★ 『カワサキアーカイブス 古谷錬太郎インタビュー』という
こんなデイスクが我が家にある。
カワサキの二輪事業の60周年記念に川崎重工の単車部門が
二輪事業の歴史を残そうとOB達にインタビューなどして創り上げたものだと思う。
アーカイブスとは
『アーカイブ (archive) とは、重要記録を保存・活用し、未来に伝達することをいい、保存記録などと訳されることが多い』とある。
そういう意味で
● 私の1時間ちょっとのインタビューと
● 私が保持していたカワサキ単車の膨大な資料
がデイスクに収められている。
★ これは2019年2月15日に登山道夫さんのGood Times Plaza で
こんなメンバーたちでの取材が行われた。
インタビュアーは川重OBの山田淳一さんだったが
事前に私のネットの記事を詳細に読んでおられて
それに基づいた質問でもあったので答えやすかったし、よく纏まっている。
昨日、久しぶりにそれを聞き直してみたのだが、
これはカワサキの二輪事業の歴史であると同時に、
私自身が生きてきたカワサキの現役時代の人生そのものでもあると思った。
★いままでもカワサキの単車事業についてはいろいろと書いてきたが
『私自身の人生の回顧録』として、私のその時々の想いを中心に、
もう一度纏めなおしてみたいと思っている。
特に私の現役時代の記録資料はこんなファイルが20冊ほどあったのだが、
それは全部ご提供したので川重には正規の資料として残されたと思うので、
現在はこの3冊に集約してあとは全て捨ててしまっている。
その資料は、川重ではこのように綺麗に整理されてお持ちのようで、
多分ほかに、こんなに纏まった資料はないのではないかと思うのである。
これは大項目だが、その詳細はデイスク1枚に収まるほどの量で、
何十年に亘る、カワサキの単車事業の歴史が収まっている。
★ 私自身はおおざっぱな性格なのだが、それは個人的なことであって、
公の会社の資料などは全て『私が作成』したものではあるが、
時系列に非常にきっちりと整理されて残されているので、
会社としてもこんな『デイスク』に収めて残そうとされたのだと思う。
それは昭和32年(1957)4月の入社時からスタートしているが、
当初の18年間は会社の資料はないので自分の日記から拾って月毎に纏めてある。
昭和50年(1975)の10月からは川重企画部門に転籍したこともあって、
ここからは会社の資料中心に年次ごと月毎、日毎に纏められていて、
その最終稿は川崎重工で現実に第一線を担当した平成7年(1995)3月までで終わっている。
いずれにしても約40年のカワサキ現役時代が纏められたのは、
20歳の時から続いている日記が手元にあったからである。
★ これは私が別に纏めている20歳からの10年毎の『私の履歴書』である。
表の真ん中にあるように、殆どの事項が『全く新しいこと』に挑戦してきたと言っていい。
● 20代は、大学から川崎航空機入社の時期だが、
一言で言えば『勉強期間』この時期に二輪事業はスタートしている。
● 30代には、広告宣伝・レースなども担当し、
特約店制度など新しいシステム構築などが始まっている。
● 40代に入ると、川重の企画室に復職し、
東南アジアプロジェクトやアメリカダンピング問題対策として、
国内販社新体制を構築し自ら常務として経営の旗を振ることになった。
● 50代はアメリカKMCの経営危機で、二輪事業撤退の危機でもあった。
この時期は企画室に戻り事業部の経営再建を直接担当し、
後半には、ようやく二輪事業も安定し国内事業経営に当たっている。
● 60代は現役時代の集大成の時期で最高の時代であった。
国内市場念願の7万台の販売目標を実現している。
● そして退職後の70代も、NPO 法人The Good Times を立ち上げて、
結構、楽しくやってきた。
この取材を受けたGood Times Plaza はその事務局でもあった。
● そして今80代ももう終わりに近づいている。
結構、元気なのがいい。
まだ、纏めてはいないが、どのように書くのだろうか?
こんな『私のアーカイブス』である。
もう一度、このインタビュー記事を振り返りながら、
私の生き方・考え方を纏めてみたいと思っている。
結構、長い『カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス』になるかも知れぬが、お付き合い頂ければ幸いである。