さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

収書画雑記

2024年09月23日 | 本 美術
この夏は歌集の書評を三つ書いただけで、その余の時間は、あまりものを書くという事をしなかった。スケッチもあまりに暑いので外に出なかったため、ほとんどできなかった。

 私の部屋には古沢岩美の全紙のデッサンや高田博厚のデッサンが飾ってある。還暦をすぎて裸体画を部屋に飾るというようなことを普通に照れないでやってみようと思った。それでしばらく裸婦のようなものばかり買っていたが、古沢のものは、その買いだした初期のものだ。そのうち風景と静物に移って、運よく手に入れた寺田政明の大きい静物を壁に掛けたら、憑き物が落ちた感じになって、あまり絵がほしくなくなった。いや、まだ時々買っているけれども、コレクションの話というのは、結局自慢話にしかならないところがあるので、このブログでは自制してきた。

 他人の自慢話が聞きたくないという人は、世間には多いのである。しかし、私はひとの自慢話を聞くのがけっこう好きだ。自慢話をしているうちに、口から出まかせに話を大きくしてしまって、話に尾ひれがついてゆく。今では懐かしい「噂の真相」という雑誌があったが、うそ、でまかせ、うわさの研究というのは、おもしろい。虚構と真実、というものの摩訶不思議な絡み合いについて、現代の小説家は、いくらでも材料を持っているだろうけれども、常民と呼ばれるような庶民が手持ちの材料をつかって炉端であたためた素材の根源的な強さには、及ばないかもしれない。いま思い出したが、文字をもって語るということと伝聞したこととの境目のところで、もろもろの虚実の混淆するところに深沢一郎という謎の存在があった。

 二十世紀の絵画の歴史のなかでピカソが大きな存在であることは、言うまでもない。晩年のピカソがエロス的なものの表現に淫したことは、広く知られているが、これを日本の画家が受容して、投げられた球を打ち返そうと四苦八苦したものが、管見では北川民次のバッタのシリーズや、瑛九と池田満寿夫のエッチングのなかにあるが、いずれも嬉々として解放されたエロスを謳いあげていて、にがにがしい感じは、あまりしない。ピカソにだいぶ当てられてしまっていると言ってもいいか、日本人は基本的に善良なのだと思わせられる。そのなかで瑛九のエッチングによる市民社会的なエロスの研究は、それなりに深みのあるところに達していたのではないかと思う。あれをたとえば図像学的に、それから社会心理学的に、精神分析的にきちんと読み解く研究が出てほしいと私は思う。

 

ここに示したのは、最近購入した池田満寿夫のエッチングである。額装はしていないが、この絵の顔のモデルは例によってヴァイオリニストの奥さんだろう。構図と曲線の自由連想的な変換の仕方は瑛九ゆずりで、池田は瑛九を超えたつもりになっていたかもしれないが、線が初期よりもやわになっている感じがどうしてもする。瑛九にそういうものはない。そこにピカソのわるい影響がある。しかし、この曲線を自由に展開しながら、猥褻なイメージを遊びとして線のダンスに変えてしまう手腕はなかなかのものだ。