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Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (4) - 八ヶ岳山麓

2010-05-11 | 中部

1938(昭和13)年、新天地を求めて八ヶ岳山麓念場ヶ原開拓地(現清里高原)へ入植したのは、小河内ダム(奥多摩湖)の底に沈んだ村からの開拓団28戸だった。

今でこそ清里は都会の人間の目を引くリゾート地となり、高原野菜と牛や馬がのんびりと牧草をはんでいるが、当時の八ヶ岳山麓は、一面の熊笹に覆われた無人の荒野であった。
標高千二百メートルの高原、清里の1月の平均気温は、氷点下4.9度。当時の寒さは想像を絶する。

そして彼ら開拓者は、ダムの犠牲になったあげく厳しい土地を開墾しなければならないという過酷な現実に直面することになる。



清里は火山灰地で作物を作るのには適さなかった。
貧しい開拓者たちに不作、冷害、水不足、食料不足、さらには戦争突入と、つぎつぎと困難が襲いかかる。

鍬の柄が血で染まる、困難を極める作業に多くの人々が倒れた。




“日本一の山” - 富士山

2010-04-04 | 中部


「藤兵衛、この景色を見ろ」
「へい」
藤兵衛はつまらなそうにまわりをみた。
「気のない顔だなあ」
「藤兵衛、一向に驚かぬな」
「見なれておりますんで」
「若いころ、はじめてみたときはおどろいたろう。それともあまり驚かなんだか」
「へい」
藤兵衛は、にが笑いしている。
「だからお前は盗賊になったんだ。血の気の熱いころにこの風景をみて感じぬ人間は、どれほど才があっても、ろくなやつにはなるまい。そこが真人間と泥棒の違いだなあ」
「おっしゃいますねぇ。それなら旦那は、この眺望をみて、なにをお思いになりました」
「日本一の男になりたいと思った」

(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)



NHK『龍馬伝』第3話「偽手形の旅」では、江戸での剣術修行を許された龍馬(福山雅治)は、溝渕広之丞(ピエール瀧)と共に土佐を出発する。
龍馬に同行した溝渕広之丞とは、土佐藩御持筒役という西洋流砲術専門家であり、龍馬よりも一年早く佐久間象山に入門していた人物。


一方、司馬遼太郎は、『竜馬がゆく』で、溝渕広之丞の替わりに、元盗人?“寝待ちの藤兵衛”という架空の人物を登場させ、竜馬に同行させるのだ(竜馬の一生涯を陰で支えた一人でもある)。

江戸へ向かう道中、静岡県の日本平から富士山の絶景を眺めながらの二人の会話が冒頭の一節。
竜馬が、生まれて初めて富士山を見て感動する場面である。


伊豆半島、春の雪化粧 - 大室山・伊豆高原

2010-04-03 | 中部

真っ白な雪が、くっきりとその美しい円錐形の姿を際立たせる。

大室山は、「天城富士」の異名をもつ。標高580m。頂上には直径約300mのすり鉢状噴火口もある。

伊豆東部火山群を代表する火山の一つであり、スコリア(軽石を黒くしたような穴だらけの噴石で粘り気が少なく流れやすい溶岩が噴水のように吹き上がって砕けたもの)が降り積もってできたことからスコリア丘と呼ばれている。

大室山は約4千年前に噴火し多量のマグマを噴出した。そのマグマは溶岩流として流れ出し、伊東市南部の広い範囲を台地状に覆った。この台地が現在の「伊豆高原」である。

また、南方に向かった溶岩流は海に達し、現在の「城ヶ崎海岸」をつくった。

そして大室山と伊東市街の間にある美しい円形の湖「一碧湖」も10万年前の激しい噴火で出来た堰止湖である。


1961(昭和36)年の伊豆急行線開通後は、伊豆高原の別荘地や、観光施設の開発が行われた。



伊豆半島、春の雪化粧 - 天城山

2010-03-31 | 中部

現在、地図の上で天城山脈と記されているのは、東海岸から起こって、遠笠山、万二郎岳、万三郎岳、それから天城峠を経て、猿山、十郎三衛門山、長九朗山、と続いて、西海岸に終わっている。つまり一つを指して天城山と呼ぶ峰はなく、伊豆半島の中央を東西に横切ったこの山脈を眺めて、そのうちのどれであろうと構わず、人は天城山と呼んでいる。

天城のいいことの一つは、見晴らしである。煙を吐く大島を初め、伊豆七島がそれぞれの個性のある形で浮んでいる海が眺められるし、いつも真正面に富士山が大きく立っている。全く大きい。天城にとって欠くことのできない背景である。山の好きな人だったら、富士山の左に遠く南アルプスの山々が連なっているのを見落とさないだろう。
(深田久弥著『日本百名山』より)



天城山は、伊豆半島の中央部に峰を連ねる火山性の連山の総称で、一般的には、万三郎岳(1,406m)、万二郎岳(1,300m)を指し、広義では天城西山稜の達磨山(万太郎山)や猫越岳をはじめ、猿山、長九郎山、婆娑羅山などもすべて天城山とされている。

川端康成の『伊豆の踊り子』の舞台となった天城峠があることで知られ、石川さゆりで有名な「天城越え」は、この山を指し、登山者以外にも良く知られた山である。


天城山は古くは狩野山、甘木山ともよばれ、伐木、搬出の歴史も古く、幕府直轄の御料林であった。マツ、スギ、ヒノキ、ケヤキ、クスノキ、サワラ、カシ、モミ、ツガは天城九木とよばれ、御制木として保護されていた。かつては木炭の生産、現在はワサビやシイタケが名産となっている。
植生にも特色をもち、アセビ、ヒメシャラの樹林、シャクナゲ、アマギツツジの花は天城特有の植物景観となっている。

火山周辺は温泉にも恵まれ、湯ヶ島、湯ヶ野、峰、熱川、大川などがある。



伊豆半島、春の雪化粧

2010-03-30 | 中部

静岡県東部や神奈川県箱根町などは、3月30日午前、大雪に見舞われた29日から一転して晴天となり、積もった雪が春の日差しを照り返した。

前日の3月29日、強い寒気を伴った気圧の谷が通過した影響で、午後から各地で季節はずれの雪が降った。静岡市内でも降雪が観測され、静岡地方気象台が観測を始めた1941年以降で最も遅かった58年と並ぶ記録となった。

静岡地方気象台によると、静岡市内では午前11時20分頃から降り出した雨が午後3時頃にはみぞれや雪あられに変わった。御殿場市内では昼頃から雪が降り始め、午後6時には17センチの積雪を観測。同気象台は午後5時5分に県東部に大雪警報を、伊豆半島全域に大雪注意報をそれぞれ発令した。
同気象台は「3月に県内で大雪警報が出されることは珍しい」としている。

雪の影響で、29日午後9時現在、箱根スカイラインなど県内の11路線が通行止めとなったほか、御殿場市内の国道138号や246号など計45路線でチェーン規制が行われた。


太平洋沿岸を飛ぶ (23) - 英虞湾

2010-02-06 | 中部
英虞湾は、志摩半島と先志摩半島との間に抱かれた志摩半島中最大の湾。わが国最大といわれる隆起海食台地が侵食を受けて細かい河谷が刻まれたのち、ふたたび沈降して生じたもので、典型的なリアス式海岸となって波静かな内湾に没し、そのなかに賢島、多徳島、土井ヶ原島、天童島、横山島など大小の島々が浮かぶ。その女性的な自然の美しさと、水面を埋める真珠養殖いかだの群は奥志摩の代表的景観として国際的に知られ、伊勢志摩国立公園の中心である。

古くからこの内湾では「志摩の白玉」(天然真珠)で知られるアコヤガイを産するほか、定置網でイワシをとってカツオ釣りの餌を供給していた。また湾内の多徳島は、御木本幸吉が1890年(明治23)初めて真珠養殖に成功した所で、以来英虞湾は養殖真珠のメッカとなった。

英虞湾の「あご」とは「波静かな海」という意味。「ご」が静かと言う意味で「あ」は「ご」を強調している。

鳥人と呼ばれるアメリカ人曲芸飛行士アート・スミスが1926(大正6)年来日し各地で飛行した際、この志摩の空を飛んだ。
飛行機が好きだった御木本幸吉は、自分の庭先で飛行機を飛ばすといって、多徳島の養殖場に突貫工事で滑走路を作り、そこで一大イベントが行われた。飛行機など見たこともない志摩の人々は船に乗り大挙して押しかけ、見物人は二万人を数えたという。スミスの機体は、カーチス・ヘッドレス・プッシャーという複葉機だった。

幸吉は、英虞湾にノース・ウェスト航空の国際定期便を呼ぶ計画が持ちかけられ、乗り気であったらしい。八十人乗りの飛行艇が就航することになっていたとか…


太平洋沿岸を飛ぶ (22) - 英虞湾

2010-02-03 | 中部

のちに世界から「真珠王―The Pearl King」と呼ばれた男、御木本幸吉は、1858(安政5)年1月25日、志摩国の鳥羽で、うどん屋の息子として生まれた。

幸吉が、妻うめと家族の支えにより苦難の末に真珠の養殖に成功したのは、1893(明治26)年のこと。

当時この地域は真珠の産地として有名であったが、乱獲がたたって明治中期にはほとんどとれなくなってしまった。これに心を痛めた幸吉は、アコヤ貝を使った真珠の養殖を思い立ち、明治23年、英虞湾の無人島に妻と二人だけで真珠養殖所を設立した。

開始当初から実験は試行錯誤の連続で、何年もの歳月を費やしたが、周囲の目は非常に厳しく、家族だけが幸吉の実験を見守っていた。相次ぐ赤潮の被害や資金難を乗り越え、鳥羽の相島(おじま、現:ミキモト真珠島)で遂に真珠の養殖に成功する。世界で初めて人の力によって真珠貝から真珠を作り出した瞬間であった。



太平洋沿岸を飛ぶ (21) - 的矢湾

2010-01-31 | 中部


『二十四の瞳』の作者、壷井 栄(つぼいさかえ)に、『伊勢の的矢の日和山』という作品がある。

「イセのマトヤのヒヨリヤマ」とは、壷井栄が幼い頃から子守歌のように聞いたという祖母の言葉。
船乗りだった夫、勝蔵は船中で急病にかかって亡くなり、その墓が「伊勢の日和山」にある。自分に代わって勝蔵の墓にお参りしてくれと孫たちに頼んだ。後年壺井栄は、的矢の日和山に祖父の勝蔵の墓を探したが見つからず、それからさらに10数年後、再び日和山を訪れ、寺の過去帳を調べたり、船宿の老人に聞いてみたりしたが、ついに墓を探し当てることはできなかった。

家族の強い絆、祖父、祖母への深い愛といつくしみが描かれた作品である。



的矢湾(まとやわん)は三重県志摩半島の東側にある東西10kmほどの細長い湾。

徳川幕府が開かれると、江戸の人口が爆発的に増え、それに伴って米、酒、油、醤油、ミソ、鰹節、木綿等の日用品や金物、瀬戸物、建築資材などを大量に運ぶ必要があった。このため、大阪から江戸への海上輸送が盛んになった。 
大阪から紀伊半島沿岸を廻ってきた船は、志摩半島を出発すると伊豆の下田まで、遠州灘を一気に突っ切る。途中立ち寄る港がないため、リアス式で湾が深く入り込んだ天然の良港である鳥羽湾、的矢湾、英虞湾で食料や飲料水を補給し、天候の回復を待った(日和待ち)。鳥羽、安乗、的矢、浜島は風待港として重要な位置にあり、「志摩の四か津」と言われ港町として栄えた。

こうした回船の船乗りを相手に、身の回りの世話や接待をする遊女が 「ハシリガネ」 と呼ばれてた。ハシリガネは、日和山に登って船の入港を知ると、白粉を化粧して、船乗りが下りてくるのを待った。中には馴染みの船や船乗りがいて、夕方、頭髪を島田マゲに結い、太鼓帯を締めて大風呂敷を抱えて船に出かけたという。


太平洋沿岸を飛ぶ (20) - 伊勢湾

2010-01-28 | 中部

1959年9月26日夜、一つの台風が東海地方を襲った。伊勢湾台風だ。

「1959年9月26日夜、和歌山県潮岬から上陸した台風15号は時速75キロの超スピードで、紀伊半島、近畿、北陸と本州の胴体部をわずか7時間で横断。日本海に抜け、翌27日朝6時には温帯低気圧に変わりながら北海道東部へと去った」

この足早な台風は最大瞬間風速61メートルという猛烈な勢力で堤防を決壊させ、家屋をなぎ倒し、三重・愛知・岐阜の東海3県を中心に死者・行方不明者5098人、負傷者約3万9千人、全・半壊家屋15万棟以上という類を見ない被害を残した。その多くが高潮による犠牲だった。

明治以降最悪の被害を出した台風となった。


伊勢湾は、一般に三重県鳥羽市の答志島と愛知県田原市の伊良湖岬を結んだ線の北側の海域から三河湾を除いた海域で、伊良湖水道を通じて、太平洋と結ばれる。水域面積が日本最大の湾で、三重県、愛知県に面する。
古くは伊勢海(いせのうみ)ともいった。志摩、知多、渥美の3半島に囲まれ、日本海岸の敦賀湾との間が、本州の一番狭くくびれた地域である。


太平洋沿岸を飛ぶ (19) - 伊良湖岬

2010-01-27 | 中部
伊勢の海の清き渚の海に遊び、類無き夕凪夕月夜の風情を身にしめ、物悲しき千鳥の声に和して、遠き代の物語の中に辿り入らんとならば、三河の伊良湖岬に増したる処無かるべし。(柳田國男著『遊海島記』より)



柳田國男が、渥美半島、伊良湖岬(いらござき)の恋路ヶ浜に椰子の実が流れついているのを見て、その話をもとに島崎藤村が「椰子の実」の詩としたエピソードについては、シリーズ「琉球弧の島々を飛ぶ(終)- 与那国島)」ですでにふれた。

では、若き日の柳田を伊良湖岬に誘ったのは何だったのか。

渥美半島に福江という町がある。福江出身の挿し絵画家、宮川春汀(しゅんてい)が東京世田谷に住んでおり、その隣が二葉亭四迷の家だったという。そして近所には柳田國男をはじめ田山花袋など多くの著名人が住んでいて交流をしていた。
春汀は、折にふれては、自分のふるさとの珍しい習俗や美しい風景について、この仲間たちに語っていたらしい。この話を聞いて、柳田はたいそう心を動かされ、伊良湖へ行こうということになったという。

この地で、柳田の関心を惹いたのは、人々の暮らし、そして土地の風俗だった。彼の『遊海島記』には、伊良湖岬の突端から望まれる神島(この島は、三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった)、知多半島との間に飛び石のように浮かぶ篠島、伊良湖の地形と集落・港の関わり、船の形・航路、漁民の生態・習俗などが、実に正確に記されている。

もし宮川春汀との出逢いがなかったら、柳田が伊良湖へ来て、椰子の実を見つけることもなかったし、柳田が椰子の実から発想した日本民族起源論、つまり日本人の南方説を構築することもなかったのかもしれない。




太平洋沿岸を飛ぶ (18) - 渥美半島

2010-01-26 | 中部

渥美半島は、三河湾を太平洋から隔てるように長く伸び、その幅はおよそ7km、海岸線の総延長は80km以上にも及ぶ。細長い半島の中央部には、標高300m以上の山が8つあり、起伏に富んだ地形となっている。
行政的には、豊橋市、田原市からなる。半島の先端は、伊良湖岬であり伊良湖水道を挟んで三重県の神島、さらには志摩半島と向き合っている。
台地部では、近郊園芸農業が盛んで全国有数の農業地帯となっている。


渥美半島は、古くからサシバの渡りの名所である。毎年秋、東日本や北日本から中国大陸・台湾・フィリピン方面に渡って行く際、サシバの群れが伊良湖岬上空を通る。サシバの渡りは、渥美半島の中央を東西に走る中央構造線がコースの目印となっており、日本列島の中でも渥美のように東西に長く延びる半島は意外なほど少なく、伊良湖は多くの渡り鳥の中継地となっている。

かの柳田國男も、この渡りのことを - 晴れたる日には屡々鷲を見る。熊野の山奥より、信遠の高嶺に往通 ふものは、大抵伊良湖の空を過ぐるなり。山の上にわなを設け、犬などを餌にして之を捕ふることあり。- と『遊海島記』の中で記している。
柳田國男もこの渡りのことを知っていたのだ。


太平洋沿岸を飛ぶ (17) - 浜名湖

2010-01-24 | 中部
浜名湖は、太平洋を臨む日本のほぼ真ん中に位置し、面積約68.8km2(全国第10位)で、海水と淡水の混じりあった汽水湖である。南部は遠州灘に通じているため、一部では「浜名湾」とも呼ばれる。
明治の随筆家、大町桂月は、「浜名湖は湾入多く、ざっと形容すれば、手を広げたるが如し、手首は今切也」の名文を残した。

古名は遠津淡海(とおつあわうみ)と呼ばれており、遠江の語源となったとも言われる。この時代は、(琵琶湖より)遠い淡海つまり淡水湖として認識されていた。

1498(明応7)年に起きた大地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。

この時に決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、その後は、渡し舟に頼るしかなくなった。この渡し舟を「今切の渡し」といい、今切口東側の「舞阪」と西側の「新居」に渡舟場が置かれた。
こうして東海道を分断することになった浜名湖を、徳川家康は、1600(慶長5)年、軍事上の理由から「今切の渡し」の新居側渡舟場に関所を設置、東海道では、箱根とともに、最大級の規模を持っており、江戸に不審者が入らないようにするための、重要な拠点となった。



太平洋沿岸を飛ぶ (16) - 日本平

2010-01-22 | 中部
「日本平」は、静岡県中部、有度山(標高300m)山頂の平坦地で、安倍川によって形成された静岡清水平野が隆起した台地である。南側は急傾斜の海食崖の地形で、有度浜から駿河湾に面し、崖下は「石垣イチゴ」の産地となっている。東側も急斜面で清水港に面する。
富士山、駿河湾、伊豆半島を一望のもとに収める優れた展望台として知られ、1950年(昭和25)日本観光地百選で第1位になり、59年に国の名勝に指定され、また県立自然公園にもなっている。徳川家康ゆかりの久能山東照宮との間はロープ・ウェーで結ばれている。

2007年1月よりTBS系列で放映された、木村拓哉主演の山豊子原作『華麗なる一族』で、阪神特殊製鋼を望む眺望と、将軍様(コイ)のいる池が印象的だった万俵家の庭園は、山頂にある「日本平ホテル」の庭園である。
ドラマの中でキムタク演じる万俵鉄平が思い悩み眺めた神戸の夜景、実は、日本平から清水の港町を望んだものだったのだ(「雲上を飛ぶ-(37)」の画像)。

日本平の地名の由来は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、東夷征伐のために東国に向かう途中、 敵の包囲軍に火を放たれて危機に陥った時、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)から預かった宝剣で周囲の草を薙ぎ払って攻勢に転じたということから、 日本武尊の名に因んで「日本平」と名付けられたと言われる。このとき用いられた宝剣が有名な「草薙の剣」である。
山頂から北側山麓には「草薙」の地名があり、麓にある草薙神社には日本武尊が祀られている。


太平洋沿岸を飛ぶ (15) - 牧ノ原台地・静岡空港

2010-01-21 | 中部
牧ノ原台地の茶畑の真ん中に出現するのは「静岡空港」。

2009年6月4日、日本で98番目の空港として開港した。建設工事が始まった当初から、様々な議論を巻き起こし、測量ミスによる立ち木撤去問題の責任を取る形で知事が辞任、開港予定日が大幅にずれ込むなど、地元では何かと物議をかもしだしてきた。

滑走路とターミナルビルの真下には、東海道新幹線がトンネルで通過する。
いくつかの空港建設候補地があった中で、最終的に現在地になった理由として、将来、新幹線駅をここに作ることができることが決め手になったと言われている。


今月19日、経営危機に陥っている日本航空が東京地裁に会社更生法の適用を申請した。
そして再生に向けた路線廃止や縮小のあおりで、開港からわずか1年足らずでJALの翼は4月、静岡の空を去ることとなった。


また日本航空の経営危機は、同時に、日本の空港問題の根深さを浮き彫りにした。

静岡空港は、1980年代の空港政策「一県一空港」による「最後の地方空港」といわれている。
一県一空港政策はアメリカからの内需拡大要求が始まりで、日米構造協議での合意がもと。 当時の日本は欧米に比べて人口、国土面積、経済規模を勘案した総滑走路延長指標の値が低かったため、 空港整備をするようアメリカから要請されていた。

日本の航空政策はアメリカに言われるがままに行われてきた。その結果、行き当たりばったりの空港が次々と生まれたのである。


太平洋沿岸を飛ぶ (14) - 牧ノ原台地

2010-01-20 | 中部
静岡県の中西部に分布する牧ノ原台地は、標高およそ、40m~200mの平坦面が北から南へかけて緩く傾斜している。この平坦面は、昔の扇状地面であったと考えられている。現在、大井川は、金谷でその流下方向を東へ向きを変え、駿河湾に注いでいるが、今から、およそ12万年前には金谷付近からそのまま南下し、太平洋に注いでいたことが知られている。

牧之原の茶畑作りは、徳川最後の将軍慶喜が1867年、大政奉還したところから始まる。

慶喜は大政奉還により駿府(今の静岡市)に隠居する。
その際、慶喜の身辺警護を勤める「精鋭隊」(のちの「新番組」)に属する武士たちも同行し、ともに駿府に移り住んだ。
ところが、明治2年(1869)の版籍奉還により、「新番組」は突如その任務を解かれ職を失ってしまうのだ。
鎖国政策から一転開国をした新政府は、外貨獲得の輸出品として、生糸と茶に注目。山岡鉄舟や勝海舟の提言もあって、明治2年(1869)中條景昭(ちゅうじょうかげあき)を隊長とした「新番組」の面々は剣を捨て、牧之原台地における茶畑の開墾を決断した。
それは「武士から農民になる」という一大決心であった。

しかしながら、当時の牧之原台地は地元の農民さえ見向きもしない荒廃地。
何よりも台地における水不足は深刻で、育苗・改植用の水はもとより生活に必要な水にも事欠く状態であった。
しかも、その開墾をおこなうのが農業の素人集団であったため、当初は苦労と失敗の連続であったといいう。

このような厳しい状況の中で、中條たちは粘り強く着々と開拓を進めた。
とりわけ、身分の高い武士から能楽師まで、多種多様な人々を、昨日までの地位身分に関係なく、農耕開拓団として統率していった中条の指導力は特筆すべきものであった。
その後、同じく仕事のなくなった大井川の「川越人足」や地元の農民たちも、広大な牧之原の残された部分に進出して開墾をはじめ、茶園は急速に拡大した。
そして、開墾開始から4年後の明治6年(1873)、ようやく牧之原で初めての茶摘みが行われた。

その後も中條は茶畑の開墾に全精力を注ぎ込む。
途中神奈川県令(知事)にとの誘いがあったものの、「いったん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木のこやしになるのだ」とまったくとりあわなかったという。
そして明治29年(1896)、後進に後を託し、中條は70歳にしてこの世を去った。

現在、静岡県は全国の緑茶の生産量の約50%を生産する。そしてその中で最も広大な茶畑が広がっているのが牧ノ原の台地である。茶園面積は約五千ヘクタール、日本一の大茶園となった。