★ご縁があって川崎航空機工業に入社し、3社合併があって川崎重工業で現役生活を終わったのだが、それから20年も経とうとしている今も、お付き合いが続いている人たちが何人かはおられる。
そんな中で、この1年一番多くお会いして一緒の時間を過ごしたのが、大槻幸雄さん、稲村暁一さん、田崎雅元さんの3人だろう。
みんな 川崎航空機工業入社で、大槻さんが昭和30年、私が昭和32年、稲村さんと田崎さんが昭和33年入社なのである。
カワサキワールドのZフェアで、KAWASAKI Z1 FANCLUB のこんな仲間たちと一緒にこの4人が顔を揃えたのである。
その後 カワサキワールドの一室で、こんな雰囲気での昔話に花が咲いたのである。
私は『想い出を共有する人たちを仲間』と称しているのだが、お互い『想い出を共有する・そんな昔話』が出来る仲間なのである。
★ 稲村暁一さん (昭和33年 1958 入社)
私は現役当時の稲村さんはよく知ってはいたが、一緒に仕事をしたことは殆どないと言っていい。
彼は名車カワサキZのエンジン開発担当者として有名で、カワサキの『4サイクルは稲村』と言われていたのだが、カワサキが初めて4サイクルエンジンを開発したのはZからなので、それまではどうしてたんだろう?と言うのが私の疑問だったのである。
稲村さんに『なぜ稲村さんは4サイクルのエンジニアと言われるのか?』と聞いたことがあるのだが、その答えは『入社当時川崎航空機が手掛けていた4輪車の開発でその4サイクルエンジン開発を担当していた』と言うのである。
この4輪車は陽の目を見なかったが、後、二輪のアメリカ市場を担当された浜脇洋二さんなども関わっておられたプロジェクトで、そんなことで稲村さんは入社以来4サイクルエンジンに関係していたと言うのである。
現役当時、仕事らしいことで稲村さんと話したのはそれくらいしかないのだが、最近は年4回開催されているZ1会のゴルフコンペでお会いしているし、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の会合にも顔を出してくれたりもするので、現役時代より密接なお付き合いなのである。
いまゴルフコンペのZ1会の副会長を務める稲村さんに『ゴルフを教えた』のは、実は私なのである。
なかなか信じがたいと思われるだろうが、1990年代後半の単車事業本部の理事室は、当時の3研と言われていた綜合事務所にあって、立派なゴルフネットが張られていて、いつでも打ち放しができる環境だったのである。こんな部屋を作ったのは当時企画にいた佐伯武彦さんで、アメリカのリンカーン工場帰りの彼でなければ作れなかった代物だったのである。
その理事室で稲村さんとは机を並べていたので、彼に『ゴルフをやること』を勧めて、コーチしたのは私なのである。あの時私がゴルフを勧めていなかったら、稲村さんのZ1会副会長もなかったのである。
現役時代は、稲村さんとは会議などではしょっちゅうご一緒しているのだが『共有している想い出』と言えばそれくらいのことで、引退してからの方が、間違いなく会話の機会も多いのである。
★大槻幸雄さん (昭和30年 1955 入社)
カワサキの技術屋さんの中で一番長くお付き合いし、一番長くお話をしているのは『大槻幸雄さん』であることは間違いない。
大槻さんは『結構こわい』イメージも強くて、『とっつきにくい』印象もあるのだが、私はそんな大槻さんに何でもざっくばらんにお話しできる仲なのである。
そんな大槻さんとの初めての出会いは、昭和40年6月(1965)『鈴鹿6時間アマチュア耐久レース』の時だった。私は当時レース運営やライダー契約など担当していたのだが、その時カワサキのレースチームに初めて正規の監督が出来て監督が大槻幸雄さん、助監督が田崎雅元さんだったのである。それまではカワサキコンバットの三橋実が監督を務めていたのである。
当時大槻さんはGP125のマシン開発なども担当されていたのだが、この年の7月に大槻さんは1年間の『ドイツ留学』が決まったのだが、翌年マン島で開催されたTTレースの公式練習中にカワサキのマシンに乗った藤井敏雄さんが転倒事故死される事故があって、そのご遺体をマン島から送り出して頂いたのが、たまたまマン島の現地に行かれていた大槻さんで、羽田で受け継いだのが私だったのである。
その直後大槻さんは日本に戻られて、FISICO で開催された日本GPの監督として、私はそのマネージャーとして再会するのだが、その時カワサキが契約したデグナーが練習中に転倒して生死の境を彷徨う入院などの出来事があったのだが、この時の病院での対応なども、当時ドイツ留学から戻られた直後で『ドイツ語が解る』大槻さんがいろいろと対応されたことなども印象に残っているのである。いずれにしてもこの年は、お互い大変だったのである。
大槻さんも私もこのレースを最後にレースチームを離れ、大槻さんは単車の市販車開発に戻られ、私は東北6県担当の営業に異動するのだが、その最初の東北6県のデーラー会議に技術説明者として来て頂いたのが大槻さんで一週間ほどご一緒したのである。その時言っておられたのが『世界一のバイクを創る』これが多分大槻さんのアタマにあったZだったのだと思うのである。
大槻さんとのお付き合いはそんな『レースが中心』だったのだが、その後私が開発途上国市場を担当した時に『GTO』という110ccのバイクの開発を当時技術部長をされていた大槻さんにお願いに上がったことがあるのだが、ただ一言『そんな開発はしない』と仰るのである。当時は大槻さんのアタマには『大型車エンジン』しかなかったのだろうと思うが、私が粘り強く喋ってたら『2サイクルの松本』と言われた松本博さんが『私がやりましょう』と助け船を出してくれて『GTO』が開発されたのである。
このGTOは、CKDの部品輸出なので台数記録がカワサキには残っていないのだが、東南アジア市場各地で『GTOで溢れた』と言われるカワサキのダントツのヒット商品となったのである。これが私が直接関与した唯一の商品企画で、それ以外は一切商品企画には直接的には関係していないのである。
そんな大槻さんは『世界の名車カワサキZ』の開発責任者として知られている。そのZ発売40周年の記念イベントが5年前アメリカで行われたのだが、Z1会のゴルフコンペの親睦会の席上で突然『古谷も来い』と仰るのである。私はZは売りはしたが開発にも、当時のアメリカにも全く関係がなかったので、固辞したのだが『どうしても』と仰るので、Zについて何かしないといけないと思って、登山道夫さんと相談して立ち上げたのが KAWASAKI Z1 FAN CLUB なのである。
そして その会員カードをアメリカで開催された『Z40周年記念イベント』に持ち込んで、その出席者たちに会員になって貰ったので、KAWASAKI Z1 FAN CLUB のカードの No.1は浜脇洋二さん、No.2がアラン・マセック No.3が大槻幸雄さん とまさに『カワサキZの真打ち』さんたちが最初の番号に続いている世界で唯一のFAN CLUB なのである。
そんな最初の経緯もあって、大槻さんには KAWASAKI Z1 FAN CLUB の正規会員としていろいろ手伝って頂いているのである。
大槻さんは、Zの開発責任者として有名だが、実際にご自身で開発に従事され、それを川崎重工の事業に育て上げられたのは、二輪よりもむしろ『ガスタービン』の分野なのかも知れない。こんな立派な本も出版されていて、今や川崎重工の大きな部門となっているのだが、若い頃ドイツ留学されたのもこのガスタービン関係だったのである。
こんな大槻さんの本が私の手元にあるのは、三木で開催されたKAWASAKI Z1 FAN CLUB のイベントで、大槻さんが提供されたものでその時私も購入したのである。読んでもとても理解はできないのだが、大槻さんの本だから持っているのである。
こんな旧い想い出を共有している『大槻幸雄』さんなのである。
★田崎雅元さん (昭和33年 1958 入社)
川崎航空機入社は私の一期あとだが、稲村暁一さんとは同期、川崎重工業社長・会長を歴任されているのだが、何時まで経っても私の田崎さんとの仲は、『創成期のレース仲間』のままの関係が延々と続いているのである。
田崎さんとのお付き合いはホントに長いのだが、ひょっとすると『二人だけの写真』は、これが初めてかも知れない。この週初めのKAWASAKI Z1 FAN CLUB のイベントに突如『行きたい』と電話が掛かってきて、ご一緒したのである。
現役時代、『一緒に一番長く、一番密接に仕事をした仲間』は、間違いなく田崎雅元さんである。
初めて会ったのは、未だジェットエンジン時代の労組の常任監事時代の田崎さんで私は発動機部門の常任幹事をしていたころだから、昭和35年(1960)以来もう60年近くになるのだが、関係がなかったのは、私が退職し田崎さんが川重社長の何年間だけで、会長時代はよく川重の会長室を訪ねたし、今はカワサキワールドで年中行事として定着している『ミニ・トレインイベント』も発案者は私、当時会長をしていた田崎さんが神戸市に一緒に行ってくれて、メリケンパークでの開催が実現したのである。
若い頃から一緒にやった仕事や、お互い連携したことを思い返して見るといっぱいあり過ぎて、なかなか書ききれないのだが、カワサキの単車事業展開の結構真ん中の部分にいて、特に70年後半のハーレー・ダンピング対策やそれに続くアメリカ市場でのHY戦争の影響で、カワサキの単車事業は『最大の危機の時代』を迎えるのだが、そのハーレ・ダンピングの対策担当者が田崎さんだったし、その対策としての国内市場の構造改革を担当したのが私だったのである。
そのあとすぐ髙橋・田崎さんはその渦中のアメリカ市場のKMCに出向されるのだが、その販売会社の構造対策の具体案がムツカシクて、急遽私は当時川重の山田専務や本社財務のメンバーで構成されていた『単車事業対策委員会』の要請により単車企画室に戻って、当時のKMC社長の田崎さんとのコンビでKMCの販社構造対策を主として行うことになるのである。
84年のKMCの新社屋プロジェクトなども、KMCと本社財務を結んだ企画室の合作の成果で、当時の川重の大西副社長などが直接、建築会社をご紹介頂いたりしたのである。
当時のカワサキ単車事業本部は大庭浩本部長・髙橋鐵郎副本部長・私が企画室長、田崎雅元KMC社長、佐伯武彦リンカーン社長と言う布陣で、考えてみると私を除いて、その後の川崎重工業の社長がお二人、副社長がお二人の錚々たるメンバーだったのである。
その中でKMC対策が中心課題で、当期の経営改善もさることながら、当時100億に近かったKMCの累損消去が企画室長としての『私の最大の目標』だったし、その目標は、田崎・百合草のKMC 社長時代に達成できる成果を残したのである。そしてその実現には、国内のカワサキオートバイ販売からKMCに逆出向していた『富永・日野両君』が果たした役割も大きかったなと思っているのである。
★田崎さんはまさしく技術屋さんなのだが、図面を書いたこともナイ技術屋さんで、技術屋さんらしからぬ範疇の仕事が多かったし、KMC時代は大変な営業外対策が必要な時期だったので、田崎さんにバランスシートを教えた先生は私なのである。
ただ誠に優秀な教え子で、田崎さんは その後資金対策などに格別の興味を持たれたし自ら勉強もして、私などよりはよほど詳しくなったし、川崎重工業社長時代も無配が続く非常に難しい時代を引き受けられたのだが、その期間に川崎重工業のバランスシートの内容は画期的に改善されたし、そのムツカシイ旗を自ら振られているのである。
そんなことで非常に親しくして頂いていて、昨年はメールのやり取りも頻繁だったし、何回もお会いしたし、今年も多分昔同様の仲間としてのお付き合いが続くだろうと思っている。
こんな昔の仲間たちは、ホントにいいなと思っている昨今なのである。