雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

8月15日の思い出

2007-08-16 06:24:38 | 政治
1945年8月15日、終戦の日を私は当時の朝鮮京城市、いまのソウルで迎えた。

中学1年生の夏休みもほぼ半ばを過ぎて、
夏休みの宿題になっていた、「そもそもわが国の軍隊はーーーーー」で始まる長い長い「軍人勅諭」をぼちぼち覚えなければと思っていた矢先であった。

そんなことで、軍人勅諭はその最初のくだりしか覚えていない。

夏休みの午前中を学校のプールで過ごしていて、
12時に天皇陛下の玉音放送を校庭で聞いたが、よく聞こえなかった。
然し、戦争に負けたんだなということは解った。

当時、朝鮮は日本領ではあったが、空襲で爆弾が落とされるようなことは全くなく、食料事情なども戦時中というのに何の問題もなかった。


小学校の4,5年頃までは、南方にどんどん攻め込んで世界の白地図に日本が占領したところを赤く塗るようなことをやっていて、この調子なら世界がニッポンになってしまうのではないかと,子供心にそう思った。

ところが、今のインドネシアの半分位までいったのだが、
それ以降は負け戦の連続で、内地は空襲になるし、関釜連絡船が潜水艦に撃沈されたりして、夏休みの明石帰りも4年生の夏までであったと思う。

南方で母方の伯父が戦死したり、明石の空襲で叔母が亡くなったりしていて、この戦争は負けると思うようになった。

中学に進んだが、学校に行ったのは半分ぐらいで、後は学徒動員で丁度家の裏手の山で「松根油」をとるために毎日松の根を掘っていた。
この間にも,出征する先輩を駅にみんなで見送ることも多かった。あの人たちは無事帰還されたのであろうか。



直ぐ米軍の駐留が始まったが、
治安も安定しており、特に問題はなくその年の12月に引き上げるまでは平穏無事の生活であった。
ただ、近所の方で8月15日直前に今の北朝鮮に出張された人などはその後消息が途絶えてしまうというようなこともあった。

今でも不思議に思っているのは、当時の私有財産はみんな、どのようになったのかということである。
仮に売ってお金に換えても日本に持ち帰ることは一定額以上不可能であった。

たまたま、私の家は米軍の空軍関係の人が買ってくれた。
そのあとの話が面白いのだが、
「現金にしても、持って帰れないので金塊で支払う。
そして伊丹空港まで荷物一つと一緒に、飛行機で運んであげる。」と言うのである。
父はその荷物の中に金目のものを入れるように母に言っていたのを覚えている。
通訳を通じての話だから、アメリカの空軍の人が本当にそう言ったかどうかは不明で、当たり前の話だが、伊丹に飛行機などは来なかった。

私は、金の延べ棒にした1貫目ほどの金をその時はじめて見た。その後そんな金の塊など見たことも無い。



その後、ソウルオリンピックのときに、ジェットスキーのデモのため世界で一番行きたかったソウルに行けた。

そして子供のときに過ごした家もそのままの姿で残っていたのを見ることが出来た。

ある意味、ソウルは私の故郷である。だから韓国は懐かしいし好きである。
8月15日、校庭で聞いた玉音放送が懐かしい。


私にとって戦争の影響は引き上げてから、始まったと言っていい。
戦後、5年間ぐらい日本人は本当によく頑張ったと思う。食料事情も悪かったし何もかも大変であった。
そして、そんな努力がいまの平和な日本の繁栄に繋がっているのだと思う。

こんな、波乱に満ちた時代に生きれたことは、ある意味幸せであったと思う。
とても、経験できないことばかりであった。
コメント (4)
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