端陣』(二〇〇五年文芸社)。会えば武道を行き方の根幹に据えている人らしく、痛快な人柄だった。第一歌集『骨一式』の

  個人史を溯るため水を飲む水が耳よりあふれ出るまで

が私はいいと思う。

〇 中井正義著『短歌と小説の周辺』(平成八年沖積社)。千代國一や村松英一をはじめ「国民文学」の未知の歌人のよい歌を紹介している。

  穏やかにこの健太郎がうかびつつ流れゆく見ゆ南無阿弥陀仏
  
            井上健太郎歌集『烏そして街』より。  

権力と富とが奪ひ去りしあとの塵のごときをわづかに食へり

            大塚泰治歌集『恵我野』より。

〇 菊池孝彦歌集『星霜』。高瀬一誌を師と仰いだ人らしい作品が見える。

  非常口開けて出づればなんとせう「外界」がそらつとぼけてゐたり
                              菊池孝彦

 ラカン派の精神科医だということは、「短歌人」の記念会に出なければ知らないままだっただろう。顔を見に行ってよかった。

〇 池澤夏樹『バビロンに行きて歌え』(新潮文庫平成五年刊)。以前読んだらしいのだが、まったく記憶がない。たしかに自分のものらしい栞がはさんでるページがあった。

「誰も人がいない世界で歌われる歌に共感できる者とできない者がいる。大波の中に身を隠してでも、その声を避けたいと思う者がいる。人のいない世界から聞こえてくる声に陶酔する者と、その声の聞こえないところまでひたすら走る者がいる。」

 この歌を歌っている小説の主人公は、レバノンから国外脱出して来たアラブ人の元コマンドだ。それに対して、私が日々接している文学、俳諧や和歌は、人恋しい世界だ。