ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

コースター

2010-05-19 15:32:40 | Weblog
私は意志の弱い人間だとつくづく思う。

しっかり仕事をしようと思ったのに、
少し考えを整理するため、と口実をつけ、また編み物をしてしまった。

先日のブックカバーの糸が余っていたので、コースターを作った。
うちに去年から来てくれたコーヒーの木。
まだまだ小さい。
 

今度、お天気のいい日に、土を入れ替えてやろうかな。

それにしても、いつまで現実逃避というか気分転換をしているのだろう。私は。

まあ、明日はオールナイトの仕事があるから、
それを口実にダラダラしているんだけど。

野球観戦

2010-05-19 12:51:18 | Weblog
昨日は、大宮球場までプロ野球を観に行った。
西武対ヤクルト。

はじめて屋外の球場で見たのだけど、すごく解放感があって気持ちがよかった。
夕方、少し風が強かったので寒く感じたけど、いまはスポーツ観戦にはいい季節だ。

平日のナイターということで、近くのサラリーマンもたくさん来ていた。
彼らは、試合を観にきたのか、お酒を飲んで騒ぐためにきたのかよくわからない。
スタンドは完全にゆる~い雰囲気なのに、マウンドでは選手たちが一生懸命にプレーしている。
このギャップがまた面白い。

昨日の試合は投手戦だったので、基本的に静かな闘いだったんだけど、
たまにチャンスが訪れると、観客がふっとマウンドに集中し、歓声をあげる。
でも、次にはもうゆるい雰囲気に戻る。

野球を観に行ったのに、なんだか久しぶりに、
サラリーマンのアフターファイブの雰囲気を味わうことになった。

なつかしかった。
そうだよなあ、私もよく仕事仲間と飲みに行ったよなあ。
いろんな話をしてたよなあ。

組織に属しているからこそのアフターファイブの暗黙の了解というものがあって、
上司の悪口を言ったりすることはあっても、基本は仲間と助け合う気持ちが強かった。
だって、自分一人では何もできないことが、よくわかっていたから。
会社では目立つことが少ない役割を担っている人たちが、
自分の仕事を支えてくれていることをみんな知ってたから。

そして、チーム競技のスポーツはやはりいいと思った。
相手を信頼して精一杯のことをやり、あとは運を天に任せるような心。
せっかくなので、岸選手と青木選手の対決を写真で撮ったのだけど、小さい。


いい夕べだった。
また観に行きたい。

刑事コロンボ

2010-05-17 22:05:28 | Weblog
久しぶりに「刑事コロンボ」が見たい。

特にいま見たいのが「溶ける糸」と「二枚のドガの絵」。
「別れのワイン」もいい。

「溶ける糸」は、天才心臓外科医の話。
激高するという感情の演技すらして相手をだまそうとする。

「二枚のドガの絵」は、ショパンの別れの曲が印象的だった。
芸術を愛し、ある人への愛ゆえに殺人を犯してしまうお話。

あと、何だっけ「人にはふさわしき贈り物」の「白鳥の歌」だったっけな。
IRAのお話。
「5時30分の目撃者」もよかった。

小学生の頃、母の教育方針によって、私は毎晩21時に就寝していた。
でも、「刑事コロンボ」の日だけは、金曜ロードショーを見せてくれた。
特別だった。

「刑事コロンボ」が面白かったのは、
人のエゴを描いていたからだと思う。
エゴによって殺人を犯し、エゴによって完全犯罪が完成しない。

ドラマに登場する殺人犯は、一般以上に賢い。
でも、どうしようもないくらいエゴも強い。
この人間ならではの矛盾。
これが魅力だった。

アメリカのエンターテインメントは、やはり奥が深いと思う。

ブックカバー

2010-05-17 17:15:17 | Weblog
日用品から作ろうと思って、次に文庫サイズのブックカバーを編んでみた。
これがけっこう難しかった。

 

色が渋過ぎると、出来上がってから思ったのは、まだ後悔としては軽いほう。
やはり一番気になるのは、手触りと、かっちり感。

手触りは、糸をコットンにしたので、まあまあいい感触。
いつもは革のブックカバーを使っているので、夏に向けて一気に爽やかになった。

問題は、かっちり感。
革のしっかりしたカバーを10年間も使っているので、どうしても頼りなく思えてしまう。
持っているときに、カバーと中身が微妙にずれる感触が気になる。

手ぬぐい生地などのカバーよりは、ずれるという意味では、まだいい。
それでも、何かが違う。
もう少しキチキチに編めばよかったんだろうと思う。

ということで、ブックカバーはこれから改良していこうと思う。

カバーの中身の本は、ウズベキスタン旅行から帰ってきた後、読み始めた本。
文明の十字路の歴史は本当におもしろい。

でも、今日も、仕事仲間から、
「今度、カザフスタンの話を聞かせてくださいね」とメールが来た。

ウズベキスタンです。スタンしか合ってないから。

犬をなでた

2010-05-16 03:11:34 | Weblog
久しぶりに犬をなでた。

それにしても、なぜ犬は、瞬時に人間を見分けることができるのだろう。
犬に対する好意はもちろん、複数名いる人間の上下関係が瞬時にわかる。
犬は賢い。

賢くない犬もいるのだろうけど、
私がむかし飼っていた犬も人間関係を見抜くという点では、
私以上に賢かったし、今日会った犬もそうだった。

特にメス犬は、その集団のなかにいるたった一人の男性や、
一番人気のある男性にくっついていることが多い。
好意や人間関係のベクトルが、目に見えているかのようだ。
寄っかかったり、アゴをのせて甘えてみたりと、
いろいろな小技を繰り出してくる。

そして、犬には、独特のまなざしがあり、
初対面の犬でも、だいたいは何を考えているのかがわかる。

この点、猫の場合は、私にはまったく考えていることがわからない。
犬は、警戒しているときは吠えるし、
慣れて来たら匂いをかぎにきたりなめて来たりして、
安心するとお腹を見せて寝て、さわらせてくれる。
だいたい1時間くらいで、心を開いてくれる。
でも、猫はそうはいかない。

犬ぎらいの人は、特に吠えられるのが苦手なのだろうけど、
どこで警戒心がとけたのかが伝わるから、私にはわかりやすくていい。

そして動物をなでているとき、人はやさしい気持ちになる。
これがまたありがたい。

観音経講話

2010-05-14 12:26:48 | Weblog
『観音経講話』(講談社学術文庫)を読み終わった。

学術文庫版まえがきは、こう始まる。
 中国の四川省の宝頂山石窟に「大悲閣」という大きな殿堂があり、
そのなかに中国最大の千手観音像がある。観音さんの坐像の高さは三メートルにすぎないが、
その背後の崖面に千七本の手が、まるで孔雀が羽をひろげたような巨大な形で刻まれている。

大学3年のときに、この土地を訪れたときのことを思い出した。
中国留学中に知り合った友人と二人で、
いまでは考えられないくらいの貧乏旅行をしていたときのことだ。
何気なく訪れたその地で、まるですべてを覆ってくるような観音像の姿を見て、
ただただ呆然とし、自分のなかにおそれを感じた。

ときに、ただ「観音さま」と念ずれば救われる、と極端に解釈されることもあるけど、
観音菩薩の化身であるダライ・ラマへに対するチベットの人たちの信仰心からは、
もっと広大無辺で、深いなにかを感じる。

「観音さま」と念じたって、虫歯はやはり痛い。
他人から危害を加えられれば、やはり悲しいし腹もたつ。

でも、凝り固まって痛くて辛くてたまらない自分を、
心のなかで、ほんの少しだけ他の存在にシフトする。

私はお腹を壊したりして、体調がすごく悪いとき、
いまでも一人、家のなかで七転八倒しながら「お母さん」と言ってしまう。
亡くなっているから、呼んでも来てはくれないけど、
これは、ひとつのおまじないだと思っている。
母は、辛そうな私の姿を見て、本心から「代わってあげたい」と思ってくれていた。
だから逆に私は、母にではなく、自分にこの痛みが来たのでよかったと思えた。

痛みは常に引き受けられる人に訪れる。
だから、救われるんだと思う。

心の整理

2010-05-13 03:27:12 | Weblog
呪詛の言葉が自分に向けられているとわかると、いい気はしない。
その言葉をいっている相手を思い浮かべることができるなら、なおさら。

ただ、自分はそこまでの言葉をその人に対して言うことがなかったことを思うと、
なんとなくホッとする。

でも、こういうとき、言霊の存在を信じたくなる。
誰かがそう言っていると確信するだけで、なんとダメージを受けることか。
しょせんは私の心が生み出した幻影に過ぎないのに、心の中に澱がたまっていく。

人の心は恐ろしい。
相手を呪い殺すとき、同時に自分をも呪い殺している。
相手の姿は、自分の心の鏡に過ぎない。
私が右手を上げるから、心の中の相手も右手を上げるのだ。

先日読んだ『雪の下の炎』という本を思い出す。
中国政府の圧政に苦しんだチベット僧のお話だ。
読みながら、慈悲について深く考えさせてもらった。
こういった読書の経験も、いま私を支えてくれている。

不安は彼方から到来するのではない。
自分の心の中からわき上がるものだ。
怒りもそう。その根は自分の心の中に、自分の行いの蓄積に根ざしている。

こういった思索や感情の動きは、私に心を取り戻させてくれる。
少しダメージを受けているけど、明日が到来することに感謝しよう。

最後は人との出会い

2010-05-12 17:02:12 | Weblog
ここ数日、プライベートでいろいろな営業さんとお会いしている。
これまであまりお会いすることのなかった業種の営業さんに顧客としてお会いすると、
いろいろと教わることがある。

私は電話で話すのがあまり好きではないし、
日中はこちらも仕事をしていることが多いので、まずメールで申し込みなり問合せをする。

自分の仕事でも思うけれど、メールの対応というのは、なかなか難しい。
相手が文字として書いたことを的確に読み取って、
しかも潜在的なニーズを予測し、次に繋がるような返事をしなければならない。

文字だけであっても、不満や不信は伝わるものなので、
相手に好印象を与え、数あるサービスのなかから自分を選んでもらう、というのは、
言葉による会話以上に難しい。

特に、まずメールで問い合わせる人は、
「しつこくされたらイヤだ」
「相手がどんな人かわからないのに、電話番号を知られたくない」
「文字に残さないと不安だ」
と、思っていることが多いのだから、
相手に少しでも不安や不便を与えたなら、素早く謝り、
相手が求めているかたちで情報提供をしなければならない。
「うちの会社はこうなんだから、こうしてもらわないと・・・」という
尊大なそぶりが少しでも見えると、
積極的になにかをされたわけではなくても、私は少しムッとする。

読む手間を与えずに、かつ丁寧に相手がほしがっている情報を的確に与えること。
一度納得して、ある程度信頼すれば、電話番号も教えるし、個人情報もある程度は開示する。
というか、積極的に私のニーズを話し、
ぜひ協力してもらいたいし、あなたの成績になるといい、という気持ちにもなる。

ここまでに距離が縮まるには、最初の1~2回のメール対応に大きく左右されるし、
はじめて会った時の印象でほぼ決まる。
そして、気持ちのいい人に出会ったら、それだけで嬉しくなるし、
私の気持ちもどんどん前向きになる。

最後はやはり人との出会いなんだよな。なんでも。

小物ができた

2010-05-10 20:56:02 | Weblog
夕方から、仕事用のパソコンのソフトを整理した。
不要なソフトをアンインストールして、
新たに「Adobe Creative Suite 4 Design Standard 日本語 Mac版」をインストールした。

今ごろCS4。

パソコンが使えないので、堂々と編み物をした。

数年前に買った「ツゲの櫛」。
このカバーが古くなったので、作ってみた。


「こま編み」は、
観音菩薩の真言「オン マニ ペデ フム」とちょうど調子があう。

編み物に夢中

2010-05-10 16:18:53 | Weblog
サマルカンドで、いろいろな人の丁寧な手仕事を見て、
久しぶりに何かが作りたくなった。
骨の髄まで影響されてしまったようだ。

約20年ぶりに、かぎ針を持ち出し、糸を買って、ストールを編んでみた。
「自分で作る時こそ、素材などにこだわるべきだ」という友人のアドバイスにより、
糸は天然素材だけで出来ている少しいいものを買った。


最初は、力の入れ具合がうまくコントロールできなくて、
本に載っている目の数と長さがうまく合わなかった。
でも、30分もやっていると、昔のペースをだんだんと思い出し、
どんどん勢いがついて、気がつくとすごい勢いで編んでいた。

模様編みとはいっても、ほとんど同じ動作の繰り返し。
一定のリズムがあり、ひたすらそれを繰り返す。
単純作業だからつまらないでしょう、飽きない?と言う人もいるけれど、
私は、こういった繰り返し作業が結構好きだ。

ピアノの練習で言うと、ハノン。
なにかが心に浮かんでは、ふっと去って行く。
すごく集中しているのとも少し違う。
ゆったりとしたなかで、なにかがリズムに引き寄せられて去来する感じ。

ふと、チベットで出会ったおばあさんが、
数珠を一つずつ繰りながら、お経を唱えていた姿が頭に浮かんだ。

いまの私は、あのときのおばあさんと似ているかもしれないなあ、と思った。

ストールはすぐに編み終えてしまったので、いまランチョンマットを編んでいる。
サマルカンドの絨毯工場の人が言っていたように、
楽しい気持ちで作ったものは、完成したとき楽しいものになる。

より豊かな食卓と、満ち足りた生活のために祈りながら編もうと思った。
きっと、祈りに満ちたものになるから。

そして・・・、なんだか予期せぬコメントがいっぱい届いたので、
タイトルを変更してみた。
思ったまま書けないと言うのも、難しいねえ。