星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

天使が通り過ぎた(19)

2008-02-03 21:47:30 | 天使が通り過ぎた
 部屋に帰った私は、先ほどの染み抜きをして重くなったズボンにアイロンを掛けながら、何だか変な展開になってきたなと頭の隅で思った。あの人はきっと何かお詫びの行動をしないと気が済まないのだろう。そんなこといいのに、と思う反面、やはり気になるということも分からないでもなかった。アイロンを掛けると染みはほとんど分からないほどになっていた。乾いているのを確認するときちんとたたんでカバンにしまった。

 窓の外を見ると依然として雨はまだ降っていた。土砂降りというわけではないが、じっとりとすべてに染みこんでいくような雨だ。天気が気になってテレビをつける。天気予報はどの局でもやっていなかった。でもこの暗い空では雨は当分やみそうもないのだろう。チェックアウトをして本当にあの男性は、ケンちゃんと呼ばれた男性はロビーで待ち伏せしているのだろうか。見た目は悪い人でなさそうだし、というよりも逆にいい人そうだし、この旅館のご子息の知り合いだというのだから、何かあったら身元は割れているのだからなどとぼんやり考える。

 だが気分が重かった。チェックアウトぎりぎりまでここに居て、そうしたらあの人は諦めて帰るのだろうか、とも思ったが、恐らくいつまでもあそこで待っているだろう、そんな気がした。だとしたらあまり遅くチェックアウトしても悪いような心持がした。それに、やっぱりバスで帰ると言えば、あっさりとそうですかと言うかもしれない。この雨の中を駅まで送ってくれるというのは有難い申し出だとは思ったが、今日初めて会った人であるのに狭い空間の中で一定時間を過ごすことを考えると気が進まなかった。ここへ来るときに誰にも邪魔されずに自分の心を放っていたように、帰りも存分に自分はひとりなんだということを味わいながら帰ろうと思っていたのだ。

 とりあえず、と重い腰を上げて荷物をまとめて部屋のキーを掴んだ。雨が降っている。折りたたみの傘は持ってきていただろうか。カバンを開けて探して見る。いつも旅行に行くときは小さな折り畳み傘を入れているはずなのに、何度カバンの中を探しても傘は見つからなかった。私はこんな風に、用心深いようで肝心なときに忘れ物をする。まあでも、もしかしたら売店に傘くらい売っているかもしれない。

 少しひんやりとした廊下を通りロビーに出た。先ほどのおかみの姿は見られなかったのでほっとした。見つかると、またケンちゃんお願いね、等と言って断りづらくなってしまう。支払いを済ませるとフロントの男性が目配せをしてあちらのほうを見た。すると先ほどのケンちゃんと呼ばれた男性がこちらに近づいてきた。

「お荷物は?それだけですか?」
 まるでベルボーイのようだと思って、少し可笑しくなった。
「私予定通りバスで帰ります。特に急いで帰らなければならないという訳でもないので。」
 そう言うと男性はまた少し沈黙して、そしてこちらを少し眺めていた。
「バスは、多分今行ったばかりで、あと40分くらいしないと来ないと思いますよ。」
 少し笑っていた。明らかに当てずっぽうに言っているような感じだった。
「じゃあ、あと40分、待つことにします。ロビーでお茶でも飲んで。」

 すると玄関からおかみが入ってきた。車で帰ったお客を見送って外にいたようだった。
「あら、お客様チェックアウトはお済みになりましたか?ケンちゃん、ほら車をこちらに廻して差し上げて。」
 おかみはまるで、ケンちゃんという男性がここの従業員であるような口の聞き方をした。もしくはこの人が息子さんの友人、ではなく、まるで息子さんご本人のような接し方だった。
「いや、この方バスで帰ると言うものだから・・・。」
 おかみは私の方を向くとにこっとして、「あら、ケンちゃんのこと疑っていらっしゃる?大丈夫ですよ。この方、そんな方じゃないから。うちにも何度も遊びに来たことがあるから、この辺の道は大丈夫よ。慣れてらっしゃるから危なくないわ。」
 
 おかみは私が彼の運転技術を疑っていると思っているのか、その人間性を疑っていると思っているのか、そこまでは定かではなかったが、そのようなことを言った。
「いえ、そんな。疑うなんてそんなことは思ってないのですが。申し訳ないと思って。」
 まさか初対面の人の車で気を使うのが億劫で、とも言えなかったのでこのように言った。悪いと思う気持ちの反面、億劫だという気持ちもあった。
「そうしたら駅まで乗せていって貰ったらよろしいと思いますよ。雨はまだ相変わらず降ってますし。お客様傘は?」
 私はまずいことを聞かれたと思った。
「あの、売店にありますか?」
 おかみはフロントの奥にちょっと消えてまたこちらに出てきた。
「じゃあこんなのでよかったら使ってくださる?こんなビニールのでよろしかったら。」
 おかみは透明のビニール傘を差し出した。でも新品のようだった。
「済みません。ありがとうございます。」
「じゃあ行きましょうか。」
 ケンちゃんと呼ばれた男性は当然のようにそう言うと、さっと私の荷物を手にして先に進んだ。私はたった駅まで送ってくれるという行為のために何だかんだと言い訳している自分が子供染みているようにも思え、またこのようなやりとりが面倒くさくなり、もうこうなったら成り行きにまかせよう、という気になった。
「良かった。私もそのほうが安心だわ。お気をつけてお帰りになってください。」
 おかみと番頭さんに丁寧に見送られ、私はケンちゃんの車に乗った。

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