goo blog サービス終了のお知らせ 

Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 シシリー アグリジェントからパルレモ

2025-07-25 19:29:00 | 旅行

 

 

アグリジェントから西海岸にはほとんどキャンプサイトが無い。ただ一箇所開いているはずのキャンプサイトへ行ってみたが、保守工事の真っ最中で断られた。
まだ無理をすればパルレモへたどり着けるかもしれないが、今夜はフリーキャンプと行こう。メイン道路を離れて海岸に大きな駐車場らしいのを見つけた。幸い水道もあり、今夜の魚料理もできる。駐車場の近くの家は、夏のセカンドハウスらしく全部閉まっていた。
シシリーでは西海岸しか夕日が海に落ちるところを見られない。そしてここマルサラ(Marsala)は絶好の場所だった。

夕食を終わって静かな波音を聞きながら読書や数独をしていると、11時頃今まで無人の駐車場に車が2台乗り付けて来た。そして若い男女5-6名が降り立ち、車の音響を最大限にして、踊り狂っている。私の大嫌いな激しいドラムの音とバンドが騒々しい。この夜は金曜日、夜明けまでこれをやられたら、たまったものじゃない。12時まで我慢をし、だめならどこかへ移ろうと話し合っていたら、ちょうど12時、急に静かになり2台とも立ち去ってしまった。現代版シンデレラはここシシリーに居るらしい。
亭主によればシシリーはカソリックの信仰篤く、おまけにマフィアの多いところ、10代の娘を持つ親も躾が厳しいのだろう・・・と。

 

その後は朝まで誰にも邪魔されることもなくのんびり朝寝坊までしたが、もしあの2台がマフィアだったら・・・・と思うと、ゾーとした。マルサラから160Km、高速道路は快調で海辺の町や山頂の村を見ながら、パルレモから7Km南にあるはずのキャンプサイトを探し回った。
高速を降りてはじめに見つけたスーパーマーケットで誰かに聞こうと駐車場へ入り、こんなひどい渋滞に巻き込まれたのは、ブカレスト以来初めてだった。

キャンプサイトは設備も良く、着いてすぐに洗濯機で洗った衣類やシーツ類が夕方までに乾いた。キャンプサイトは町の一角で海岸線はホリデー客用のプロムナードが長く伸びて散歩に最適、レストランや土産店の通りで生うにを売っている屋台が数軒出ていた。イタリア人はウニもマッスルも生で食べる。私は食指が動かなかったが。

Capo Gallo (ガロー岬)はキャンプサイトの散歩道の終点で、面白いかざりが目を楽しませてくれる。

キャンプサイトのパンフレットにはパルレモには車を運転してはいけない。カメラを持って行っては危ない。財布やクレジットカードは危ない・・・・・と禁止事項が書かれていて、それほどまでしてゆく価値は無いと観光をあきらめた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 シシリー アグリジェント

2025-07-25 05:59:29 | 旅行

このキャンプサイトへ来るまで知らなかったが、アグリジェントは4000年の歴史を持つ素晴らしいギリシャ時代の遺跡である。考古学サイトとだけ書かれたキャンプサイトの案内図を見て、メイン道路を走り商店街を抜けると途端に高い丘の上にギリシャの神殿が3箇所も見えてきた。苦労して遺跡の近くにキャンパーを停め、入場券売り場へ行った。
イタリアではEU圏内の65歳以上は無料になる。私の日本のパスポートを見てUK市民権があるといってもがんとして譲らない受付の女性は、亭主だけはパスポートなしでも無料にしてくれた。入場料10ユーロ、代わりにこの遺跡を良く知りたくて、日本語の案内書を7ユーロで買った。この案内書の日本語はイタリア人によって書かれたもので、”てにおは”が全くなっていない。

 

アグリジェントはギリシャの植民地として紀元前6世紀から5世紀に最盛期に達し、対岸のカルタゴに滅ぼされたあと、ローマ軍が権力を奪回した後も,かっての絢爛豪華な都市に戻ることは無かったという。広範な丘の上には完璧な姿を見せるコンコルディア神殿、半壊のジューノ神殿,石柱が数本立つだけのヘラクレス神殿のほか完全倒壊した4つの神殿がある。コンコルディア神殿の近くには岩をくりぬいた埋葬地があり丘の側面には生活した跡地が見える。一般市民は丘の下の谷間に住居後があるという。
面白いのはここの岩にも貝殻の化石が埋まった岩を使っていること。ここでは大理石が生産されず、当時の神殿は白く塗られていたとのこと。

 

コンコルディア神殿はギリシャ本国以外では保存状態が一番よく、アテネの遺跡より感激した。全然期待してなかったから、意外性という点でも一番良かった。遺跡の周囲を埋めるのはギリシャでも多かった金盞花の原種であたりをまっ黄色に染めている。丘の向こうにはアグリジェントの新市街が広がり、昔からこの土地が一般市民の生活の場にならなかったことをありがたく思った。トルコの遺跡群では崩れ落ちた石を使って一般市民の家の土台にしたため、残っていないところが多い。

ジョーヴェ神殿跡で発見された巨大な石像はテラモーネと呼ばれ、全長7.65メーター、石像の役割はいまだにはっきりとしていないが、学説によればこのジョーヴェ神殿(112.6mx56.3m 高さ10階建)の柱廊の飾りだったらしいとのこと。それが建っていたところはどうしても想像がつかない。このような偉大な遺跡群を見ていつも思うのは、その時代に戻ってその最盛期の頃を見てみたい。絶対にかなわぬ夢だけど・・・・・。

 

遺跡の中の博物館にローマ時代の石棺があった。さすが良くもこれだけ彫刻して飾り立てて素晴らしい。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 シシリー アグリジェントへ

2025-07-25 04:37:16 | 旅行

ノトからアグリジェントまでの約200Km程海岸線の田舎道を走った。周囲はビニールハウスとオリーヴ畑、それにしっかりと網をかぶせて保護されたブドウ畑が目に付く。
海岸の一箇所でCastello di Falconara (はやぶさ城)のサインあり、キャンパーを停めて行ってみた。

 

門にプライベートのサインがあり門から城まで数百メータ、海岸の岬の突端に建っている城はお金持ちがすんでいるらしい。今まで見かけたお城といえば全部崩れかけた廃墟だからこれだけでも写真の撮り甲斐がある。庭も手入れされてきれいだった。

 

 

城の庭の一角を占めるサボテンは何処にもありそうだが、これほど真ん丸いサボテンは始めて見た。野生のサボテンは楕円形でこの時期赤い実が実っている。これ以来いつもサボテンの葉には気をつけて見ていたけれど、ここと同じようなものには出会っていない。

遠くから見えるアグリジェントの町は城壁らしいものが見え,期待に心躍らせてキャンプサイトを探した。海岸線のキャンプサイトでは私たちのほかにイタリア人夫妻のキャンパーが一台停まっており、ご主人のほうが英語が話せて親しくなった。ローマから来た夫婦でここを最後に後数日でローマに帰るとのことだった。この夫妻は前日泊まったキャンプサイトで私たちを見かけたという。日本人とイギリス人の組み合わせは外国人から見ると奇異に写るのであろう。ギリシャでも何度か私たちを覚えているキャンパーのカップルに出会ったから。

 

前日ノトから山へ登ったとき、キャンパーの中のカセットトイレが満タンになってトイレの小さなコンパートメントに尿がこぼれた。私達、旅行中はほとんどクレジットカードで当地の現金をおろして使用していたが、非常時に備えポンドの現金をトイレの壁にプラスチックに入れて貼っておいた。それが外れて尿まみれになり、キャンプサイトにつくなり、お金を洗って干した。これぞ本当のマネーロンダリング(金洗浄)と二人で笑いあった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 シシリー オウガスタとノト

2025-07-24 18:09:50 | 旅行

エトナ山に登った翌日、シシリー一周の旅に出発した。キャンパーの旅で不便なのは大きな町へ行くときに車を停めて観光旅行ができないこと。大都市の場合は近郊のキャンプサイトにキャンパーを停めバスや電車で観光地へ行く。11月も末、シシリーの観光地はほとんどキャンプサイトが開いていなくて、歴史的遺物が多いがサイトの無いカタニア(Catania)やシラクサ(Siracusa)などははじめから計画も立てなかった。その2都市の中間にオウガスタ(Augusta)の名前を見つけ小さな岬の突端と地図では見えるその町へ行って見た。
オウガスタは女性名だがローマ皇帝オウガスタスと何か関係があるかと思って行った。相当大きな町で駐車できるところが無く、町の突端の港と橋でつながれた古城を見ただけで南に進んだ。

 

 

シシリーの南は緯度もアフリカのチュニジアと同緯度にあり、ローマ時代はローマの穀倉地帯と呼ばれた。平地が多くなり耕地はビニールハウスで埋まっている。促成栽培された野菜はヨーロッパ全土へ輸送されるのだろう。もちろん山際はオリーブとオレンジ。
ナクソスのキャンプサイトで働いているドイツ人にシシリーの見所を教えてもらったときにノト(Noto)の名があがった。能登と同じ名前と思って懐かしく是非行ってみようと途中の道路際の大きなガレージの一角で一夜を過ごした。
何も知らないで行ってみたが、大きな町のバス停にキャンパーを停めうまくたどり着いたところは、旧市街の立派な門、中は完全に歴史由緒のある中世都市そのままで、ユネスコの世界遺産に登録されている。

 

町の一角に2009年5月に行われた花祭りのポスターが飾られていた。このような宗教画を花びらや草木で描いた花祭りは3年前に中部イタリアのボルセナで見たことがあるが、なんといっても地域の人々が一体となって素晴らしい芸術を見せてくれるのが感動の元。
ここの花祭りの通りはメイン道路から横道に入った王宮の前面道路で、道路に絵の下書きが描かれていた。王宮も入ってみたが、ヨーロッパの素晴らしい装飾は無く質素で見所が無かった。この王宮のバルコニーから見下ろす花祭りの写真が絵葉書になっている。そしてバルコニーの下の素晴らしい装飾も絵葉書になっていた。。

 

土産屋で売っている絵葉書の中に、トルコのパムッカレのように真っ白の岩に若者たちが水着姿で座っている写真があった。観光案内所で聞くとこのノトから少し戻って山に入ったところだという。すごく期待して行った所は、九十九折の山道を1時間も登り、深い谷間の見える駐車場。小さな小屋では谷に降りるチケットを売っており英語の全然わからないイタリア人のおじいさんが数人谷間を指差す。望遠カメラで深い谷を流れる細い川と岩が見えアレがそうらしいと判ってガックリした。もちろん崖を降りたら上がってこなければならないから、当然あきらめた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 シシリー エトナ山

2025-07-24 17:28:49 | 旅行

キャンプサイトは海岸線の町ナクソス(Naxos)にありだだっ広いスクエアにキャンパーと反対側にバスが数台泊まっているだけのキャンピングプラッツで 一泊10ユーロと安い。私たちのキャンパーの隣にはスマートカーを引き連れている長さ10メートルくらいの豪華キャンパーが停まっており、オランダ人夫妻だと言う。
ナクソスの海岸から向こうに見える町は海辺だけでなくあんな高いところにどうして・・・と驚くほどの高さに町が見える。反対方面に煙を吹くエトナ山が朝もやの中から顔をのぞかせる。

 

晴れ渡った青空の下、ふもとから蛇行した山道をエトナ山の中腹2000メーターまで上った。道路は大型観光バスが上るだけあって大変立派で途中何度も停まって雄大な景色を満喫し2000メーターの駐車場に着いた。
思い出したのはもう20年以上も前、マルタ島へ2週間のホリディに行ったとき、日帰りのマルターシシリーの船旅をしてこの駐車場まで来たのだ。あの時は早朝の高速艇にひどい船酔いをして、一日中ひどい有様だった。観光を楽しむなんてとんでもない,酔い止め薬で朦朧としていた。

 

 


1986年と2001年にできた火口の跡が駐車場のすぐ近くにある。両方上ってみたが風が強くて火山灰のような細かな砂粒が目にはいる。両方の火口も完全に閉じてしまっているがこの地域は又いつ噴火するか知れたものではない。のぼりとは別の道を遠回りしてドライブしたが、ふもとのほうにも火山石に囲まれた小屋が見えたり、真っ黒の石原が延々と続いて火山独特の風景を作り出している。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 イタリア To Sicily

2025-07-24 04:46:28 | 旅行

ヴェルデ海岸のキャンプサイトの主人に”シシリーへ行く南の道路は山崩れで不通だ”といわれ一山越えて高速道路からフェリー港のあるレギオ・デ・カラブリア(Reggio Di Calabbria)へ行くことになった。田舎の道は十字路へ行くと交通標識が無く迷いに迷い、通り過ぎたマーケットタウンも写真を写す余裕も無く通り過ぎた。高速道路へ着く前に高い山の峰から谷底へ降りてゆくような道がありキャンパーのブレーキが良く持ったものだと思う。まるでローラーコースタで降りるみたいだった。

走っている途中、オレンジを満載しているトラック、

高速道路はポンペイ以南は無料だが現在拡張工事が行われていて、この道が完全にオープンしたときには有料になるだろうと思われる。今現在は一車線でとても高速とはいえない。R,D,Calabria に近づく従い道路は海岸に近くなり、眼下にすばらしい岬の町が見えた。その町の真向かいにはシシリーの細長い岬の突端Torre Faroの赤と白の塔が見える。この海峡は本土と島の間が10Kmも離れているかどうかは判らない。

 

R,D,Calabriaの港でフェリーの予約をし午後1時に出発,航海時間は30分、フェリー代はキャンパーと二人で40ユーロだった。対岸に見えるシシリーはかすんではいるが高い山から白い町並みがうっすらと見える。フェリーが港を離れると、イタリア本土の町並みや高速道路、鉄道がはっきり見える。相当大きな町が海岸に沿って横に伸び山の上にも町や村が造られているのが良く見えた。

山頂にお城か教会が見える。

シシリーの港の入り口には金色の像が建っていて、下にはたぶんラテン語ではないかと思われるBenedicimusの文字が刻まれていた。港で一番目に付くのは巨大な豪華観光船で地中海一周の旅にここへ立ち寄ったものだろう。望遠で撮ってみると、こんな豪華船にも一つの窓に洗濯物が下がっていた。シシリーはカソリックの信仰心が特に篤くこのメッシーナ(Messina)の町には大聖堂や教会の屋根がたくさん見える。

 

 

フェリーを降りるとまっすぐ高速道路をさがしメッシーナの町を抜け、Giardini Nexosのキャンプサイトめがけて南下した。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 イタリア 西海岸 Costa Verdi

2025-07-22 20:53:08 | 旅行

ブーツのハイヒールの部分から土踏まずに当たる部分はタラント湾と呼ばれる穏やかな海でガリポリから海岸線200Kmを南下する。さすがイタリアの道路だけあって、野原の道はまっすぐ。この地域最大の町タラント(Tarano)を迂回するのに途中で工事中、通行止めのサインで悲しいかなイタリア語が読めない。怒り心頭の亭主はあらゆる道に入り込み、ますます道がわからなくなり、イヤーほんとに大変だった。

国道E60を南下すると温暖な気候で周囲はますますオレンジの畑ばかり。収穫期なのでオレンジ満載のトラックやトラクターが行きかう。時々現れる城砦は中世のものだろう。
この夜海岸の松林のキャンプサイトに泊まった。ものすごく大きなキャンプサイトで、サイト専用の浜辺もある。シーズンオフのこの頃は3台のキャンパー、キャラバンが泊まっているのみで、一泊14ユーロ、ところが夏の最盛期には1泊48ユーロにもなる。

翌朝は青空の中キャンプサイトから近くのロッサノ(Rossano)という町へ行ってみた。ここはサイトの観光案内書によればローマ時代から山頂に造られた町だとのことで山下の新市街から延々と蛇行した急坂を登って行った。途中で道は2つに別れたどり着いたところは、山頂より一段下の町だった。がけの上に並んでいる建物は、正面ではないらしく、洗濯物が翻っている建物の裏の部分だった。良くぞこんな高いところに町を造ったものだと感心しながら降りて先を急ぐ。町外れの墓地は新市街を望める素晴らしい場所を占めていて、この国がカソリックで信仰心の厚い国民だと良くわかる

 

 

カタンザロ(Catanzaro)から西海岸へ横断する道が最短距離にあるため、そこで昼食休憩、谷間の準高速道路を快調に通り抜けた。今夜のキャンプサイトはギリシャで出会った”洗濯機男”に教えられた海岸にへばりつくように作られたサイトで、サイトへ降りる道が狭いジグザグ急坂、こんなところを10メータくらいのキャンパーがどうやって上り下りできるのだろうとひやひやしながら降りた。
相当数のキャンパーが泊まれる敷地があり、2泊した間にドイツとオランダのキャンパーが出入りしていた。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 イタリア レウカ岬

2025-07-22 01:29:19 | 旅行

キャンプサイトは私たちだけが泊まっており、あたりは野生の朝顔が地面を這って花盛り。

長靴のハイヒールのような岬の突端はレウカ岬(Capo de Leuca)とでも呼ぼうか。ガリポリをベースにしてこの岬の突端から東海岸線を一回り観光旅行の計画を立て、海岸を右に見ながら南下、きれいな砂浜の小さな町がほとんど無人のようだ。この地域は夏には人口が何倍にも膨れ上がるのだろう。

レウカの町は紺碧の海に純白の建物、たまにカラフルな建物は教会か古いお屋敷、とってもきれいなリゾート地だ。ただ岩場が恐ろしくぎざぎざで嵐にあって波に押し流されてこの岩の上に流れ着いたらどうなるだろう。まるで大根おろし機で摩り下ろされるようだろうと思うとゾーとする。

 

東海岸のカストロ(Castro)はその名のように純白の町の真ん中に立派なお城がそびえて、なかなかすばらしい・・・・・がこのような坂道の町にはキャンパーを駐車する場所が無い。停車さえ難しくて通り過ぎるしかない。カストロを過ぎてSannta Cesarea Termeという町でキャンパーを停めた。何の気なしに海を見下ろしてびっくりした。まっすぐそそり立つがけのしたの真っ青な海、がけはチーズカッターで切ったようにまっすぐでこれらがいまだに人口にできたプールかそれとも自然にできた岩場なのかわからない。軽石のような穴が大きく開いたラフな岩がまっすぐに切り取られ船着場と20メータプールができていて、岩場はあちこち階段が切り刻まれている。釣り人はたくさんいた。
もしかしてここは戦時中ドイツの秘密港だったかもしれない。インターネットを調べてもこの町がプールのある観光地だとしか判らずしまいだった。

 

オトラント(Otranto)までの海岸線は岩場の間に松の木がのびているだけの岩場で、まるでサイの河原のようだった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 イタリア ガリポリ

2025-07-21 06:55:48 | 旅行

フェリーに乗ったのが早かったから、降りるのは一番最後、下船したときは10時を過ぎていて、フェリーポートのトラックが駐車して一夜を明かす巨大な駐車場で一泊した。翌朝すっきり目覚めたら何百台も停まっていたトラックがほとんどいなくなって、大きな空間が広がっていた。バリーから南のブーツのかかとの部分ガリポリまで180km無料の高速道路を通って南下した。バリーからブリンディシュ間ではアドリアテック海の海岸に平行して走る。周囲は巨大なオリーヴの林とその間に黄緑と赤のレタスの若葉が規則正しく植えられていた。アレだけ規則正しいところを見れば相当機械化が進んでいると思われる。
遠くの空に大きな気球のようなものが現れ瞬間に変形するのが面白く、近寄って見ればなんと小鳥の群れが一団になって飛び回っていた。まるで紅海の魚の群れと同じだった。

ガリポリはタラント湾に面した岬の小さな町で、岬までは新市街。岬の突端に橋でつながれた島が旧市街になっている。橋のわきには城砦がでんとそびえているが中は改修工事で入れなかった。小さな島は17-18世紀に作られた教会が14軒もあり、その島とは3倍は広い新市街に3軒の教会があるのとは大変な違いよう。

バイクかミニカーくらいしか入れない狭い中世の街路はまったく迷路で、見るものといえば教会の表示板くらい。何しろ月曜日は博物館も教会も、すべてが閉まっているから厄介だ。

島の周囲は高い石垣が張り巡らされていて、どんな嵐にも負けないだろうと思われる。ギリシャとは一味違うしゃれた色合いの家屋が目に付く。

新市街の歩道は、さすがイタリア、幅広く芸術的な模様がしゃれている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 ギリシャからイタリアへ

2025-07-21 05:03:07 | 旅行

午後3時過ぎにはイグメニッツアの港に着き,明朝のフェリーの予約を確認した。イタリアはディーゼルが高いと知っていたので近くのガレージで満タンにし、明日からに備える。
この夜は港の大きな駐車場で一夜を過ごした。大きなトラックが12時ごろまで出入りしてうるさかったが、いつの間にか寝入った。

翌朝5時半には亭主に起こされ、6時半にはフェリーに乗る準備、フェリーに乗ってもあたりはまだ暗く一晩中明かりがついている駐車場以外は夜の雰囲気だった。フェリーはオープンデッキという二人とキャンパーで12時間乗って137ポンドと格安。デッキの上でキャンパーはその一番隅に停車したので、キャンパーの窓から海も周囲の景色も良く見える。

フェリーは8時半に出航した。この日は一日中晴れ渡り、本土とコーフー島の間のイオニオン海からアドリアテック海に乗り出しても、波ひとつ立たず湖を渡っているみたいだった。お昼まで乗客が集まっているラウンジで本を読みながら、カメラのバッテリーを充電していた。
ブルガリアの若者たちが10人近く、イタリアへ出稼ぎに行くのか隅に陣取りタバコを吸い始めて、いたたまれなくなり、キャンパーに戻った。
キャンパーの窓から海を眺めているとフェリーから逃れる魚がジャンプする。大きさ30センチくらいで、フェリーが群れの中に突っ込んだらしい。遠くに雲を抱いた陸地はアルバニアだという。あの国だけは行かないほうがよいと、ドイツ・カナダのキャンパーの人が言っていたっけ。
お昼はキャンパーで昼食を作り、お茶を飲んだりゆっくり昼寝もしてこんな楽な航海をしたことは無いと思う。

 

夕方水平線に太陽が沈み、夜9時過ぎイタリアの港バリーに着いた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 ギリシャ シボタ(Sybota)

2025-07-20 19:45:28 | 旅行

 

ギシオン・ベイ・キャンプサイトで親しくなったオーストラリア人のジュディはギリシャ人と結婚していて、シボタに住んでいるという。旅行社を営んでいるから、夏は休みが取れなくて、11月にゆっくり休むのだといっていた。私たちがイグメニッツアからイタリアに行くと言ったから、彼女は地図を見せてシボタの場所を教えてくれた。
そこはコーフー島(コルフ島)がまっすぐ目の前に見える海岸の小さな町でイグメニッツアから10Km ほど離れている。
プレヴェザから海岸に沿って北上するうちに、がけ崩れや、地面の陥没で寸断された道路を通った。ギリシャはほとんどが禿山で集中豪雨に耐えられる山や野原がほとんど無いと思われる。

 

 

 

 

シボタへは幹線道路をそれて一山越さねばならぬ。急坂の山道を登ってゆくと、ヤギの群れが降りてきた。大きなヤギは立派な角を持っている。ヤギはこの国の有名なフェタチーズを作る原料だから、いたるところで放牧されているが、こんなにたくさん見たのは初めてだった。ヤギはほとんど乾燥して草の無いところでも生きてゆける強い動物で、この国の山が禿山なのもヤギのせいでもあるかもしれない。

 

 

 

山頂から見えるシボタの海岸線は素晴らしく、山間の村を越すと道は急坂の下りになった。
ところどころに、ホテルや、民宿の看板が見え、夏はこの道も車で混むのだろうと思う。この地方は外国のホリデー客よりギリシャ人の隠れた人気場所になっているそうだ。


お昼にはシボタの海岸線でゆっくりし夕方までにイグメニッツアへ行けばよい。町はほとんどのレストランが閉まっており、スーパーマーケットが一軒と教会が開いていた。小さな一本道のメイン道路はお土産店が並んでいて、なかなかしゃれたアクセサリーなど飾っているが、それらもほとんど閉まっていた。ジュディの旅行社はここかなと思いながら町を散歩したが、この日は英国の夏より暑かった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 ギリシャ Way to Preveza

2025-07-20 05:35:08 | 旅行

11月にしては信じられないくらい真っ青な空のもと、ペレポネソス半島を去る。イオニアンビーチキャンプサイトのイギリス人達とイーメールアドレスを交換して、まずは100Km 北のパトラへ向かった。パトラはこの地方最大の港町でありペレポネソスと本土をつなぐ有料の橋があるところだ。このパトラのフェリーポートにはイタリアの多くの港へ行くフェリーが出ているが、インターネットで希望のフェリーを探すことができなかった。ペレポネソスと本土の間にはコリンティアコス湾が伸びていて、ここパトラとコリントスで本土が橋で結ばれている

 

本土へ渡ると遠くに雪山が見え、ギリシャも冬は寒いことが良くわかる。パトラから90Kmほど内陸の国道を走ると時々湖や山頂の村々などが現れる。アムフィロキアの町からは巨大な入り江が現れ、プレヴェーザを目指して鏡のように澄んだ入り江に沿った道を走った。

何処を見ても絵葉書になりそうな素晴らしい景色で、一晩このあたりで過ごせたらと思ったけれど、後2晩でギリシャを去る。

 

 

プレヴェーザの対岸の村は丘の上に城砦を抱いたきれいな町で、観光化されていないようだった。湾の入り口はこの村とプレヴェーザを結ぶ細長い平地の突端で、そこは3Kmのトンネルで結ばれている。こんな平地でトンネルを掘って洪水が起きたらどうなるのかと真剣に考えてしまった。

プレヴェーザのはずれにあるはずのキャンプサイトは完全に廃業していて、その近くで聞いたホテルの庭に駐車させてもらった。道端に駐車するよりも安全だからだが、電気がないとカメラのバッテリーも充電できず、真に不便だ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 ギリシャ Ionion Beach

2025-07-20 02:43:56 | 旅行

キャンプサイトに泊まらない時は、電気が引けないのでテレビやDVDが見られない。昔はテレビが無くても困らなかったのに、いったん便利な生活に身をゆだねてしまうと、なかなかそこから出られなくなる。まるで麻薬と一緒かも。村の道端で一泊したときは安全に関してはあまり心配しなかったが、車のバッテリーの電気では明るくないし、テレビがないと静か過ぎてつまらない。
もう一箇所に開いているキャンプ場を捜し求めて、とうとうたどり着いた。そのイオニアンビーチキャンプサイトには英国からのキャンパーが2台も停まっていた。

 

一台は長さ9.5メートルの豪華キャンパーで、40代の夫婦と犬一匹、キャンパーの外に暖かいお湯が出るシャワーまで備えられて、犬が転げまわって汚れるとシャワーで洗っていた。
あまり大きなキャンパーではギリシャの田舎道を走り廻ることはできない。それで彼らは小型車をレンタルして、あちこち行くとのことだった。このキャンパーの夫婦、ビビアンとアランはギリシャで働いて生活するのが夢だった。二人とも良い仕事を持っていたのに、すっぱりと辞めて、家を売ってこのキャンパーを買ったという。
アランはヨットのスキッパーの仕事を求めて北の港まで面接に行ってきたがだめだった。それでも今もそのイオニオン・キャンプサイトに住んでいるところを見ると、何か仕事が見つかったのかもしれない。ビビアンには私のコンピュータを見てもらったり、オペラのDVD を貸してもらったりして、数日3台のキャンパーが行き来して、仲良くなった。

 

 

 

もう一台は6メーターのキャンパーに30代の男性と犬一匹、彼はほかに6メーターのトレーラーを引いていて、3ヶ月前に英国を出てフランス、スペイン、ポルトガル、スペイン、フランス、イタリアそしてギリシャの海岸線を全部走りこのサイトに到着したという。トレーラーの中には発電機を持ち4輪バイクと家庭用サイズの洗濯機を載せていた。水道をつなげば洗濯機を使えるようにしてあるという。彼の名前を聞くのを忘れたから私たちの間では”洗濯機ボーイ”と呼んでいた。彼は最終的にキプロス島へ渡ってそこで溶接工として働きたいといっていた。やはり働かないで、何年も遊んでいるわけには行かない。

 

キャンプサイトは大きく、良く手入れのされた庭には今もブーゲンビリアとハイビスカスの花が咲き、英国では決して見られない琵琶の花が真っ盛りだった。

 

キャンプサイトから2Km離れた村には小さなお店が2軒あり、散歩兼ショッピング、村にはおじいさんが3人道端のテーブルで、ウゾ(アニス酒)を飲んでいたが、ほかには誰もいなくて、遠くてオリーヴの木を切っているモーター音がするくらい静かだった。
初日には荒れ狂っていた海も3日目には静かになりそれから3週間も晴天が続いた。

 

こんな片田舎の人口も少ないだろうに、教会だけはりっぱだった。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 ギリシャ カストロ

2025-07-19 05:00:50 | 旅行

ギシオン・ベイのキャンプサイトに居る時に、インターネットでギリシャからイタリアへ行くフェリーの予約をしていた。オリンピアを去ったときには、フェリーに乗るまでまだ一週間も待たねばならぬ。フェリーポートはギリシャ本土のアルバニアに近いイグメニッツアで本土には11月に開いているキャンプサイトがほとんど無い。

オリンピアから真西の海岸にキャンプサイトが2箇所あるのを見つけそこらあたりで数日を過ごすことにした。オリンピアから65Km 西の海岸キリーニ(Kyllini)の港町で、一人でキャンパーで旅しているドイツ人のおじいさんに出会った。水の補給さえあればシャワーもトイレもキャンパーにあるからと、ほとんどキャンプ場に泊まらず旅しているという。町の広場に飲み水の水道があり、せっせとキャンパーのタンクに注入していた。
私たちはキャンプ場以外に泊まったことが無く、ギリシャ本土へ行けば数日は何処でも泊まらなければならない。今回は試しにと水をしっかり補給して、ドイツ人のおじいさんが言っていたカストロへむかった。

 

収穫したオリーヴの実で満杯の袋

カストロはその名の通りに丘の頂上に大きな城砦を抱いた小さな村で、村のオリーヴ集積場は出入りするトラクターでにぎわっていた。大きな袋が一面に積み上げられて、ギリシャ人はオリーヴだけで生計を立てているように思える。この日お城は閉まっていたので翌朝行くことにして、カストロの村の中心地の道路わきに駐車した。この夜は強風、雷雨で村は9時には人通りは絶え、一晩中吹き荒れた風雨以外には何の音もしなかった。

雨の上がったこの朝、城砦へ向かう村での一角で雨具を着込んだたくさんの若者を見かけた。この小さな村にこんなにたくさんの若者がいるかしらと思いつつ、城への坂道を登った。クレモウツィ城(Chlemoutsi Castle)は13世紀に建立された大きな城砦で内部はほとんど崩れているが、城壁と城の一部はいまだに健在だった。

 

城からの帰り際に一人の若者と出会い、彼がアルバニアからの出稼ぎ人だと知った。アーそれで今朝の若者の集団が・・・・と判った。アルバニアはまだEUには加入されていないしこのバルカン半島では一番貧しい国だ。見たところ大学生くらいの若者たちは、ギリシャのオリーヴ収穫のための助っ人として雇われているのだろう。

 

午後には開いているはずのキャンプサイトへ行ったが誰もいない。サイトは開きっぱなしで七面鳥の夫婦があたりを歩き回っている。オス鳥は私たちを威嚇するため羽毛を立てて膨れ大きく見せていた。本当にかわいくない鳥だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年 ヨーロッパキャンプ旅行 ギリシャ オリンピア

2025-07-19 04:11:56 | 旅行

南山大学名誉教授国分啓治氏(1907-1997)はこのオリンピック競技に関し文献に多大な寄与しギリシャと日本国から受賞され、此の地に眠る。

オリンピック発祥の地オリンピアはもちろん世界遺産に登録されている。オレンジが実るこの地では、シーズンオフのため観光客は少なく、ゆっくり博物館と遺跡を巡ることができた。日曜日のためかわからないが、この日は入場無料とのこと、助かった・・・というのは財布をキャンパーに忘れていったから。

 

雨が激しかったので、はじめに博物館を巡る。ここにも遺跡で発掘された、あらゆるものが展示されているが一番気に入ったのが赤子のディオニッソスをあやすヘルメス像。2000年以上も前にこれほど精巧にこれほど気品のある若い男性像を作り上げた芸術家がいたというだけで驚いた。ルネッサンスにはこれらギリシャ時代の像が大きな影響を与えたというのが良くわかる。西洋の美男、美女の基準はギリシャ時代に造られたのであろうか?日本では平安朝におたふくが美女の基準で有ったと言うが、なんと言う違い・・・。


勝利の女神ニケの像は顔も両手も破壊されて苦心してつないであるが、衣服が風にひらめいている様子など動きのある石像で、これもすごい芸術品だ。

紀元前1世紀にはヨーロッパ・地中海世界を制覇したローマ帝国に手厚く保護されたオリンピアでは、ローマ皇帝の像も多く、特に若い皇帝ネロはオリンピックに出場したという。彼の泊まった屋敷跡も見ることができる。古代オリンピックが行われたスタディアムはトラック30メータ長さ192メータで2万人の観客を収容できたという。古代の競技に思いをはせ雨の中をこのスタディアムも歩いてみた。2400年前に人々は音楽やスポーツを楽しみ生きていたと思うと文明は今も昔もあまり変わらないものだと不思議な思いにとらわれた。

 

崩れ落ちた遺跡を巡っているうちに多くの巨石に貝殻の化石が埋め込まれている。太古の昔の海底が地上に現れ石化したものを切り出して積み上げたものだろう。きっとこの石の表面には大理石板をはって隠しただろうと想像するのも面白い。

 

遺跡を出て帰る道筋に新しいオリンピア博物館がある。中はオリンピック競技で優勝者がどのような扱いを受けたかがわかる。勝者は家をもらい、一生働かなくてもよいとか。(韓国のオリンピック勝者がほとんどこれに当たる)。勝者は月桂樹の葉で作った冠をもらったと聞いていたがこれは野生のオリーヴだということだった。

 

キャンプサイトは町から近く、数年前に山火事が発生して、この町のほんの手前まで火の手が回り、サイトの主人は奥さんと車でアテネまで逃げたという。幸いにも風向きが変わって町の2Km 手前で延焼を免れたそうだ。英語が話せる白髪の主人は目をくりくりさせていかにに恐ろしかったかを話してくれた。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする