無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

刑法は国民の行動の自由を保障するもの

2007年09月20日 | Weblog
今日の言葉

◎刑法は、国家権力が強制的手段をもって取り締まる範囲を限定するもの。


上の言葉はヤメ蚊さんのブログより引用。

ヤメ蚊さんは、刑法で取り締まる範囲を明らかにすることにより、市民の行動の自由を保障している。と言っている。

刑法について述べる前に「所詮、インテリのキレイゴトに過ぎない」と某ブログに書いてあった、その「サルトル」の言っていることを載せておく。
確かに哲学書のため「即自」とか「対自」とか難しい言葉で語られているので、読解の時間がない人にとっては「インテリのキレイゴト」といって済ませてしまいたい気持ちになるのも分かる気がする。そこで私が下記のように優しく噛み砕いて説明しようと試みたのだが、サルトルのいわんとすることと違った解釈になってしまったかも知れない。以下、「悪の投影」について

◎否定的契機の投影(悪の投影)

人間は自己の内から否定的契機(*)を放出し他人に投影する。

*否定的契機とは、社会生活をする上で否定(抑制)する必要性を持った、あるいは持たされた人間の本質(本能・欲望)の部分だ。

この投影・カタルシスは現実には悪となって他に転嫁されることを意味する。

こうして人間は善人と悪人に分かれる。

この分化は社会的に形成される。そして「善良なる者」はみんなが「悪」と決め付けた者を認めようとしない。

「悪」を認めることは、自分が悪であることを認めることになるからだ。

悪人を理解できるのは悪人だけだ、ということになる。

「善良なる者」は、「悪」は「他」であって自分ではない、として安心する。

人は、もともと自分の中に固有にもっている非正常なもの=「悪しき感情・欲望」を他人のものとしてしまい、表に出てしまわないか(誘惑に負けはしまいか・社会の中で行動に出てはしまわないか)と不安に思う「悪しき感情・誘惑・行動」を、みんなの中で「アイツは犯罪者だ」といって他者を批難することにより、「自分は犯罪者ではない」と皆にアピールをし、自分は「善」であるとの「安心」を得る。

以上、昨日の竹内氏の著書で言っている「人はみんな多重人格者」の一部をサルトルの実存主義で説明した。
人はみんなハイド氏の一面(人格)も持っているのである。

国(権力者・政権政党)は、物理的な恐怖と共に、この人間心理を巧みに利用する。

その例が「アカ狩り」である。戦時中、国が共産主義者を「悪」と規定し、戦争に反対する者=共産主義者=アカ=悪人=犯罪者として、特高による「赤化分子」取締りが行なわれたが、その時の国民は内心に「戦争はイヤダな」と思っていても、それを表に出すと「おまえはアカ(悪)だ」と決め付けられるので、他者を「アカ(悪)」と批難することで自分は「アカ(悪)」ではないとみんなに思わせ、安心を得ることになる。

もっとも、隣組制度により、自分の所属する組から「戦争反対の赤化分子(犯罪者)」を出した場合、隣組全員同罪(連座制・連帯責任)であったための「不安」心理も働いていたが、一般の恐怖政治体制のもとでは、よくこの人間心理(集団心理)が使われ、ヒットラー・ナチスのように国民的ヒステリー状態を作り出す。

話はそれるが、隣組の「犯罪連座制」では、同じ隣組の中の「赤化分子」を役所に「おおそれながら」と連絡(密告)すれば、その人(家族)は「お咎めなし」となったのである。隣組はまさしく独裁政治の反対分子を摘発する「相互監視制度」であり、戦後、民主的考えをするGHQにより即廃止されたのも頷ける。

政府が目論む「向う三軒両隣」といったほのぼの人情イメージによる「隣組」の復活には充分目を光らせて注意していて下さい。

さて、前置きが長くなったが、本題に入る。

毎日毎日色んな出来事がおきて、書きたいことがどんどん溜まっていく感じだ。

今日、ニュースで、深夜携帯でメールをしていた高校生が途中で電池切れとなったため、充電器は持っていたのでどこかにコンセント差込口はないかと捜していて、とあるコンビニの外側にあるコンセント差込口を使って充電していたところをたまたま見廻っていた警察官によって「逮捕(書類送検)」された、という報道をしていた。
コンビニの被害額は電気代1円相当である。しかし、警察官への態度が悪かったのか、その少年は「犯罪者」となってしまったのである。

ここで、「津久井進の弁護士ノート」を思い出した。

「津久井進の弁護士ノート」9月4日
http://tukui.blog55.fc2.com/blog-date-20070904.html

(引用開始)
痛めつけられた政治屋たちが,息苦しく締め付けられた自分たちへの仕打ちを,今度は,私たち国民の日常生活へも,同じように押し付けてくる可能性は大である。

政治家への(政治倫理に基づく法の)締め付けと,国民への締め付けでは,全く意味も性質も異なるのである。
私たち国民も,そのことをよく理解しておかないといけない。

コンプライアンス(法に従う)の本当の意味を理解せずに,やみくもに形式的な「法令遵守」を振り回すのはとても危険だ。
この社会の雰囲気には,注意を要する。 
そのようなヒステリックな大衆エネルギーが,一市民である私たちに同じように向けられるとしたらどうだろうか。
とても怖いことである。 …引用終り

刑法について基本的な考え方が載っているのは「ヤメ蚊」さんのブログです。

「ヤメ蚊」さんのブログ8月28日
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/d/20070828

日本の裁判所は、法に触れたらただちに逮捕を認め、有罪だと判決する。だから、例えば、昨年、大阪市内でディーゼル車を運転したことがあるというだけで、次のように、道路交通運送法違反で逮捕したりすることができる。

【大阪でホームレスを支援しているというだけの理由で一人の人が理由もなく逮捕されたのです。逮捕理由はディーゼル車を運転したということ。なんじゃ、そりゃ?確かに首都圏や関西など地方の政令指定都市では排ガス規制があって、数年前から、キャタコンという装置をつけたディーゼル貨物車輌以外は乗り入れが禁じられた。そのあと追い討ちをかけるように、たとえキャタコンが装着されていても、一定の年式よりも古い貨物車輌は車検を通さないというお触れが出た】( ※1、詳しくは※2)

 マスメディアは、いまのところ、報道していないようだ。だれでもが犯しうる行為を利用して逮捕すること~これまで単純に運転をしただけで同じ罪名で逮捕されたことはないらしい~を異常だと思わないのだろうか…。

 そもそも、多くのマスメディアや市民の間では、刑法に対する考え方が根本的に間違っていると思う。

刑法というのは、国家権力が身体的拘束を伴うような強制的手段をもって取り締まる範囲を限定するものだ。
取り締まる範囲を明らかにすることで、市民の行動の自由を保障しているわけだ


つまり、刑法で規定された犯罪類型に当たる行為をしなければ、逮捕されたり、起訴されたりすることはない…ということだ。

 そして、刑法で規定された行為を行ったからといって、それだけで、直ちに、国家が強制力を行使する必要はないし、そうすべきでもない。強制力を行使するに値するような違法性の大きい行為であって初めて、強制力は行使されるべきなのである。

 例えば、米国では、公務員が情報を漏洩しても、その情報が社会的に伝えられる意義がある場合、最高裁は、罪に問わなかったという。

 これが日本では、西山事件(外務省密約事件、※3)のように、形式的に秘密を漏らしたことをもって有罪となるのではないだろうか。あ、刑法に対する考え方を間違っているのは裁判所もだったねぇ…。

 これって、やっぱりおかしい。国家が市民の自由を保障するためにある刑法を利用して、国家が自分に敵対する者を弾圧する…。…引用終り

ヤメ蚊さんのブログで結論が出ているので今日はここまでにします。(又、「裁判員制度」を閉め忘れた。)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿