Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

1972年

2020-12-21 02:12:19 | 思い出

私が英国へたどり着いたのがこの年、1972年、京都の日赤病院で看護婦として7年働いた28歳。

早い人なら結婚して子供もいる人も多いに違いない。今考えてみるとなんて何も知らない無鉄砲な28歳だっただろう。英語もほとんどできないそして聞いても判らないこの私が訪英2週間後の6月1日英国一周のヒッチハイクに出掛けた。

初日はカンタベリーのユースホステルまで何人かの車の運転手に載せてもらってたどり着いた。何にも知らないというのは恐ろしいもの知らず、英国の気候がこんなに日本と違っていることを知らなかった。初めの予定では英国3か月でヨーロッパを一回りして南太平洋・ニューカレドニアへ行く計画だった。だからイギリスからヨーロッパは真夏の気候と思って持ってきた服も、夏の薄手の服ばかり。

この年5月、6月は雨が多く寒さが身に沁みる。小さなリュックに半そで着替えと薄いストッキング、そしてサンダル履き。初日のユースホステルで日本から持ってきたきれいで薄手のレインコートを盗まれてしまった。若い女性ばかりが一部屋でバンクベッドが並んでいたが、若い女性が人のものを盗むなんて夢にも思っていなかった。

翌日まずはレインコートを買い、親切な運転手何人かに拾われてコーンウォールのいり口付近のプリマスのユースホステルへ着いた。ここのユースで出会ったのが、カナダ人の若い男性(当時21歳)のBM君、彼も一人旅でのヒッチハイク、すぐ意気投合して翌朝から一緒に旅をすることにした。

カナダはバンクーバーの大学生のBM君 ホテル・マネージメントを学んでいる。今までヨーロッパやアメリカなどヒッチハイクで廻ったが、日本並びにアジアへは行ったことがないという。

二人で車を待っている道端では、彼は私のノートに英語のフレーズを書いてくれそれを暗記し発音なども教えてもらった。彼にはひらかなを教えた。ユースホステルでは日中にスーパーで買ったお米と野菜や肉で焼き飯を作ってBM君からは大いに喜ばれた。

この1972年は日本はオリンピックが終わって8年目、団塊の世代が20代の働き盛り、日本の経済が目覚ましく上昇気流に乗っていた時期だった。そんな時代に来た英国は経済が停滞していた時期で、カラーテレビなど無く、白黒テレビをレンタルしていた家庭が多かった。

有る時、BM君に私の実家にはカラーテレビが2台もあるのよ。1台はリビングルーム、もう1台はダイニングルームと自慢したところ、君たちは食事しながらテレビを見るの?僕たちはダイニングルームではクラッシックミュージックを聞きながら食事をする。と言われてとっても恥ずかしい思いをしてしまった。彼のカナダの家族は夏休みはメキシコへ行ったりアメリカへ行ったりする、ロンドンにお祖母さんが住んでいるから家族みんなで英国へも来る。との話。

日本が経済発展途上に有ったこの時期、夏休みの何週間を海外で過ごせる家族がいったい何組いただろうか?そう思ってみると、彼は育ちの良い礼儀正しいお金持ちの坊ちゃんだった。

6月21日が彼の22歳の誕生日、誕生日の朝食にも焼き飯をリクエストされたとこの時の日記には書いてある。金持ちの坊ちゃんでもこの旅行のために働いてお金をためて出てきたという。私もこれから先1年もヨーロッパや南太平洋を回るため、貧乏旅行をするしかない。

こうしてコーンウォールからウエールズを回ってチェスター、オックスフォードからロンドンへ出て、2週間でブライトンへ帰ったが、その1週間後またBM君とロンドンで落合いスコットランドへ向かった。もう英国の寒さには辟易した私はBM君からスペアーのセーターを貸してもらって、靴とズボンを買って出かけた。

それでもこの年は特別寒かったのかもしれぬ。親切な英国人は車に乗せてもらうと必ず 英国は好きか?と聞く。 英国は素晴らしいがこの寒さだけはたまらないと毎回答えた。 すると返事も全く同じで 今年は特に雨が多くて寒いんだよ。と異口同音。

スコットランドも2週間アバディーンからクィーンの別荘地バルモラル城を訪れ、エジンバラも見て回っていろいろ楽しい経験を積んだ。

BM君とは一度もけんかすることもなく、お互い教えあっての旅だったから、おかげでブライトンへ帰った時は英語がだいぶましに話せるようになった。BM君はその後カナダの家族がロンドンへやってきて一家全部でロシアへ旅行に出かけるとのこと。それで一月に1回は文通の約束をして別れた。

その翌年1973年3月に私はポールと結婚し、娘が12月に生まれた。1974年BM君は日本へ行き、北海道から九州までヒッチハイクで廻った。日本は素晴らしいところだと長文の手紙が来た。

その頃は私の子育ての真っ最中、日本の両親に書くのさえ大変な頃、英語で手紙など書けなくて、とうとう返事を出さなかった。

それで私たちの文通は終わってしまった。

今年11月、ちょっとしたきっかけから娘に、 フェイスブックで人探しができるかしら? と聞いたところ、探してみると言って BMと言う名前は非常にありふれていてどこにでもあるが、バンクーバーでホテル業のBMはただ一人と言う。そしてフェースブックからその人にコンタクトしたところ、3週間後に返事が来た。

同時に私のフェイスブックにBMは友達ですかと載ってきたから写真をクリックしてびっくり仰天・・・・48年の年月は彼を白髪のおじいさんに変えてしまった。それに彼は若い男性と一緒の写真が多い。なんと彼はゲイだった。

あまりのショックでその夜は眠れなかった。私もメールだけは送ったが写真は送っていない。


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