ヒマヒマノキ ~歩いて、見て、楽しんで~

庭園・街の花、まつり・名所。いろいろな出会いを,その時々の想いを交えて、皆様にお届けします。

1300年の歴史に思いを馳せる ~武蔵国分寺跡~

2023-09-27 | 公園・庭園・名所

以前から、友人の一人が、”もしも行ってみようと
思ったときは
案内するよ”と言ってくれていた
史跡があります。
国分寺市にある「武蔵国分寺跡」です。
一人で行ける自信がありませんでしたので、
案内を頼んだところ、快く引き受けてくれました。






数日前です。それほど暑くもなく、青空が
広がる日でした。

国分寺駅の南側は、マンションやビルや住宅がずっと
続いています。地域バスはその街並みの中を史跡へと
向かっていきました。
どこに史跡があるんだろうか。バスが終点に着いて
見渡すと、目の前に、樹々や草地が広がっています。
都会の真ん中にこのような史跡がよくぞ残っていた
ものです。
パイプで仕切られていますが、現在も史跡公園として
計画的に整備が進められているのだそうです。



史跡内に入ると、友人が早速解説してくれました。
とにかく淀みがありません。一体いつ勉強したのか
しらん。

武蔵国分寺の建立の詔(みことのり)を発したのは
聖武天皇。
時は、奈良時代中頃の741年(天平13年)。
天然痘や災害が続く状況に対して、これを仏教で
鎮めようと、
全国68か所に国分寺・国分尼寺の建立を
命じたわけだ。


当時の武蔵国(東京・埼玉・川崎・横浜の区域に相当)
国府は今の府中市。そこからも近く、地理上も適地
として
この地が選ばれた。
国衙(役所)から、国司が行事など武蔵国分寺を訪れて
いたという。

武蔵国分寺が完成したのは詔の発出から17・18年後
らしい。その寺域は東西8町(約880m)南北5町半
(約550m)とある。
しかし、現在までの発掘調査等の結果、七重塔や
伽藍の建物
だけでなく、関連する史跡を含めると、
今や、
その寺域は、東西1.5㌔南北1㌔にも及んでいた
ことが
分かってきている。
全国の国分寺の中でも最大級で、奈良の東大寺にも
匹敵する規模のものだったらしい。
(上の復元図の写真は、国分寺市立図書館デジタル博物館の
復元映像からお借りしました。)


      
友人の話は、よどみがなく見事です。学校で習った
はずの日本史などすっかり忘れている私です。一体
いつ勉強したのか、ただただ驚くばかり。
この後も、ずっと名調子を随所で聞かせてもらいました。










 
最初に向かったのは「七重塔」跡。お経が収められていた
ようです。今や礎石が見られるだけですが、寺域の伽藍の
中でも特に重要な建物と位置付けられていたようです。
それにしても七重とは珍しいです。すごい建築技術です。

跡地にあるイチョウの大木はもちろん近代のものだと
思いますが、昔を忍ばせる風情がありました。


      
七重塔の復元模型が市の事務所の庭にありました。
これでも4~5mくらい?かも。
もしもこれが復元されたらすごいですね。













次に向かったのは、「金堂」跡と、金堂と中門の間に
あった「幢竿(どうかん)遺構」です。
金堂は、伽藍の中で、木造の仏像が収められていた
中心的な建物。一方、
幢竿は、儀式の際に、”幡”(ばん?)
つまり”のぼり”を吊るした柱でした。
2列で6基あったとされています。





ここは「講堂」跡です。
当時20人の男性修行僧が勉学に励んでいたとされています。
武蔵国分寺は、寺と言っても、死者を弔う場ではなく、
学習・研究の場だったようです。





ここは鐘楼です。梵鐘が吊り下げられていました。





建物の跡から振り返って史跡内を見回すと、
相当に広い寺域だったと感じました。





ところで、武蔵国分寺は、鎌倉幕府が滅亡した
1333年(
元弘3年)、鎌倉幕府軍と新田義貞の軍勢が
戦った「分倍河原の合戦」の際、敗走した新田義貞
の軍によって火がつけられたといわれ、薬師如来像
は戦火を免れたものの、建物はすべて焼失して
しまいました。
翌年新田義貞が財を寄進し、それを元に
武蔵国分寺跡に薬師堂が建立されました。

武蔵国分寺跡の北側にある現在の「国分寺」は、
その薬師堂を受け継ぐいわば後継寺院として
今日にいたっているものです。
庭は万葉庭園として様々な山野草が植えられており、
和歌が掲示されていました。


      
友人の名調子の解説を聞きながら、約1300年に
及ぶ歴史に思いを馳せる一日となりました。
貴重な史跡を知る機会をつくってくれた友人に
改めて感謝です。

コメント (2)
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