2007年に腎臓がんで他界した池田晶子さん、遺された未発表原稿を集成した作品だそうです。
病室で書かれたという絶筆コラム(人間自身より)がその冒頭に書かれていた。 抜粋する。
古代ローマだったか現代のローマのものだったか、墓にいろいろな書き物を遺す習慣があるという。
人生つまり、その人間の最終形がそこに刻印されている。 人生の〆の一言である。
・・・・・・・ こんな墓碑銘が刻まれていた。 『 次 は お 前 だ 』 ・・・・
他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は嫌でも思いだすのだ。
それを見越してこの文句、大変な食わせものである。 ・・・・・・。
それなら私はどうしよう。 一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。
ならこんなのはどうだろう。
『 さて死んだのは誰なのか 』 ・・・ 不意打ちを喰らって考え込んでくれる人はいますかね。
左は 『私とは・死とは・魂とは』 の三部作(サブタイトルがいずれも【さて死んだのは誰なのか】)
右は 『暮らしの哲学』・著者の最後の1年間、春夏秋冬を哲学する。 世の不思議を感じる名著だ。
そのもの言いでネットなどでも少なからず誤解もあるようだが、鼻っぱしが強いのは魅力でもある。
そう 無欠な人間など何処にもいないのだ。 『暮らしの哲学』 (毎日新聞社刊)は是非読んでみて!
彼女の偏奇の匂いに魅了される。 とにかく面白い。 もの思いに耽る秋の夜長にはピッタリの一冊です。
あの元プロ野球の野村監督も選手に<考えること>を指南するとして数十冊買い求めたという本もある。
買い求めたのが みなさんよくご存じの 「サッチー」 こと沙知代夫人。
そして買い求めた著書名が 『 悪妻に訊け 』 というではないか。 選手も大変だったでしょうね(笑)。
( 『悪妻に訊け』 は単行本でも刊行されているが『無敵のソクラテス』の中にも再編されている)
夏も過ぎ そろそろ秋だ。 著書 『暮らしの哲学』 秋の章に 藤原定家の こんな歌を載せていた。
見渡せば 花ももみじもなかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ
さて 読書で もの思いに耽ってばかりもいられない。 スポーツの秋でもある。 少し身体でも動かすとしますか!
病室で書かれたという絶筆コラム(人間自身より)がその冒頭に書かれていた。 抜粋する。
古代ローマだったか現代のローマのものだったか、墓にいろいろな書き物を遺す習慣があるという。
人生つまり、その人間の最終形がそこに刻印されている。 人生の〆の一言である。
・・・・・・・ こんな墓碑銘が刻まれていた。 『 次 は お 前 だ 』 ・・・・
他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は嫌でも思いだすのだ。
それを見越してこの文句、大変な食わせものである。 ・・・・・・。
それなら私はどうしよう。 一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。
ならこんなのはどうだろう。
『 さて死んだのは誰なのか 』 ・・・ 不意打ちを喰らって考え込んでくれる人はいますかね。
左は 『私とは・死とは・魂とは』 の三部作(サブタイトルがいずれも【さて死んだのは誰なのか】)
右は 『暮らしの哲学』・著者の最後の1年間、春夏秋冬を哲学する。 世の不思議を感じる名著だ。
そのもの言いでネットなどでも少なからず誤解もあるようだが、鼻っぱしが強いのは魅力でもある。
そう 無欠な人間など何処にもいないのだ。 『暮らしの哲学』 (毎日新聞社刊)は是非読んでみて!
彼女の偏奇の匂いに魅了される。 とにかく面白い。 もの思いに耽る秋の夜長にはピッタリの一冊です。
あの元プロ野球の野村監督も選手に<考えること>を指南するとして数十冊買い求めたという本もある。
買い求めたのが みなさんよくご存じの 「サッチー」 こと沙知代夫人。
そして買い求めた著書名が 『 悪妻に訊け 』 というではないか。 選手も大変だったでしょうね(笑)。
( 『悪妻に訊け』 は単行本でも刊行されているが『無敵のソクラテス』の中にも再編されている)
夏も過ぎ そろそろ秋だ。 著書 『暮らしの哲学』 秋の章に 藤原定家の こんな歌を載せていた。
見渡せば 花ももみじもなかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ
さて 読書で もの思いに耽ってばかりもいられない。 スポーツの秋でもある。 少し身体でも動かすとしますか!
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