1931年熊本市生まれ。この年代の方が口語短歌を選んでいる時には、現代のはじめから口語短歌が目の前にあった若手歌人とちがって、往々にして根深い理由がある。一つには戦時中の時勢に鼓吹された万葉調、ひいては五・七の音数律への拒否感、もう一つは戦後の自由詩のもたらした解放感の忘れがたさが根底にあるのである。旧制中学・新制高校の頃に詩歌に親しんだという著者は、2006年から「泉」短歌会に所属して、中川菊司らの薫陶を受けたという。中川菊司は、知る人ぞ知る洒脱な口語短歌の作り手で、私は以前その作品のアンソロジーに解説を書かせてもらったことがある。
一読して、タイトルの「忘れ物を取りに帰ろう」という言葉には、戦後の自由詩の翻訳の匂いがすると私は思った。事実作者は、あとがきで「大学時代にかけては小野十三郎、村野四郎、西脇順三郎や大島博光訳のアラゴン、エリュアールなどに傾倒していました」と書いている。
忘れ物を取りに帰ろう 目も耳も口もふさがれた屠羊のメモを
忘れ物を取りに帰ろう 焼夷弾が降り注いだ夜の恐怖のメモを
忘れ物を取りに帰ろう 子らすべて国に奪われた老婆のメモを
忘れ物を取りに帰ろう 敗戦後の無限に開けた青空のメモを
忘れ物を取りに帰ろう 友が死んだ血のメーデーの怒りのメモを
忘れ物を取りに帰ろう 道を埋めたフランスデモの連帯のメモを
この「忘れ物を取りに帰ろう」という呼びかけは、老齢の著者の過去への郷愁と存念を呼び起こしながら、歴史の記憶の継承を訴える、と同時に惜別を述べてもいるという、なかなか複雑な心事の託された言葉なのである。桜桃忌の一連の末尾には、1948年、高校三年の時の歌が収録されている。以下の三首めがそうである。
太宰没後六十年の桜桃忌 斜陽世代もメロス世代も
太宰の死の立会人に名があった わが師山岸外史の名前も
太宰治 虚無の痙攣 彼は死んだ 笑えない自殺だ だから笑う
あとがきには、「私の短歌は一字アキが多すぎるとよく指摘されますが、これは詩の行替えに代わるものとしてご容赦願いたいところです。」とあるが、三首めもそう思って読むといいかもしれない。高齢になっても初発の感動に立ち戻ろうとする精神、そこから始まるものは必ずあるということだ。集中には、会社員生活を退いて、タンスに千本のネクタイが残されたという歌がある。母親をめぐる複雑な物語を思わせる一連もある。直接的な政治批判の歌もある。多岐にわたった中身は読み飽きしない。俊足軽装の日本語で言いたいことは残らず言っている作品集で、これを出した著者はなかなか気分が爽快だろうと思う。
一読して、タイトルの「忘れ物を取りに帰ろう」という言葉には、戦後の自由詩の翻訳の匂いがすると私は思った。事実作者は、あとがきで「大学時代にかけては小野十三郎、村野四郎、西脇順三郎や大島博光訳のアラゴン、エリュアールなどに傾倒していました」と書いている。
忘れ物を取りに帰ろう 目も耳も口もふさがれた屠羊のメモを
忘れ物を取りに帰ろう 焼夷弾が降り注いだ夜の恐怖のメモを
忘れ物を取りに帰ろう 子らすべて国に奪われた老婆のメモを
忘れ物を取りに帰ろう 敗戦後の無限に開けた青空のメモを
忘れ物を取りに帰ろう 友が死んだ血のメーデーの怒りのメモを
忘れ物を取りに帰ろう 道を埋めたフランスデモの連帯のメモを
この「忘れ物を取りに帰ろう」という呼びかけは、老齢の著者の過去への郷愁と存念を呼び起こしながら、歴史の記憶の継承を訴える、と同時に惜別を述べてもいるという、なかなか複雑な心事の託された言葉なのである。桜桃忌の一連の末尾には、1948年、高校三年の時の歌が収録されている。以下の三首めがそうである。
太宰没後六十年の桜桃忌 斜陽世代もメロス世代も
太宰の死の立会人に名があった わが師山岸外史の名前も
太宰治 虚無の痙攣 彼は死んだ 笑えない自殺だ だから笑う
あとがきには、「私の短歌は一字アキが多すぎるとよく指摘されますが、これは詩の行替えに代わるものとしてご容赦願いたいところです。」とあるが、三首めもそう思って読むといいかもしれない。高齢になっても初発の感動に立ち戻ろうとする精神、そこから始まるものは必ずあるということだ。集中には、会社員生活を退いて、タンスに千本のネクタイが残されたという歌がある。母親をめぐる複雑な物語を思わせる一連もある。直接的な政治批判の歌もある。多岐にわたった中身は読み飽きしない。俊足軽装の日本語で言いたいことは残らず言っている作品集で、これを出した著者はなかなか気分が爽快だろうと思う。