今日はまず「津幡町観光ガイド」より抜粋・引用し掲載する。
『かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道沿いに建つ弘願寺は、
その当時、脇本陣的な役割を担っていました。
加賀藩前田家の歴代の殿様は本陣(ほんじん)御旅屋(おたや)にお泊まりになり、
その家来たちは同寺院に泊まったそうです。
1878(明治11)年には、明治天皇が北陸巡幸(じゅんこう=天皇が出かけること)の際、
同寺が昼食休憩所となりました。』
上記「北陸巡行」については、過去記事に詳しく以下にリンクを張る。
ご興味あれば、ご覧くださいませ。
れきしる改元企画。 - つばた徒然@つれづれ津幡
さて、「弘願寺(ぐがんじ)」は浄土真宗東本願寺派の寺院。
散歩で立ち寄る定番スポットになっているが、先日訪問の折、建物を観察してみた。
やはり、目を引くのは「大屋根」だろう。
子供の頃から何度も見上げ、見事な造りに感心したっけ。
寺院建築は中国大陸から伝来した。
同じく大陸由来の「瓦」による荘厳な屋根が大きな特長。
重厚感のある佇まいは、迫力満点である。
瓦の色が違うのは、葺いた年代の違い?修繕の手が入った跡か?
立派な本殿。
屋根の下に注目してみると、隅棟の下に配された狛犬の「隅木飾り」。
元々先端部の腐食を防ぐとこを目的としていた部位。
社寺建築の洗練化にともない、装飾品としての役割も持つようになった。
また、隅木飾の背後、角材が規則正しく並ぶ「垂木飾」。
同様に、本来の木材の傷みを防ぐ目的から作られ、
やはり、社寺建築の装飾品として発展した。
更に、 本堂周囲をぐるりと囲む欄干を眺める。
遮る壁のない辺り故、雨風や紫外線に晒され易く、少々痛みが見て取れた。
いわゆる「擬宝珠(ぎぼし)高欄」で、
伝統的な建築物の装飾、擬宝珠はネギの花に似ていて「葱台(そうだい)」とも。
設置した時の記録だろう。
刻まれた、明治二拾六(26)年の文字。
この年は「癸巳」の干支、十一月に完成したと見受けられる。
今から130年近く前の意匠だ。
ひとしきり拝見した離れ際、建物内に提灯らしきものを認める。
窓ガラスの下に隠れた墨文字を推察するに、
「月亭方正 弘願寺落語会」とでもなるのだろうか?
落語家の「月亭方正」氏は、津幡町の広報特使(つばたPR特使)。
細君が弘願寺の娘さんなのである。
『かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道沿いに建つ弘願寺は、
その当時、脇本陣的な役割を担っていました。
加賀藩前田家の歴代の殿様は本陣(ほんじん)御旅屋(おたや)にお泊まりになり、
その家来たちは同寺院に泊まったそうです。
1878(明治11)年には、明治天皇が北陸巡幸(じゅんこう=天皇が出かけること)の際、
同寺が昼食休憩所となりました。』
上記「北陸巡行」については、過去記事に詳しく以下にリンクを張る。
ご興味あれば、ご覧くださいませ。
れきしる改元企画。 - つばた徒然@つれづれ津幡
さて、「弘願寺(ぐがんじ)」は浄土真宗東本願寺派の寺院。
散歩で立ち寄る定番スポットになっているが、先日訪問の折、建物を観察してみた。
やはり、目を引くのは「大屋根」だろう。
子供の頃から何度も見上げ、見事な造りに感心したっけ。
寺院建築は中国大陸から伝来した。
同じく大陸由来の「瓦」による荘厳な屋根が大きな特長。
重厚感のある佇まいは、迫力満点である。
瓦の色が違うのは、葺いた年代の違い?修繕の手が入った跡か?
立派な本殿。
屋根の下に注目してみると、隅棟の下に配された狛犬の「隅木飾り」。
元々先端部の腐食を防ぐとこを目的としていた部位。
社寺建築の洗練化にともない、装飾品としての役割も持つようになった。
また、隅木飾の背後、角材が規則正しく並ぶ「垂木飾」。
同様に、本来の木材の傷みを防ぐ目的から作られ、
やはり、社寺建築の装飾品として発展した。
更に、 本堂周囲をぐるりと囲む欄干を眺める。
遮る壁のない辺り故、雨風や紫外線に晒され易く、少々痛みが見て取れた。
いわゆる「擬宝珠(ぎぼし)高欄」で、
伝統的な建築物の装飾、擬宝珠はネギの花に似ていて「葱台(そうだい)」とも。
設置した時の記録だろう。
刻まれた、明治二拾六(26)年の文字。
この年は「癸巳」の干支、十一月に完成したと見受けられる。
今から130年近く前の意匠だ。
ひとしきり拝見した離れ際、建物内に提灯らしきものを認める。
窓ガラスの下に隠れた墨文字を推察するに、
「月亭方正 弘願寺落語会」とでもなるのだろうか?
落語家の「月亭方正」氏は、津幡町の広報特使(つばたPR特使)。
細君が弘願寺の娘さんなのである。