さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

柏崎驍二歌集『北窓集』

2016年06月05日 | 現代短歌
 平成二十二年から二十六年にかけての作品を収める。この歌集が斉藤茂吉短歌文学賞を受賞したニュースと同じ紙面に、著者の訃報が載っていたのは、残念なことである。同じ頃に短歌の入門書なども刊行されて、何か今後の活躍が期待できる雰囲気が感じられていた矢先の出来事だった。昨年の砂子屋の連載では、私は次のような文章を書いている。

草の実も木の実も浄き糧ならず鳥よ瞋りて空に交差せよ  柏崎驍二『北窓集』(2015年)
   ※「瞋」は「いか」る。振り仮名あり。
このところ続けて何冊も著書を出して、精彩を発している著者の歌集である。この歌集は、あの震災以後に出された詩歌の本のなかで、佐藤通雅の『昔話』とともに、もっとも信頼できるもののうちの一つであったと私は思う。著者は、自分の経験に照らして、何のてらいもなく自然に自己の感慨を歌にしている。その無欲な歌の姿が、胸にひびく。
  東日本の震災の経験によって問われたり試されたりしたものは、日常のなかでの思想の在り方だった。もう少しくだいて言うと、自分が他人との関わり方のなかでどういう生き方についての感覚を持っているかということが、不断に問われた。もっと言うなら、生きていることの根拠のようなもの、自分がもっとも心を寄せているもの、それから価値を見いだしているもの・大切にしているものについての考え方を、否応なしに問われることになった。人々は、誰もが現実の厳しさを突きつけられながら、自分の言動の是非について、いちいち具体的に判別し、弁別し、決断し、断念し、受容しながら、生活というものを維持して来なければならなかった。とりわけ東北地方の、被災地に住み、また被災地に関わりの深い地域に住む人々にとっては、そうだった。
  人間は情念を持った存在である。そうして日本人は、周囲の自然環境に対してその情念を密接にかかわらせる文化を育てて来たから、津波による一地域の自然と文化の壊滅は、深い傷跡を残した。その傷は簡単に癒えるものではなく、言葉は時に無力ですらある。しかし、それをあるがままに受け止めて、人は日常の中での思想を生み出しながら生きていくほかはない。そのことが<復興・再生>という浮いた言葉を経験の底から支えているのであって、スローガンは、倒れかけたり、沈みかけている人を救う事はできないのである。
  短歌の言葉は、贋金を洗いだして人間の気持ちのなかにある本当のところを言い当ててしまう作用を持つ。だから、私は被災地の歌人の言っていることが一番信用できると思っている。すぐれた歌人は、自分の言葉の生理に反した言葉は決して口にしないからである。

  九月十九日の回だった。けっこうよく書けていると自分では思うのだが、いまネットで検索してもまったく出て来ない。忘れられた文章なのだろう。震災から五年たって熊本で新たな地震が起こった。いずれは東京直下、東海、南海トラフ大地震と、立て続けに起きるはずの天災にわれわれは立ち会わなければならない。まったく無常というものを、繰り返し実修させられて来たこの数年間だった。
柏崎驍二の歌は、こんなようなもの思いに応えるものを持っている。

  貧も苦も考へやうさ畑の辺に通草の花のむらさき垂るる      一一五
  毛無森といふ地名なれ春山の茂りて郭公も山鳩も啼く
  昭和二十年七月十四日とぞ記す手を引かれ我が逃げし日ならむ   一三六
    で         うみやま
  沖さ出でながれでつたべ、海山のごどはしかだね、むがすもいまも
  幸福とか不幸とかいふ価値観を去らねばならぬ、なあ鷗どり  

 三首めは解説が必要で、昭和二十年七月十四日は、釜石が艦砲射撃を受けた日。この歌の前に、その時亡くなった児童を祀る祠を詠んだ歌がある。「貧も苦も考へやうさ」とか、「幸福とか不幸とかいふ価値観を去らねばならぬ」とか、日々の生活の経験の中から出て来た箴言のようなつぶやきが、胸にしみる。それは木々や鳥に囲まれて生きることの喜びに支えられた、生を肯定する思想なのである。