白河小峰城は2年前に訪問しました。しかし2年前は、東北大震災によって壊れた石垣や三重櫓の修復工事のため、城内に入ることができませんでした。今回は、主な箇所の修理を終えたということで、その姿を見ることができました。
城の庭から見る小峰城は、凛として、美しくそびえ立っていました。
小峰城の案内板によると、1627年(寛永4年)から4年にわたってこの城を造営した丹羽長重について、次のように書かれています。
「丹羽長重は、まず阿武隈川の流れを北側に付け替え、外堀のさらに外側の防御ラインとしての機能を持たせました。また、河道の変更により、本丸の西側に広大な家臣の屋敷を確保することを可能にしました。本丸には本丸御殿のほかに、前御門、桜之門を設け、西周には三重櫓をはじめ富士見櫓、雪見櫓、月見櫓などを構築しました。さらに、二の丸、三の丸の各所にも門を配置するなど、城郭全体の構造を整えました。」
三重櫓は小さいながらも気品のあるたたずまいです。
本丸御殿は焼失したまま今はその建物をみることはできません。かなり大きな御殿だったようです。
前御門です。パンフレットによると、この門は、「表門とも言われ、その名のとおり本丸の正門として、裏門にあたる桜之門とともに本丸の防御を狙っていた門です。」とされています。
本丸を囲む塀や石垣。そして城をとりまく石垣。
ところで、三重櫓は内部も見ることができますが、実は櫓まで石段を登るのは私の足では無理でしたので、家人に写真に収めてきてもらいました。それが下の写真です。
城を後にしてふと振り返ると、櫓のシャチホコに一羽のカラスが止まっていました。この城をそっと見守っているようでした。
ところで、城の修理はまだ続くようです。白河のシンボルでもある小峰城のすべての修復が一日もはやく終わるよう願ってやみません。
城の庭から見る小峰城は、凛として、美しくそびえ立っていました。
小峰城の案内板によると、1627年(寛永4年)から4年にわたってこの城を造営した丹羽長重について、次のように書かれています。
「丹羽長重は、まず阿武隈川の流れを北側に付け替え、外堀のさらに外側の防御ラインとしての機能を持たせました。また、河道の変更により、本丸の西側に広大な家臣の屋敷を確保することを可能にしました。本丸には本丸御殿のほかに、前御門、桜之門を設け、西周には三重櫓をはじめ富士見櫓、雪見櫓、月見櫓などを構築しました。さらに、二の丸、三の丸の各所にも門を配置するなど、城郭全体の構造を整えました。」
三重櫓は小さいながらも気品のあるたたずまいです。
本丸御殿は焼失したまま今はその建物をみることはできません。かなり大きな御殿だったようです。
前御門です。パンフレットによると、この門は、「表門とも言われ、その名のとおり本丸の正門として、裏門にあたる桜之門とともに本丸の防御を狙っていた門です。」とされています。
本丸を囲む塀や石垣。そして城をとりまく石垣。
ところで、三重櫓は内部も見ることができますが、実は櫓まで石段を登るのは私の足では無理でしたので、家人に写真に収めてきてもらいました。それが下の写真です。
城を後にしてふと振り返ると、櫓のシャチホコに一羽のカラスが止まっていました。この城をそっと見守っているようでした。
ところで、城の修理はまだ続くようです。白河のシンボルでもある小峰城のすべての修復が一日もはやく終わるよう願ってやみません。