伊之助は当時すでに「大教授」という職であったが、ドイツ人教師ミュルレルらの帰国とともに免職となった。
その後、愛知県に招聘され、名古屋に移った。
明治9年(1876年)公立医学所(後に愛知医学校、愛知県立医学校と改称、 現・名古屋大学医学部)教授となる。
そのあとしばらく名古屋の市中で開業したが、得た金はすべて花街で蕩尽し、月ごとに借金がかさんだ。
「借金とりがやってくる月末になると、翻訳をやらされた」
と、当時、書生として住みこんでいた後藤新平が、語っている。
後藤は仙台の士族で、明治九年須賀川医学校を卒え、名古屋にきて愛知県立病院の下級医員をつとめつつ伊之助の書生になってドイツ語を学んでいた。
伊之助はすでに肺結核になっていた。江戸期漢方の一書に「多クハ男子四十歳前後ニ至リ淫慾ニ耽ルニヨリテ生」ずるとされた消耗こそ原因だったにちがいない。伊之助は、自分の病気が肺結核であることがわかっていた。安静が大切ということも知っていたはずであるのに、明治十二年の寒いころ、名古屋を発ち、駕籠で熱海にむかった。(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)